福井義高(青山学院大学教授)

何を持ってあるいは持たないで

生まれるかは自分で決められない。

        マイケル・ヤング


マルクスよりケインズ


 トマ・ピケティの『21世紀の資本』が、日本のみならず世界的に話題になっている。とくに、米国主導による市場重視のグローバル・スタンダードに反発する向きからは喝采を浴びているようである。

 本書の題名からはカール・マルクスの名がすぐに連想される。確かにマルクスへの心情的理解を示す言葉は随所に出てくる。しかし、ピケティはソ連共産主義に対する肯定的感情は一切持たないし、陳腐な反資本主義には免疫があると明言する。社会的不平等も、正当化できるものである限り問題ないのであって、不平等やそれをもたらす資本主義そのものが悪いわけではないとする。

講演するトマ・ピケティ氏=2014年6月、ロンドン(共同)
 ピケティは、マルクスよりもむしろ、経済的効率性、社会的正義、個人的自由の三つを政治の要諦とし、市場経済の枠組みを維持しつつ、政府の積極的介入の必要性を説いたジョン・メイナード・ケインズの系譜にある。

 ピケティとケインズに共通するのが「資本家」(rentier)への反感、反資本主義ならぬ反資本家主義である。ここでいう資本家とは、起業家や経営者とは区別された、企業経営に関与せず主に世襲で得た財産の上がり、「不労所得」によって生きる人々である。後述するように、その処方箋は対照的であるけれども、いかに資本家の「横暴」を抑制するかが文明社会存続のカギと考える点で、両者は軌を一にしている。

 実際、第二次大戦後の先進国においては、市場経済に立脚しつつ、政府がその行き過ぎを是正するという考え方が当然視されていた。要するにグローバル・スタンダードであった。ところが、1970年代以降の低成長と、その後のマーガレット・サッチャー英首相やロナルド・レーガン米大統領に代表される保守(反)革命によって、世界的に政府介入否定論が勢いを増す。

 ピケティによれば、こうした英米発の市場万能論が新しいグローバル・スタンダードとなったことで、一旦縮小した所得・資産保有格差が昨今、先進国で拡大している。このままでは、第一次大戦前の極端に不平等な時代に戻ってしまう。

 そのため、ピケティは今一度、強力な政府介入による格差是正が必要と主張する。確かに、ピケティは現在の市場重視のグローバル・スタンダードには反対している。ただし、グローバル・スタンダードという発想自体に反対しているのではなく、一時代前のスタンダードへの復帰を提唱しているのだ。一種の反英米論であり、それゆえ、英米メディアではピケティへの否定的論調が目立つ。なお、ピケティは日本を経済構造上、仏独を中心とする欧州大陸諸国と同じグループに属するとみなしている。

 さて、ひとまず書籍として刊行されたものの、『21世紀の資本』は今も進行中のプロジェクトである。ピケティ自身が強調しているように、人間社会に関するデータの常として、その不完全さや不正確さは避けがたい。実際、英米ではデータへの疑問が相次ぎ、データの一部に関して、ピケティ自身、書籍ではなく、後に本人や共同研究者が公表したものを参照してほしいと要請している。だからといって、データの信頼性に関して、反ピケティ派が主張するような決定的欠陥があるとも思えない。今後の改善が期待されるとはいえ、管見の限り、大まかな傾向を知るには十分な水準に達している。

 さらに、図表を含む付属資料や関連論文がピケティのホームページから無料でダウンロードできるようになっている。一般読者を念頭に書かれた書籍本体だけでははっきりしない点、特に理論的枠組みを理解するには欠かせない。

 したがって、本稿では書籍本体のみならず、付属資料や書籍刊行後に出た論文も参照し、データ、理論そして思想の三つの部分にわけて、ピケティの主張を検討する。

 なお、ピケティは本書に限らず、著作をフランス語と英語の両方で発表し、上述の付属資料も英仏語両方で用意されている。本稿作成にあたっては、英語版を通読した上で、引用箇所などはフランス語原典で確認した。邦訳は未見である。また、わかりやすさを優先し、専門用語の翻訳に関しては、必ずしも慣例に従っていないことをお断りしておく。《capital》は文脈に応じて、資本あるいは資産と訳した。

