日中共同防共戦略vs東アジア赤化戦略


 大歴史(文明史)から見た日中関係は、衝突の必然性はそれほど高くなかった。たしかに白村江の役や元寇、倭寇、豊臣秀吉の征明があり、開国維新後には朝鮮半島を巡る対立と、その結果としての日清戦争はあったものの、千数百年の間でわずかこれくらいだ。

 その日清戦争でさえ、それが終わったら、中国では日本の近代化に学ぶ戊戌維新や、同じく日露戦争後の改革開放運動なども行われている。開国維新後の日本では、「アジアの悪友どもとの交遊謝絶」との脱亜論があった一方で、アジアの覚醒と連帯を目指す大アジア主義もあり、中国もそれに共鳴、呼応していたわけだ。

 このような日中蜜月の時代を経て、両国関係に齟齬が生じ始めたのは、袁世凱時代の所謂「二十一ヵ条要求」(1915年)や段祺瑞時代の「五・四運動」(1919年)以降になってからだ。そして対立はだんだんと拡大し、満州事変、支那事変へと突入して行った。

 しかし「二十一ヵ条要求」以降の日中間の齟齬の原因は、日本と言うより中国の国内問題にあった。そもそも中国は政治が不安定な国である。この中華民国時代は、かの五代十国時代以上に混乱していた。政府はいくつも存在し、一つとして対外的に一国を代表できるものはないばかりか、抗争は絶えることはなく、ほとんど国家の体をなしていなかった。

 そのような騒乱のカオス状態のなかにソ連の勢力が入り込み、コミンテルンやスターリンの操りで排日、抗日運動が激化し、日本を翻弄したのだった。

 もともと開国維新以前から、日本にとっての最大の脅威の一つは、東アジアへ南下しようとするロシアだった。だから維新後の大日本帝国の歴史は恐露から出発し、日露戦争で一度はクライマックスを迎えた。その後ロシア革命が起こり、再びロシア(ソ連)は南下の勢いを見せた。これが東アジア赤化の脅威である。かくして日本では軍事とイデオロギーが一体となった脅威論が醸成され、「防共」と言うソ連との軍事的対立が国防上の至上の課題となった。

 日露戦争以降の日本の国家戦略は、主に対ソ戦を想定しており、陸軍は主力を関東軍に投入してソ連軍の侵攻に備えた。そして日独防共協定、日独伊三国同盟も締結したものの、そのために米英との対立が深まり、日本は突如、北守から南進へと戦略転換し、支那事変から大東亜戦争へと戦火は拡大した。アメリカが対日戦争を決意した背景には、スターリン指導のコミンテルンによる策謀があった。また日本の側でも共産主義者の開戦誘導の謀略があったことは、三田村武氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』に詳しい。

 さてその間、日本が立てた目標は中国との「共同防共」だった。満州事変、支那事変が始まっても、日本によるこの日中連帯の呼びかけは続けられた。つまり「共同防共」の実現が日本の最も望むところであって、ソ連の脅威を前に、中国などと戦っている余裕などなかったと言うのが実情だった。

 つまり「日中戦争」なるものの実態は、日本が中国の挑発に振り回され続けていたと言うものだ。だからこそ日本の政府も軍部もあれほど、いかに戦争を回避するか、いかに戦争を終結させるか(和平を結ぶか)で悩み続けていたのである。

 もちろん日本だけでなく、それと近いような悩みは蒋介石も汪兆銘も抱いていた。ことに汪兆銘は日中全面戦争の最中、最も憂慮したのは戦争に乗じて共産党が勢力を拡大することだった。だから彼は重慶政府と袂を分かち、南京政府を樹立して日本と和平を結び、「共同防共」に乗り出したのだった。実際汪兆銘の憂慮は的中し、蒋介石は日本には勝利したものの、それですっかり戦力を消耗し、他方「全力の七分を党の発展に、二分を国民党との対抗に、一部を抗日に」との毛沢東戦略でやってきた共産党は、それとは逆に勢力を広げたのだった。もちろんこの共産党とは、東アジア赤化のためのソ連の傀儡である。

コミンテルンの陰謀に対処できなかった日本


 中国人は偽書「田中上奏文」を日本の中国侵略の証拠とし、日本の「野心」「陰謀」だけに日中戦争の原因を求めようとする。こうした日本侵略史観は日本でも横行したが、いまでは教科書に名残をとどめている以外には、ほとんど退潮しているようだ。

