中井均(滋賀県立大教授)


 先日、小牧山城跡(愛知県小牧市)で、今年度実施された発掘調査成果の発表があった。小牧山城跡では数年前より発掘調査が継続しておこなわれており、数々の成果をあげている。その最大の成果は何といっても石垣の検出であろう。

 城なのだから石垣が使われていて当然と思われるかも知れないが、実は戦国時代の城に石垣はほとんど用いられていない。日本列島には14世紀から17世紀に至る300年の間に約3~40,000にのぼる城が築かれたのであるが、そうした中世の城は文字通り土から成る土木施設であった。

 こうした土の城を石の城へと一変させたのが織田信長であった。信長は石垣に止まらず、瓦、礎石建物をも導入し、それまでの城郭とはまったく異なる城郭を築いたのである。この3つの要素を持つ城の出現は、日本城郭の革命的変化といっても過言ではなく、今見る城の祖形が誕生したのである。3つの要素を今少し詳しく分析すると、石垣は高石垣、瓦は金箔瓦、礎石建物は天主に置き換えることができる。この3つの要素は単に軍事的な防御施設ではなく、見せる城を意識したものと考えられる。戦国時代の城が戦うことに重点を置いていたことに対して、信長の城は天下統一を具現化するシンボルとしての見せる城を意識したものであった。

小牧山の航空写真(小牧市教委提供)
 ところで、従来では石垣、瓦、礎石建物を伴う城として最初に築かれたのは、天正4年(1576)の安土城(滋賀県近江八幡市)だと考えられていた。それが小牧山城跡の発掘調査によって再検討する必要が生じたのである。さらに岐阜城跡(岐阜県岐阜市)でも近年の継続的な発掘調査によって大きな成果があがっている。

 岐阜城は金華山の山に築かれた山城と、山麓に構えられた居館から構成される山城である。近年、その山麓の信長居館が発掘され、ほぼ全域が石垣によって築かれていることが明らかになった。石垣には巨石が用いられ、その構築には高度な技術者集団が関与していたことはまちがいない。さらに門があったと考えられる個所からは金箔を施した飾り瓦をはじめ軒瓦が集中して出土しており、門や主要な建物には瓦が葺かれていたことも明らかとなった。これら石垣や瓦は信長時代のものと考えて間違いない。

 つまり信長の見せる城はすでに永禄10年(1567)の岐阜築城によって意識されていたことが明らかとなったのである。

 小牧山では発掘調査を開始する以前から山頂部のまわりに積まれた石材が認められ石垣の存在は知られていたが、いつの時代のものであるかは不明であった。それが発掘調査によって山頂部の主郭まわりがすべて巨石を用いた石垣によって築かれており、その構築年代も信長時代のものと判明した。つまり信長による新しい城造りは岐阜城よりも古く、永禄6年(1563)に築かれた小牧山城までさかのぼることが明らかとなったのである。

 ここで小牧山城跡で検出された石垣の構造について詳しく見ておこう。ほぼ主郭部の周囲に築かれた石垣は二段に築かれているのが大きな特徴となっている。これは主郭周囲を一気に高い石垣を築く技術がまだなく、3~4mを積んで、いったん犬走を設け、セットバックさせて、さらに一段を積む段築工法であった。上段の石垣と下段の石垣は同じ工法ではなく、上段では長辺が2mにおよぶ巨石が用いられている。その石材は粗割りされたチャートが用いられており、石材と石材の隙間には間詰石が詰められているのであるが、どうもただ単に詰めているのではなく、装飾的に配置している。下段の石垣は上段に比べ小さな石材となるが、均等な大きさの石材を選び、横目地を通そうとしている。これも視覚的効果を狙ってのことと思われる。高さを築く限界はあったものの、段築にも工夫のあったことがわかる。

 ところで、石垣の石材に墨書が認められたことも大きな成果である。「佐久間」と判読され、その佐久間とは信長の有力な家臣である佐久間信盛のことであろうと考えられる。信長は石垣の構築に家臣を割り振りをしてあたらせていたようである。石垣構築はその後、割普請と呼ばれる分担体制が確立し、徳川幕府は諸大名を動員する天下普請をおこなう。発見された墨書はこうした割普請がすでに小牧山築城段階に存在したことを示している。

 さて、今年度の調査は主郭の北面で実施されたのであるが、また新たな発見がいくつかあった。ひとつは上段石垣の背面構造が明らかとなったことである。主郭は盛土によって造成されているのであるが、そこに石垣を築いては崩落の恐れがあるため、盛土の前面にまず人頭大の石材を縦に積み上げ、その前面に栗石(裏込石)を充填させて石を積み上げて石垣としていることが判明した。石垣はただ石を積み上げるだけではなく、崩落を防ぐため、背面にこうした工夫をしていたのである。