資本のカムバック


 『21世紀の資本』の中心部分といえるのが、仏英を中心とした18世紀以降の長期にわたる所得・資産保有データの推計である。なかでも中心となる指標が、ストックである資本がフローである国民所得の何倍かを示す資本所得比である。

 英仏を中心とする欧州諸国(日本も同様)では、第一次大戦まで6~7倍であったこの数値が、二度の大戦と戦間期の混乱により、20世紀半ばには2~3倍に低下する。第二次大戦後、歴史上例を見ない経済高成長で労働所得は大幅に増えたのに対し、資本が相対的に減少したため、その果実である資本所得の国民所得に占める割合は低下した。資本家はケインズが望んだとおり、安楽死の道を歩んでいるかに見えた。資本家なき資本主義である。

 ところが、資本所得比は20世紀後半に上昇し始め、今日、日欧では5~6倍となっている。ピケティはこれを、一旦重要性を失った資本が再びカムバックしたと解釈する。

 資本所得比の上昇がなぜ重要なのか。労働所得も資本所得もその分布には大きな偏りが存在する。ただし、労働所得に比べ、資本所得の格差ははるかに大きい。なぜなら、資本所得の源泉である資産保有は極めて偏っているからだ。

 ピケティによって上位、中位及び下位の三層(人口構成比10:40:50)に分けて示された労働所得・資産保有は、現在の欧州では次のようになっている。

 労働所得は、上位25、中位45、下位30の割合で、不平等とはいえ下位にもそれなりの所得が分配されている。一方、資産保有は、上位60、中位35、下位5の割合で、下位すなわち国民の半数はほとんど資産を持っていない。さらに、上位10%のうちトップ1%の最上位だけで実に25%の資産を保有している。

 それでも、第一次大戦前に比べれば、資産保有の不平等はかなり緩和された。当時は上位90(うち、最上位50)、中位5、下位5の割合で、今日のようなそれなりの資産を持つ安定した中流層というものは存在しなかった。

 その結果、労働所得と資本所得を合わせた所得合計では、第一次大戦前の上位50、中位30、下位20に比べ、今日では上位35、中位40、下位25と所得格差はかなり縮小した。その決定的要因は、上位層における資本所得の大幅な減少である。日本や欧州大陸諸国では、20世紀半ばに所得格差が縮小して以来、20世紀後半以降今日まで比較的安定している。

 米国における歴史的推移も欧州と同じ傾向を示してはいる。ただし、違いも大きい。まず、資本所得比は、もともと英仏より低く、二度の大戦による被害も軽微であったことから落ち込みも小さく、今日でも4倍程度にとどまっている。

 とはいえ、米国と英仏との差は、ピケティの定義では資本に含まれる住宅の相対的大きさでほぼ説明がつく。英仏のほうがその割合は大きく、資本から住宅を除くと米英仏の資本所得比はいずれも2~3倍程度である。ちなみに、資本としての住宅のリターンは、(帰属)家賃の考え方により推計される。簡単にいうと、持ち家に住む場合、資本家である所有者が賃借人である自分に(帰属)家賃を支払うと擬制し、減価償却費等を控除した額が資本所得にカウントされる。日本の場合、国民所得の5%を超える大きな額となっている。住宅を資本に含めることについては議論のあるところである。

 米国が日本や欧州大陸諸国と大きく異なる点は、ここ30年間で所得格差が拡がり、1世紀前の水準に回帰したことである。要因は資本所得というより労働所得の格差拡大である。同時に富(資産保有)の集中も急ピッチで進んでいる。資産4億円以上の最上位1%のシェアは30年で2割増加し4割を超えた。しかも、シェア増加の大半は資産20億円以上の0・1%層への集中によるものであり、0・1~1%層のシェアは微増に過ぎない(書籍刊行後に改訂推計値公表)。米国ほどではないにせよ、イギリスにも同様の傾向が見られる。