 支那事変にまで至る民国以降の日中間の齟齬の背景に、日中を離間させようとした米英の国家戦略、世界戦略があり、日本がそれに乗せられたとする説は、とくに保守派学者の間でよく見られるが、日中戦争の原因については、少なくとも次の三つを挙げなければ何も語れないだろう。

 時間的順序に従って言えば、(1)民国の内戦、(2)コミンテルンの陰謀、(3)日本の対応の不得手だ。

 (1)については、辛亥革命(1911から12年)で中華民国が樹立されて清帝国は崩壊したものの、孫文の南京臨時政府も、それに次ぐ袁世凱の北京政府も国家統治に失敗し、そのため南北対立、各省、各地の対立が深まって多政府状態となり、中国史上空前のカオス状態に陥った。それらの対立は北京政権を巡る北洋軍閥の内戦、南方の広州政権を巡る革命派、軍閥の内戦、湖南・湖北間での連省自治派と統一派との内戦、広西・広東間での内戦、北方軍閥と南方革命派との間の北伐と南征、さらには国民党内での軍の実力者同士の抗争、戦争があり、そして西安事件まで続いた熾烈きわまりない第一次国共内戦もあった。

 各派武装集団の抗争は、省レベル、県レベル、村レベルにまで及び、たとえば辛亥革命以降の約20年間で、四川の一省だけで軍閥内戦は五百回も発生した。そのほか匪賊が跋扈し、その数は2000万人にも達していたと推定されている。国民党の内部諸勢力間の内戦である中原大戦では、百五十万人もの兵力が動員され、30万人もの死者を出している。

 たしかに蒋介石は1928年、北京政府を打倒して北伐を完了し、国家権力を掌握しつつあったが、なお蒋介石系以外の各武装勢力に号令するまでの力はなかった。

 このような中華民国内の混乱こそ、日中戦争を醸成した温床と言うことができるだろう。

 (2)のコミンテルンの工作については、戦後の日本ではあまり語られていない部分だが、1921年のコミンテルン指導下における中国共産党の創立から、国共合作、国共内戦、そしてコミンテルンの解散に至るまで、中国の排日、侮日の運動、事件の背後には、コミンテルン=スターリンの謀略が見え隠れしていた。もちろんコミンテルンは中国だけに限らず、日本、アメリカ等各国の政界で暗躍をしていた。

 (3)については、たとえば盧溝橋事件から終戦に至るまで、日本はあらゆる手を使って和平交渉を試みたものの、すべてに失敗している。

近代中国の争乱の元凶は孫文


 近代中国の争乱と悲劇の元凶のすべては「中華民国建国の父」「中国近代革命の父」などと讃えられている孫文だと指摘する人は実に少ない。しかしこうした認識がない限り、近代の中国史、日中関係史は正しく語れない。

 もともと日本人の支持、支援、援助、指導あってこその孫文の革命運動だったが、辛亥革命後は自分中心の政権を樹立するまではと、延々と革命闘争を続け、そのおかげでこの国の争乱は拡大し、挙句の果てには日本を裏切ってコミンテルン幕下に入り、その指導の下で国共合作を行い、やがてそれが元で国共内戦が発生したと同時に、排日、侮日の嵐が巻き起こったのだ。

 孫文が革命を指導して中華民国を樹立したと言うのは国民党のデッチ上げである。孫文が指導したと言う華興会、光復会、興中会三派の連合体である革命同盟会は、宮崎滔天、内田良平ら日本のアジア主義者の斡旋、支援の下、東京で発足したものだったが、発足後は孫文の革命路線、革命資金濫用の問題で空中分解した。

 そして辛亥革命は反孫文系の人々により偶発的に始まった。当時孫文は追放の身としてアメリカで隠居生活を送っており、まったく関与していなかった。ただ革命後の臨時政府の発足にあたり、臨時大総統には国際的に知られていた孫文以外に適任者がいなかったため、帰国した彼が一時的にその地位には就いた。だが財政資金は集まらず、各省の革命基地も維持できず、そして列強からの政府承認もえられないので、それから3ケ月未満で孫文は、周囲からの反対を押し切り、革命の敵である北京政府最大実力者、袁世凱を「中国のワシントン」と讃え、政権を譲渡し、自らは袁世凱初代大総統の下の鉄道部長となり、美女を連れて西太后の特別列車に乗り、全国周遊の旅に出ている。