 今ひとつは、三段目の石垣の発見である。北面もこれまで同様に二段の段築石垣と見られていたのであるがもさらに下段にもう一段石垣が築かれていたことが判明したのである。この最下段の石垣はこれまでの段築石垣の石材に比べかなり小さな石材を用いているのが大きな特徴となっている。また、高さも上の二段に比べてかなり低く築かれている。こうした構造より、見せる石垣というものではないようである。小牧山は南・東・西面は比較的なだらかで、そこを段築して曲輪となる平坦面を築いている。ただ北面だけは急傾斜となっており、曲輪もほとんど構えられていない。三段目の石垣は、急斜面の上部に二段の石垣を築くため、その崩落を防ぐための土留めとして構えられた石垣と見られる。

 今年度の調査によって小牧山城の石垣が、単に石を積み上げるだけではなく、崩落防止のために背面や、基礎も入念に工事が施されており、技術力の高さを知ることができたのである。

 信長の築城では、小牧山城ですでに石垣の導入が始まっていることが明らかとなったのであるが、その石垣は決して初源的な工法ではなく、すでにかなりの水準に達していた石垣技術が導入されていたのである。小牧山城跡で検出された巨石を積むという工法は、後の岐阜城にも用いられており、山麓の信長居館の枡形にも巨石が用いられている。おそらく小牧山築城に参加した石工集団が岐阜築城にも動員されたものと考えられる。 

小牧山城跡で検出された石垣
 ところがこれまで信長の革命的な築城のスタートラインに位置づけられていた安土城は小牧山城、岐阜城とは様相を異にし、巨石を用いなくなってしまった。一見すると小牧山城や岐阜城の石垣普請に従事した石工集団とは別の工人が動員されたように思えるが、私は同じ工人が関与した可能性が高いと考えている。これまで安土城の石垣は近江の石工によって積まれたといわれているが、その関与を示す史料は後世のものであり、同時代史料は存在しない。常識的に小牧山築城や岐阜築城に関与した工人を利用しないわけがない。むしろ積極的に安土築城に従事したのではないだろうか。石材は小さくなるものの安土城では8mにおよぶ高石垣が出現する。見せる石垣は石材の大きさから、威圧感を与える高さが求められるようになったのである。また、石垣上に重量建物が築かれるようになり、勾配が取り入れられたのである。

 近江では近年石工に関して重要な調査成果があった。それは岩瀬谷古墳群(滋賀県湖南市)の発掘調査で検出された矢穴痕である。花崗岩などの石材を割る場合、まず母岩に鑿(ノミ)で長方形の溝を点々と刻み、そこへ鏨(タガネ)を入れて玄能(ゲンノウ)で叩くと、岩は溝のラインで割ることができる。こうした割り方を矢穴技法と呼んでいる。いわば切手のミシン目の原理で石を割るのである。鎌倉時代に中国より伝えられた技術である。岩瀬谷古墳群の矢穴は13世紀頃のものと考えられ、さらに周囲の少菩提廃寺や善水寺では14世紀に矢穴技法によって割られた石材を加工した石仏が確認されており、矢穴は当初仏教勢力が求めた石造物製作のために導入され、以後寺院の技術として脈々と伝えられる。

 安土築城の20年前、弘治2年(1556)に築かれた観音寺城(滋賀県近江八幡市)の石垣にはこの矢穴技法によって割られた石材が用いられている。さらに観音寺城の城主である六角氏に関わる佐生城(滋賀県東近江市)、小堤城山城(滋賀県野洲市)、三雲城(滋賀県湖南市)などでも矢穴技法によって割られた石材を用いた石垣が残されている。

 このように近江の石垣技術は寺院勢力による矢穴技法で割られた石材が用いられていたのである。この矢穴は信長の安土城には導入されておらず、やはり安土築城に近江の石工は動員されておらず、小牧山城や岐阜城の石垣を積んだ石工集団が安土城の石垣を積んだものと考えられる。

 今回の小牧山城の発掘により、信長の城郭への石垣志向が小牧山築城にまでさかのぼることが明らかとなり、さらにその石垣構築は現場で適当に積んだものではなく、高度な技術によって積まれていたことも判明した。今後は小牧山築城で、その技術がどこから伝えられたものかが大きな課題となるだろう。

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