格差拡大論の最大の弱点


 以上のデータに基づいて、ピケティは次のように主張する。

 資本所得比が上昇し、資本の相対的重要性が高まると、資本にそのリターンすなわち資本収益率をかけた資本所得が国民所得に占める割合である資本分配率は上昇する。生産活動がもたらす所得は資本あるいは労働の対価として分配されるので、資本分配率の上昇は労働分配率の低下を意味する。しかも、労働所得の分布に比べ、資産保有は遥かに不平等であり、しかも、格差が拡がっている。その結果、大規模な所得再分配が行われない限り、労働所得と資本所得を合わせた所得合計の格差は増大する。ある意味、マルクス労働者窮乏化論の現代版である。

 そして、資本主義において基本的に「r>g」、すなわち資本収益率(r)が経済の成長率(g)を上回ることを、ピケティは格差拡大の背景にある資本主義の中心的矛盾と呼ぶ。『21世紀の資本』の売りのひとつが、この簡単な公式で資本主義のメカニズムを「深く」理解できるところにある。

 しかし、ピケティが「r>g」を前面に押し出したことは、経済学の専門家には概して不評である。米国を代表するマクロ経済学者であるハーバード大教授グレゴリー・マンキューの論文、というより風刺文のタイトル「そのとおり、r>gだ。それがどうした?」が示すように、嘲笑の対象とすらいえる。

 もしピケティの格差拡大必然論の理論的根拠が「r>g」に過ぎないのであれば、筆者も「それがどうした?」と言いたくなる。市場原理や政府介入の有効性をどのように考えるかにかかわらず、「r>g」は今日の標準的経済理論の前提、いわば常識である。「r>g」だからといって、格差が拡大するという結論も、資本主義が「本質的」に不安定という結論も出てこない。その常識に挑戦したのがピケティというのは、大衆的人気を獲得するスローガンとしてはともかく、贔屓の引き倒しになってしまう。

 『21世紀の資本』を読むと、ピケティは「r>g」すなわち資本収益率が成長率を上回ること自体を問題視しているのではなく、その差が大きくなり過ぎることが格差拡大につながると主張していることがわかる。また、資本収益率は成長率と独立に決まる外生変数ではなく、成長率に依存して決まる内生変数であると仮定されている。

 ただし、このピケティ理論の最重要論点を十分理解するには、書籍本体のみならず、ホームページで公開されている技術的補足や学術誌に発表された論文を読む必要がある。以下、ケンブリッジ大ロバート・ローソン名誉教授の論文も参考にしながら、数式を使わずに説明する。

 既成経済学への挑戦者のイメージとは異なり、ピケティの理論モデルは標準的経済成長論に拠っている。

 生産過程は一次同次(正確にはCES関数)が仮定され、そこに労働と資本(サービス)が投入されて生産が行われ、それぞれの生産性に応じて所得が分配される。具体的にいうと、工場生産において、資本(設備)を二倍、労働投入も二倍にすれば、生産量は二倍になる。すなわち生産性は一定のままである。一方、労働投入一定のまま、資本を増やすと、生産量は増えても、資本の生産性は低下する。

 ここでいう労働投入は技術革新による生産性向上分を含むので、人数自体が増えなくても増加する。それゆえ、人口減がそのまま労働投入低下につながるわけではない。

 この技術革新も考慮した労働投入を上回って資本が増加すると、資本の生産性は低下する。生産性に応じて決まる資本収益率も低下する。

 ピケティ理解にとって「r>g」より重要なのは、「α=r×β」すなわち資本収益率(r)に資本所得比(β)を掛けると資本分配率(α)になるという、資本主義の第一基本法則である。

 国民所得における資本家の取り分を表す資本分配率は、ピケティが懸念する資本家復権を数値化する指標ということができる。ピケティがまとめた各国のデータからは例外なく、資本所得比上昇の傾向が見られるので、今後、資本に対するリターンである資本収益率が変わらない限り、資本分配率は上昇し続ける。