 やがて袁世凱による国民党党首の宋教仁の暗殺や帝制復活を受けての反袁気運が高まると、孫文はそれに乗じて第二革命(1913年)に参加したものの、敗れて東京へ亡命。第三革命(1915年)の雲南蜂起ではまったく蚊帳の外。第三革命は袁世凱の死去で終焉したが、孫文はまったく自分の出番がないため、南方の地方軍閥を誘っては内戦を引き起こし、三度にもわたって広州軍政府を作り、北京政府に対抗した。かくして中国は五代十国以上に混乱した多政府状態となった。

 孫文は軍事力もなければ政治資金もない一介の「革命浪人」だから、日本など外国以外には、いつも軍閥頼みだった。たとえば広東で3度目の軍政府を作るにあたっては、「客軍」と言われた全国各地の軍閥、匪賊などの武装集団を誘い込んでいる。そのため現地の政府各機関は軍閥に占領され、住民は略奪を受け、理不尽な重税を課せられた。孫文は抵抗した広州の商団の武装組織との抗争で、住民大虐殺も行っている。

 私は魯迅の『阿Q正伝』の愚かな主人公阿Qは、孫文がモデルではないかと考えている。それについては拙著『中国が葬った歴史の新・真実』(青春出版社)で詳述している。

国共合作が行われた裏の理由


 中華帝国建国の父である始皇帝と、中華人民共和国の父である毛沢東は、いずれも実力で天下を統一し、国造りに成功した。しかし孫文はそれらとまったく逆だ。彼が中華民国の「国父」と呼ばれるのはなぜか。それは日中戦争中に汪兆銘が、もう一つの中華民国政府を南京に作る政略に危機感を抱いた蒋介石が、自らの正統性を裏付けるため、勝手にそのような祭り上げをしたからだ。

 孫文は辛亥革命以前、十回蜂起を行ってすべてに失敗し、その後の第二革命も三度の革命軍政府もみな失敗している。そのため「失敗の英雄」と呼ばれ、彼自身も遺言の中で「革命未だ成功せず」と言い残して死んでいる。彼が参加しなかった辛亥革命や第三革命だけが成功したことから見ても、結局は疫病神のような存在だったのだ。

 この孫文が晩年、いかにしてソ連に接近したのだろうか。孫文は北京政府を不満として広東政府を作り、「こちらが正統な中華民国政府だ」と主張したものの、辛亥革命前のように日本の官民や欧米からの支援も受けられず、孤立無援の状態に陥った。レーニンに抱きついたのはそのためだ。

 当時孫文は、「仏、米の共和国は旧式であり、ただロシアだけが新しい。吾人は本日より最新の共和国を作る」とまで表明している。

 もちろんこのソ連への接近には、ロシア革命からの影響もあった。1917年にその革命が成功すると、「新しい共和国は中国のよき隣人となった」「ロシアは専制から共和国に代わったのは、中国の影響だ」と勝手に思い込んでいる。

 中国に反帝国主義の親ソ政府を築きたかったソ連にとっても、北方の最大実力者である呉佩孚、あるいは軍の実力者である馮玉祥よりも、孫文が一番手懐けやすかった。かくして工作対象は孫文に絞られた。

 1921年、レーニンの秘書マリーンの指導の下、上海で中国共産党が発足した。同党の当時の二大指導者は陳独秀と李大ショウだった。この年12月、マリーンは広西省桂林で孫文と会って工作を行った。これを受け孫文は「中国革命はソ連を鏡にするべきだ」と主張し始めた。22年8月にはマリーンから国共合作を提案され、孫文はソ連からの武器援助を交換条件に、それを受け入れた。12月、孫文とソ連の代表ヨッフェとの間で、ソ連と国民党の提携が決まり、その結果出されたのが23年1月の「孫文・ヨッフェ宣言」である。

 中国共産党が強調する孫文の「連ソ・容共・扶助工農」への路線転換が行われたのはこのときだ。

 23年12月、国民党政治顧問として派遣されたボロディンから孫文は、「国民党は組織と規律が不完全で、大衆組織を持たず、官僚、投機主義者だらけだ」と指摘された上で、「全革命勢力を国民党に参加させよ」と勧告された。そこで孫文は国民党を改組し、反帝国主義、反軍閥の主張をより明確化させた。

