【戦国武士秘録 中村彰彦】

 戦国の世は兵農分離以前の時代だから、第一章で見たような雑兵たちには農民もふくまれる。ということは、将たる者が大軍勢を動員して遠征をおこなうのは農閑期にせよ、ということでもある。

 田植え時、稲刈りの季節などに農兵をかき集めようとしたりしたら一揆が起こるかも知れないし、年貢高が減少して大名家の屋台骨が揺らぎかねない。だから上杉謙信はいつも稲刈りがおわってから関東へ出撃し、翌年の田起こしの季節までに帰国するのをつねとした。謙信が越後と上野(こうずけ)の国境(くにざかい)の三国峠(標高1244メートル)を越えた回数については、12回説と14回説がある。

 対して小田原北条氏およびその息のかかった関東の土豪たちは、きわめて巧みに動いた。

 圧倒的に強い上杉軍がやってくると息を潜め、帰国すれば取られた土地を取り返す。これについて私は、「謙信からすれば、果てしなくモグラ叩きをさせられるようなものであった」と評したことがある(『名将がいて、愚者がいた』講談社文庫)。
上杉謙信

 こうして次第に疲れを体内に溜めこんでいった謙信は、遠征途中に豪雪の三国峠を越えるときも大きな馬上杯から酒を飲んでいたようだ。過労、ストレス、過度の飲酒癖に由来する脳溢血というのが、かれの真の死因であろう。

 それでは、謙信が過労とストレスを溜めこまない方法はあったのか。答えはイエス。そしてこのとき参考になるのは、信長が何度も居城を替えた事実だ。

 駿河の今川氏から遠ざかるため尾張の那古屋(なごや)城から清須城へ。美濃の斎藤氏を攻めるため同城から北東の小牧山城へ。美濃を奪って岐阜城へ。ついで、より京に近い安土城へ。

 天下取りをサッカーになぞらえるなら、信長というフォワードはゴールを狙うためにポジションを変えるのが大変うまかった。対して謙信は越後の春日山城から越中、能登方面に居城を移すこともなく、関東にしっかりとした城郭を築いて小田原北条氏に対抗しようともしなかった。厩橋(うまやばし)城という関東経営のための前線基地を持ち、ここに城代を置いていたにもかかわらず、だ。

 信長と比較しては気の毒かもしれないが、こう眺めてくると謙信はとても天下統一のためにリーダーシップを発揮できるような名将ではなく、ゾーン・ディフェンスに明け暮れたローカルな武将だったといってよい。

 しかもまったくハチャメチャなことに、生涯独身だった謙信は景勝、景虎のふたりを養子として迎えながら、どちらに上杉家の家督を相続させるのかを明言しないまま死んでいった。そこから直江兼続を筆頭とする景勝派と景虎派の間に血で血を洗う争い(御館の乱)が起こったことを考えれば、謙信は領国の経営問題、政庁の移転問題、家督相続問題等のすべてにわたって先見性をもたなかった凡将だ、という結論になる。


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