 しかし、資本所得比の上昇は、基本的に資本が労働投入以上に増えることを意味するので、上述のとおり資本の生産性が下がり、資本収益率を低下させる。この点はピケティも認めている。結局、資本所得比と資本収益率の掛け算である資本分配率の増減は、前者の上昇と後者の低下のどちらの効果が大きいかによって決まる。

 その決定要因が労働・資本間の代替の弾力性と呼ばれる概念である。大ざっぱにいうと、弾力性が1の場合、労働投入に比べ資本が相対的に増加したときの数量増効果と資本収益率低下効果が完全に打ち消し合う。つまり、両者の掛け算である資本分配率は変化しない。弾力性が1より大き(小さ)い場合は数量効果が上(下)回り、資本分配率は上昇(低下)する。

 これまで実証研究では、弾力性は1を下回るというのが通説であった。ところが、ピケティは弾力性を1・3から1・6であると推計し、政策介入を行わない限り、資本分配率は上昇すると結論づける。

 確かに今後、1を超える弾力性が続けば、ピケティの主張どおりとなる。しかしながら、ピケティの弾力性推計には重大な疑問がある。

 ピケティの議論では資本の劣化分が減価償却費として生産(所得)額から控除されているので、資本増減を左右する貯蓄も償却費控除後で考えねばならない。低成長経済では投資の大半は償却費見合いの更新投資なので、資本は正味ではほとんど増えないはずである。

 にもかかわらず、20世紀後半、なぜ高成長が終わった後も資本が増えたのか。それは、通常、経済成長論では物価変動を調整した実質資本が資本推計に用いられるのに、ピケティが時価を用いたことによる。実質資本が増えなくても、それに対する市場の評価である時価が上昇すれば、ピケティのデータでは資本が増加する。

 実際、資本所得比上昇の相当部分が評価水準上昇によることはピケティも認めている。しかも、この上昇は、将来見通しの暗かった20世紀前半から半ばにかけて下がり過ぎた時価が回復したためと論文では明言している。したがって、時価を資本推計に使うことの是非は置くとして、今後、すでに回復した時価のさらなる上昇効果は期待できない。ピケティの得た通説に反する1を超える弾力性推計値は、今後は期待できない一時的時価上昇がもたらした異常値の可能性が高く、この推計値に決定的に依存するピケティの格差拡大論の根拠は強固とはいい難い。

 持続可能な定常状態においては、ピケティの主張の如何にかかわらず、彼が資本主義の第二基本法則と呼ぶ「β=s÷g」が成立する。つまり、貯蓄率(s)を成長率(g)で割ると資本所得比(β)になる。もし弾力性が1を下回るのであれば、高貯蓄率、低成長率あるいは両方によって資本所得比が高まると、拡大された生産水準の下、資本分配率は低下、すなわち労働分配率が上昇する。ピケティの主張とは全く逆の結果となるのだ。実は、ケインズが戦間期に資本家の安楽死を唱えた際に念頭にあったのは、こちらのシナリオである。

 いずれにせよ、ピケティの政策提言の前提となっている「資本所得比上昇→労働分配率低下」という関係が盤石なものではないことだけは確かである。

グローバル国家主義あるいはリベラルの限界


 『21世紀の資本』をめぐる巷間の議論は、格差拡大を抑えるために提示された処方箋の是非が中心となっているようである。ここでは、ピケティが保有資産に対する毎年の累進課税こそ「正しい解決策」(la bonne solution)だとしている点のみ指摘しておく。定冠詞が添えられているので、いくつかあるうちのひとつではなく、これこそ解決策そのものという意味である。所得への累進課税は補完的役割を与えられているに過ぎない。

 ところで、そもそもなぜ経済的格差は好ましくないのか。ピケティはこの点について、肯定的に引用していることからわかるように、『正義論』で知られるジョン・ロールズの考え方に近い。『正義論』は今日、リベラル知識人にとってバイブルのような存在といってよい。社会においてもっとも不利な立場にある人々に最大限に配慮し、その基本的権利のみならず物質的基盤を提供することが社会の全成員の義務という考え方である。そのためには、社会で有利な立場にある人々の権利を「侵害」するような国家介入もやむを得ないということになる。