 もともと国民党の組織はきわめて杜撰で、党首の孫文ですら党員数を把握していなかった。党費もなく、架空に近いマフィア組織だったが、このようにして革命政党として再生したのである。

国民党に寄生して拡大した共産党


 1923年1月、孫文とヨッフェの間で取り決められた「連ソ・容共」という国共合作の党策に対し、国民党内では大勢の幹部が反対し、党首の独断が非難された。しかし孫文は「党を解散しても、一人でも共産党に入る」と怪気炎を上げ、恫喝した。

 発足したばかりだった共産党にしても、国共合作には反対だった。総書記の陳独秀などは、「共産党を創設したのは、孫文の旧式革命を否定するためだ」とし、「コミンテルンの指導は受けない」とまで言って激怒した。反対意見はその後の党全国代表大会でも続出、孫文が北方軍閥の張作霖、段祺瑞らと軍事同盟を結び、日本帝国主義の援助を求めたことに激しい非難が集まった。だが最終的には国共合作を受忍した。党の経費はすべてコミンテルンから提供されていたから、その指示には従わざるを得なかったのだ。

 国民党が国共合作によって得たものは少くない。その一つは従来の伝統的チャイナ・マフィア組織から、ソ連式の近代的革命政党にのし上がることができたこと。もう一つは武力と言えば地方軍閥、匪賊、マフィアを頼みにするばかりだったのが、ソ連の赤軍制度が導入されて黄埔軍官学校が作られ、自前の軍隊が持てるようになったことだ。

 蒋介石は軍官学校校長を経て武装集団のボスとなり、孫文死後は党内の群雄との抗争を勝ち抜き、実力者として擡頭している。

 一方、共産党も大きな利益を得た。なぜなら国民党に寄生しながら革命勢力として発展することができたからだ。共産党は国民党に寄生しながらも国民党と抗争し、国民党が二つに分裂すれば、それらと三つ巴の戦いを演じた。混迷した情勢の中で、国民党左派の廖仲凱の暗殺、汪兆銘を首班とする武漢政府と蒋介石を主席とする南京政府の対立など、さまざまな事件が起こっている。

仕組まれた北伐軍の日本領事館襲撃事件


 1927年、北伐中の国民革命軍が南京入城の際に発生したのが「南京事件」である。それは中国による反日歴史捏造の最大ヒット作である「南京大虐殺」とは関係のない、実際に起こった日本の領事館と居留民に対する狂気の襲撃事件だ。

 この北伐戦争という中国内戦に対し、日本や英米など各国は中立の立場をとっていた。だが北伐軍が南京に迫ると、英米は日本に共同介入を要請した。ところが当時の日本は、対中宥和の幣原外交の時代であり、幣原外相はそれを拒否した。

 ただ中国内戦において略奪は兵士の慣習だったことから、日本の南京領事館は居留民保護のため揚子江を哨戒中だった海軍の駆逐艦に警備を要請した。居留民もまた戦闘に巻き込まれるのを恐れ、領事館に避難した。当時そこを警備していたのはわずかに荒木大尉率いる水兵11名だった。

 3月24日午前7時、北伐軍は日本領事館に突入、兵士は居留民に対し略奪と暴行を加えた。そのほかドイツ、ソ連の領事館を除く各国の領事館も被害を受けた。

 日本領事館では前日のうちに、正門前には荒木大尉らによって土嚢と機関銃銃座が備えられたが、森岡領事は「北伐軍を刺激してはならない」とし、武装を解除して完全無抵抗の姿勢を見せた。そしてこの無防備さのために、ここは簡単に兵士の餌食となった。

 かくして南京にいた500人以上の日本人居留民は全員、北伐軍の暴行や略奪を受け、そのうち1人が殺されたのだ。

 その後、英米の海軍が南京城を砲撃したので(日本は本国の指令により砲撃できず)、日本海軍の決死隊が午後四時になって領事館に到着、居留民を救出して砲艦へ避難させた。日本国民は激怒し、政府の責任追及の声が上がった。ところが外務省は事件の経緯を隠蔽した。荒木大尉は引責自決している。

 そして中国側はこの事件を通じ、日本が意外にも与しやすいことを見出し、排日、侮日の気勢はますます高まった。

 この事件に関してはさまざまな説があったが、コミンテルンの陰謀説が有力だ。

 のちに張作霖の北京政府がソ連領事館を捜索したところ、クレムリンからの指令文書が見つかったのだ。そこでこの事件で領事まで殺されかけたイギリスなどは、ソ連と断交までしている。

