【激闘の日本史 戦国編・井沢元彦】「どう戦国は終わったか」

 信長以外の戦国大名が採用している徴兵制の第1の欠点は、兵士の9割が農民との兼業兵士であるために、農業が忙しい時期、つまり農繁期には、思い切った戦いはできないということだ。

 たとえば武田信玄と上杉謙信が戦った「川中島の合戦」、前後5回にわたって戦いながらとうとう勝負がつかなかったという。

 その理由は「双方とも名将であったから」ではない。実は戦国大名がいちばん思い切った戦いができるのは晩秋から翌年の春までである。つい最近まで東北の農民が「出稼ぎ」に出ていた時期に重なると言えばおわかりだろう。この時期は農作業がない。だから領主も農民を最大限徴兵して戦争に専念できる。
イラスト・吉田光彦
 ところが信玄と謙信が戦った川中島は信濃国(長野県)で、この時期には雪が降る。また謙信の本国越後国(新潟県)は完全な雪国である。この時代、雪の中で戦う事は出来ない。それどころか下手をすると帰れなくなる。

 つまり川中島の合戦というのは、両者が思い切って戦おうと思っても、その時期は「稲の刈り入れが終わってから初雪の降るまでの間」という極めて短い期間に限定されてしまうのである。これでは決着はつかない。ボクシングで言えば12ラウンドやらずに、常に3ラウンドで引き揚げてしまうようなものだからだ。

 しかも、もう一つ問題なのは、「戦いには勝った。しかし数千の兵を失った」というのは本当の勝利とは言えないことだ。なぜなら兵は同時に農民であり、その分農業の生産力が低下するからだ。これが徴兵制の持つ第2の欠点である。

 そして第3の欠点もこれに関することだが、戦死した兵の補充に極めて時間がかかるということだ。農民一家の父が足軽となって出征して戦死したとしよう。父の代わりはいないから、息子達が成長するまで待たねばいけない。その間数年、下手をすれば十数年かかる。だからこそ思い切った総力戦は出来づらいということにもなる。

 そしてもう一つ、人間タダ働きだと身が入らないということがある。ほとんど無給なのである。いくら家族が人質に取られているからといって、無理矢理命のやりとりをさせられるのだ。ときには「やってられねぇや」と思うこともあるだろう。

 そういう時、大将は「この城を落としたら、城内の物は自由に奪っても良いぞ、女も自由にせい」などと命令を出す。足軽たちは歓声をあげて仕事に精を出す。こうでもしなければ士気を向上させることは難しい。つまり、戦国大名の軍勢は敵の領内に突入したら略奪や乱暴は当たり前なのである。その意味では野盗強盗と変わりはない。

 ここで大河ドラマなどでも散々取り上げられたエピソードを思い出していただきたい。信長が初めて京に入ったとき、部下の兵士に「庶民から略奪するな、乱暴も決して許さぬ」という命令を出し、実際にそれを厳しく守らせたため、信長軍は京の民の信頼を得たというエピソードである。これは確かな記録にもある本当の話なのだが、問題は信長軍にはなぜそれが可能だったか? という点である。

 もうお分かりだろうが他の大名の軍隊だったら、庶民に対して略奪や乱暴を繰り返し、あっという間に信頼を失っただろう。実際、平安時代末期に平家を初めて京から追い出した木曽義仲は、それで民の信頼を失ったのである。しかし信長は兵に給料を払っている。だから兵は略奪などせず、銭を払って商人からちゃんと物を買うのである。


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