 ピケティは20世紀半ば以降、所得再分配を含めその役割を拡大してきた「社会国家」(Êtat social)を高く評価する。しかし、社会国家とは、本来の自由主義から見れば、矛盾した表現である。19世紀の古典的自由主義者(classical liberal)にとって、政府すなわち国家から可能な限り自立した社会が理想であった。ところが、今日ではリベラルといわれる人々が、社会を覆い尽くすような国家、社会と一体化した国家の介入を是とする。ピケティが強調する経済活動の民主的コントロールとは、結局のところ、多数派による少数派への国家権力を背景とした強制に過ぎない。

 今日の典型的リベラルであるピケティは「国家主義者」(êtatiste)なのだ。フランス語には英語と共通する「ナショナリズム」(nationalisme)とは別に、英語の「国家」(state)に対応する《êtat》から作られた「国家主義」(êtatisme)という表現がある。ピケティ自身、戦後復興の過程で「国家主義は害をなさなかった」(l'êtatisme n'a pas nui)(英語版はstate interventionと意訳)としたうえで、社会国家の成果を巨大な歴史的進歩と断言している。

 現代は国家主義者が「リベラル」と呼ばれる、まことに奇妙な時代である。

 さらに、ピケティは国家主義者であるとともにグローバリストでもある。資産課税を徹底し、所得再分配を「公正」に行うには、国境を越えた取り組みが必要となる。そこで、ピケティは、通貨ユーロにとどまらず、徴税を含む財政においても欧州統合が不可欠と主張する。しかも、欧州統合は全世界の統合すなわちナショナリズムを超越したグローバル国家設立に向けた前段階に過ぎない。

 とはいえ、ピケティが理想とする社会国家は、人間の移動のグローバル化である途上国から先進国への大量移民とは両立しない。低所得者層と競合する移民の受け入れは、格差拡大のみならず、再分配の受け手を増加させることにつながるからだ。

 社会国家における所得再分配を考える上で、移民の問題は避けて通れない。にもかかわらず、『21世紀の資本』では移民に関する議論がほとんどない。わずかに言及された箇所では、移民は先進国と途上国の間の所得再分配に資するとして推奨されている。議論の単位を国から世界に変えることで、移民が国内格差拡大に及ぼす影響というリベラルにとって触れたくない問題を避けるため、論点をすり替えているといったら言い過ぎであろうか。

パリの移民デモ
 ハーバード大ジョージ・ボージャス教授らの実証研究により、欧米での移民の経済的効果については、専門家の間でほぼコンセンサスができつつある。一言で表現すると、受入国全体としては移民の効果はほぼゼロである一方、元来の国民の間では逆進的所得再分配が生じる。移民と競合する低所得者層の賃金が抑えられ、安い労働力を利用できる高所得者との格差が拡大するのだ。ここでいう経済的効果には、治安悪化など負の社会的効果は含まれない。

 実は、米国も常に移民を積極的に受け入れてきたわけではない。1920年代から1960年代まで、米国は移民を厳しく制限していた。つまり第二次大戦後の所得格差縮小は「閉鎖」社会のなかで進んだのである。それに対して、60年代半ばに改正された移民法の下で途上国からの移民が増加して以降、物価変動を調整した米国ブルーカラー労働者の実質賃金は、数十年にわたって、ほとんど上昇していない。

 要するに、移民推進は格差拡大政策なのである。だからこそ、社会国家に対する国民の支持が根強い北欧諸国では、比較的早い時期からいわゆる反移民政党が勢力を伸ばし、政治的に無視できない勢力となっている。その結果、世論に押されるかたちで、実際に移民制限が強化されている。昨年の欧州議会選挙における「極右」政党の台頭は、排外的民族主義の表れというより、エリートが進める格差拡大政策に対する大衆の反逆と捉えるべきであろう。