 南京以外でも漢口、蘇州、鎮江、杭州、蕪湖、九江、南昌でも国民革命軍による略奪、虐殺が行われているが、そのあたりは『もうひとつの南京事件』(田中秀雄編・芙蓉書房)が詳しい。

 4月、田中内閣が発足し、田中首相が外相を兼任した。11月、訪日中の蒋介石は田中首相と会見、北伐軍への共産党員の潜入についての憂慮を述べた上で、ソ連が中国に干渉する以上、日本も干渉援助を行って欲しいと、本心を漏らしている。

中国人の残虐性のシンボル-済南事件と通州事件


 1928年5月、北伐軍は2000人余の日本人が住む山東省済南に進撃、日本は第2の南京事件を防ぐため、現地へ派兵した。やがて中国軍からの挑発で、日中両軍は市内で交戦状態に入り、その間、中国兵は再び略奪、暴行、虐殺に狂奔、それに対して日本軍は居留民保護で奮闘した。だが日本居留民は死者十数名、暴行を受けたもの三十余名、凌辱された女性2名に上った。

 そしてその殺され方があまりにも惨すぎた。南京駐在武官の佐々木到一中佐の手記によると、手足を縛られた上で頭部をかち割られ、あるいは滅多切りにされていたり、婦人は全員陰部に棒が挿入されていたり、あるいは焼かれていたりで「酸鼻の極」だったと言う。済南病院が行った検視結果を見ても、男根切断、内臓引き出し、滅多刺しの跡…と、その手の込みように、兵士たちがいかに虐殺を楽しんでいたかがわかる。

 日本人大虐殺は、盧溝橋事件直後の1937年7月29日にも起きている。北京の東の通州における通州事件である。通州は殷汝耕が蒋介石の南京政府から独立して作った親日政権、冀東防共自治政府の首都で、そこには1万人を超える保安隊が置かれていた。ところが保安隊は早くから二十九軍や共産党と繋がっており、早くから日本人襲撃の計画を持っていた。そして盧溝橋事件が起こると、南京放送が流した「盧溝橋で日本軍が二十九軍に惨敗。二十九軍は冀東を攻撃する」とのデマを鵜呑みにし、日本の守備隊主力が戦闘に出動中であることに乗じ、千数百人が日本の100人余の留守部隊と居留民を突如襲撃した。

 留守部隊は応戦するので精一杯で、その間に居留民に対し、その家屋を焼き払い、略奪、暴行、凌辱、虐殺をほしいままにしたのだ。居留民380名の内、殺害された者は実に260名。ここでも殺害の手口は残虐きわまりなく、役所の職員はすべて首に縄をかけて引きずられた後に殺害、14、5歳以上の女性は全員が強姦された上で殺害、もちろん殺害方法は済南事件のように猟奇的で、人間業とは思えないものだった。

 これら事件を通じて日本の軍民は中国人の残虐性に驚愕し、激昂し、そして「暴支膺懲」(暴戻なる支那を徹底的に懲らしめろ)を合言葉にするに至ったのだ。

西安事件で日中戦争への道を開いたコミンテルン


 中国の排日、侮日、仇日運動が始まったきっかけは、「二十一ヵ条要求」、あるいは「五・四運動」であるが、その背景には当時の中国のナショナリズムの擡頭があった。このナショナリズム擡頭は、各政府、各派各系の武装集団の勢力の消長、思惑などと連動するものだった。つまり中国人の排外、ことに反日は、主に各勢力が反政府、反中央の手段として煽り、利用したものだった。国民党の反蒋介石の武装勢力や共産党にとっては、蒋介石打倒のための梃子だったわけだ。

 そうしたなかで、日中戦争に至るまでの間、反日、排日の謀略を仕掛け続けていたのがコミンテルンである。

 コミンテルンは共産主義インターナショナル、あるいは第三インターナショナルと言われ、ロシア革命後の世界共産主義運動、労働運動の総本山として、1919年3月、モスクワに設立された。そして第二次世界大戦中の1943年5月にその使命を終えるまで、ずっと中国共産党を指導し続けた。もちろん日本打倒の総司令塔でもあり、中国の反日、仇日事件の背後にはたいていコミンテルンの影が見られた。

