【戦国武士秘録】中村彰彦

 上杉謙信の能力の限界に触れた以上、すでに何度か名前の出た武田信玄にも言及しておきたい。

 天文10(1541)年6月、父の武田信虎を駿河へ追放して甲州に自立した晴信のちの信玄は、翌年から信州を併合することに意欲を見せた。信虎の同盟者だった諏訪頼重を滅ぼすかと思えば、信濃府中(のち松本)の林城主小笠原長時、葛尾(かつらお)城主村上義清らを連破したあたりはなかなかのものだ。

 信玄には、甲州と信州とを平等に扱おうとした気配も見える。信州の善光寺と瓜ふたつの甲府善光寺を建立したこと、諏訪頼重の娘に産ませた四男勝頼を後継者に指名したことなどはその一例といってよい。

 しかし、誤算もあった。越後の上杉謙信が村上義清の加勢依頼に応じて信越両国の国境へ南下をこころみ、両雄は天文23(1553)年から永禄7(1564)年までの丸12年間に、何と5回も川中島で戦うことになったのだ。

 これは、信玄の年齢でいえば33歳から44歳にかけてであり、武将として、いや人間としてもっとも充実する時期に当たる。信玄も天下に野心があるなら謙信のことはもう少しうまくあしらっておいて、信長のようにせっせと京への足掛りを築くよう努めるべきだった。

 だが、信玄が実際に西上を開始できたのは小田原北条氏と和睦した元亀3(1572)年10月のこと。同年12月、信玄は遠州三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康軍を破ったまではよかったが、あけて翌年4月12日には陣没してしまった。享年53。あきらかに信玄は、天下を取るべく動き出すのが遅すぎたのだ。

 さらにかれの第二の誤算は、勝頼が期待したほどの器ではなかったことだ。

 妙に強気だった勝頼は先の大戦中の日本軍のように戦線を拡大していった結果、天正3(1575)年5月21日におこなわれた長篠の合戦(対織田・徳川戦)に惨敗を喫した。信玄・勝頼の二代に仕えた「武田二十四将」のうち9人はすでに死亡していたが、残る15人のうち7人までが長篠で討死してしまったのだからすさまじい。

 しかも勝頼は、長坂釣閑(ちょうかん)、跡部勝資(あとべかつすけ)の側近ふたりに政治をゆだね、ふたりが賄賂で私腹を肥やしているのを咎(とが)めようともしなかった。いわば勝頼には信玄のような求心力とリーダーシップがともに欠落していたのであり、それが武将たちの相次ぐ離反を招いた。木曾福島城主木曾義昌は信長に接近、武田一族の穴山梅雪(ばいせつ)は家康と同盟……。

 信長・家康が武田家討伐に踏み切る直前の天正10(1582)年初め、すでに勝頼は兵力を7、8千人しか動員できなくなっていた。三方ヶ原の戦いには二万七千人が出動したというのになぜこんな数字になってしまうかというと、武田家の甲信二州の支配の実態はゆるやかな豪族連合でしかなかった。だから豪族(武将)たちが背けば、その家臣団も消えてしまうのだ。 



 武田勝頼の兵力が、一気に7、8千まで激減してしまったという話のつづき。

 これと併行して武田討伐を開始した織田信長・信忠父子は、計12万の大軍を木曾から伊那谷へ侵入させた。すると、飯田城を守る武田側の兵力五百は、戦わずして逃げ散ってしまった。

 その理由を知るには、城を守るには周囲の家を焼きはらって敵兵の潜む余地をなくする、という戦術が一般的だったことを頭に入れておいていただきたい。守兵たちが籠城戦を覚悟して城外を見つめるうちに夜となり、闇の奥には点々と赤い火が明滅するようになった。守兵たちはそれを織田の鉄砲足軽組の構えた鉄砲の火縄の列と思いこみ、抵抗を諦めて逃亡したのだ。

 しかし、この闇に明滅する赤い火の正体は、実は馬糞にほかならなかった。守兵たちが周辺の家を焼いたときにあたりに落ちていた馬糞も燃え、夜になるとそれが「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではないが、火縄の列であるかのように感じられたのだ。

 「馬糞ニ脅(おびやか)サレ、城ヲアケタリ(ト)云(いう)事ハ嘆(なげき)テモ猶(なお)余(あまり)アリ」

 とは、武田側史料『甲乱記』の著者の溜息だ。

 高遠城を守っていた弟の仁科盛信も玉砕したと知って勝頼が韮崎の新府城へ兵を引いたとき、その兵力はわずか一千しかいなくなっていた。これでは織田軍と最後の一戦をこころみ、戦場に華と散ることも叶わない。勝頼は家老職のひとり小山田信茂の提案に従い、その領地都留郡に逃れることにした。

 だが、馬300匹、人夫500人を出せと命じてもだれも出てこない。しかも、やっとのことで都留郡に近づくと、小山田信茂自身が裏切り、関所を作って鉄砲を撃ちかけてきた。

 こうして100人ほどしかいなくなってしまった勝頼一行は、3月11日、田野(たの)の奥に潜んでいたところを織田家の猛将滝川一益勢に発見され、万事休した。勝頼の16歳の長男信勝も同時に自刃して武田家はここに滅亡したから、同家は信玄の死後9年間しか保(も)たなかったことになる。

 その最大の要因は、信玄が後継者選びを間違えたことだ、と私は思う。もしも信玄が四男勝頼ではなく五男仁科盛信に家督を相続させておけば、供が100人しかいなくなって山奥へ逃げこむなどという情ない最期だけは遂げなかったに違いない。

 たしかに、盛信の守る高遠城は3月1日に玉砕した。しかし、籠城軍3000のうち雑兵をふくめて2580余人が討死したのに対し、20倍に及んだ織田軍のそれは2750余人(『高遠記集成』)。もしも両軍がまったく同数だったら、前者が勝っていた可能性が高いのだ。

 しかも籠城者たちは、明日は決戦と知っても飯田城のようには浮足立たなかった。謡曲や小唄舞の一節を吟じ合って別れの宴とするなど、最後までみごとに団結していた。これは盛信が兵を練るのに長じていたためであり、この人物に全武田軍の指揮を取らせてみたかった、と思うのは私だけではあるまい。


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