 移民に加えて、『21世紀の資本』ではリベラルの常として、格差をもたらす、ある重要な世襲「財産」の問題が全く無視されている。ピケティは教育とくに大学教育の機会均等が経済的格差ゆえ十分保障されていないとし、英米グローバル・スタンダードで強調される能力主義とそれに基づく格差正当化論に疑問を呈する。その際、マイケル・ヤングの『メリトクラシー』が同様の懸念を示しているとして注で挙げられている。しかし、ヤングが強調したのは、遺伝による知的能力の相違がもたらす、機会均等ではどうにもならない、しかも本人に責任のない遺伝子という「財産」の格差なのだ。

 ピケティは、米国で特に顕著な経済学の科学化志向、経済学を他の社会科学より一段上に置く傲慢さを厳しく批判している。経済研究は自然科学を範とする「経済科学」(science êconomique)ではなく、社会科学の一分野としての「政治経済学」(êconomie politique)であって、歴史学や社会学など他の分野との学際研究が不可欠だというのがピケティの持論である。

 ところが、格差を議論するうえで避けられないはずの性格や能力の遺伝に関して豊富な成果を上げている心理学には全く言及していない。個人間の相違に遺伝が及ばす影響については、かつて人種差別を正当化する根拠として用いられたことへの反省から、欧米リベラル知識人の間ではタブー視されている。とりわけ黒人問題を抱える米国においてはその傾向が強い。

 このタブーに挑戦したことから、かつて米国で大ベストセラーとなるとともに、二人の著者が激しいネガティブ・キャンペーンの対象となったのが『ベル・カーブ』である。その出版20年を記念して、著者の一人(もう一人は故人)チャールズ・マリーは次のように述べている。

 現代社会においては、富や社会的地位を獲得する上で、ある種の知的能力の重要性がますます高まってきた。しかし、この世襲「財産」の保有者が自分はそれに値する人間だと自惚れてはならない。「我々は誰一人として自らのIQを獲得したわけではない。我々のうちたまたま運がよかった者は、それが単なる幸運に過ぎないことを痛切に自覚すべきであり(ほとんど誰もしていないが)、それに応じた振舞いをするよう自己を律すべきだ」

 能力の遺伝という平等原理主義者にとって「不都合な真実」を直視するマリーは、その相違に基づく格差を正当化することなく、市場原理を重視するリバタリアンであるにもかかわらず、包括的な所得再分配を提言している。なお、このインタビューでも『ベル・カーブ』でも、マリーは人種差別を正当化するような発言は一切していない。

 経済的格差に関する基礎データをわかりやすい形で提供することで、『21世紀の資本』は事実に基づく冷静な議論を可能にした。ただし、そのグローバル国家主義に基づく政策提言は、欧米エリートと主要メディアが許容する範囲内に終始した、陳腐な政府介入論の域を出ない。今後、建設的な格差論議を行うためには、ピケティに限らずリベラルが忌避する、移民と遺伝の問題に関する率直な議論が不可欠であろう。

主な参照文献
Thomas Piketty (2013) Le Capital au XXIe Siêcle (Seuil).[Capital in the Twenty-First Century (Harvard University Press)]
Thomas Piketty et al. (2014) Capital Is Back: Wealth-Income Ratios in Rich Countries 1700―2010, Quarterly Journal of Economics, vol. 129.
Robert Rowthorn (2014) A Note on Piketty's Capital in the Twenty-First Century, Cambridge Journal of Economics, vol. 38.
Natalie Scholl (2014)'The Bell Curve' 20 Years Later: A Q&A with Charles Murray, AEI.

ふくい・よしたか 昭和37年(1962年)京都生まれ。東京大学法学部卒業。カーネギー・メロン大学Ph.D. 旧国鉄勤務などを経て、平成20年より現職。専門は会計制度・情報の経済分析。著書に『会計測定の再評価』『鉄道は生き残れるか』(中央経済社)、『中国がうまくいくはずがない30の理由』(徳間書店)など多数。