 コミンテルンは中国共産党創設から国共合作までの間、中国に強い指導力を発揮していた。国共合作後、徐々に軍の主役として擡頭しつつあった蒋介石にしても、中山艦事件、上海での共産党員粛清、寧漢分裂など、コミンテルンとの不和事件は後を絶たなかったが、それでも彼の軍事作戦の背後には、つねにコミンテルン派遣の軍事顧問団がいた。ちなみに蒋介石がドイツの軍事顧問団に切り替えるのは国共内戦になってからだ。そして日独伊三国同盟後は、アメリカの顧問団がそれに代わった。

 1927年、国共内戦に突入するとコミンテルンは、中国共産党の中華ソビエト政権の樹立や紅軍の作戦、そして反日排日運動を指導し続けた。1935年1月の遵義会議で毛沢東が軍の指導権を掌握したとは言われるが、それでスターリン=コミンテルンの影響力が失われたわけではない。1935年の第7回大会では、抗日人民戦線運動を起こすよう命令し、それ受けて中国共産党は同年8月1日、「抗日救国宣言」(「八・一宣言」)を行っている。

 1936年12月の西安事件から、それにともなう国共の再合作に至るまでの「逼蒋抗日」(蒋介石に抗日を迫る)は、スターリンの命令によるものである。

 共産党殲滅まであと一歩の段階にあった蒋介石を監禁し、共産党討伐から一致抗日へと転換させた西安事件は、討伐軍の副司令官で、反日、恐共の張学良が起こした兵諫事件だった。蒋介石捕獲の報に毛沢東以下の共産党幹部は驚き、狂喜し、そして蒋介石を殺害して西北防衛政府を樹立し、国を挙げての抗日戦争に持って行こうと考えた。ところがソ連は、中国に対日戦争をやらせるためには、まずは内戦を停止し、全国を統一させることが不可欠であるが、それができるのは蒋介石以外になく、また蒋介石を殺害しようものなら、国民党は復讐に燃え、日本と共同防共の条約を結びかねない。そこでスターリンは「蒋介石を釈放しろ。さもなくば中共とは絶縁する」と命令したのである。

 ソ連に挑む力など、中国共産党にはまだなかったのだ。

嫌がる日本を戦争へと引っ張り込んだ中国


 1900年の北清事変(義和団事件)後、講和の議定書(辛丑条約)に基づいて、現在のアフガニスタンやイラクのごとく、自力では国内の治安維持ができなかった中国に、日本や英米仏伊などの各国が駐留軍を派遣し、居留民の保護に当たった。

 その日本の駐留軍である支那駐屯歩兵旅団第一連隊第三大隊第八中隊は1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近での夜間演習中、後方から突然数発の銃撃を受けた。そのとき兵士1名が行方不明となったが無事が確認され、7月8日払暁になり、再度中国軍側から射撃を受けたため、牟田口廉也連隊長が断固応戦した。

 この衝突は11日、日中双方との間で停戦協定が調印された。中国軍は最初の数発は自分たちのものではないと主張し、日本軍に遺憾の意を伝えた。日本軍は中国軍が責任者を処分することを条件に、盧溝橋から撤兵した。だが中国軍はその後も、たびたび停戦協定を破り、日本軍への挑発攻撃を続けたため、いよいよ27日になり、日本軍は開戦を通告して攻撃に移った。

 この日中戦争の引き金となった盧溝橋事件について、日本政府は7月11日、「北支事変」と命名。8月、上海で中国軍の日本軍攻撃が始まって第二次上海事変が勃発。

 中国軍はすでに前年末から上海での非武装地帯に陣地を構築し、盧溝橋事件以降は中央軍をそこへ集中させ、日本の陸戦隊を挑発した。そして13日、中国軍が先制攻撃を開始。14日には上海市街(外国租界も含む)と日本の艦隊を爆撃。これを受け、ついに日本軍も渡洋爆撃を行い、全面戦争へと引きずり込まれた。この中国側の動きの背後にも、国民党軍に潜入した中国共産党工作員の動きがあった。

 かくして9月2日、日中の戦争は一括して「支那事変」と改称された。結局日本は正式な宣戦布告をせず、蒋介石政権も行わなかった。日本は事態の不拡大方針をとり、平和交渉を求め続けていたものの、不本意ながら泥沼の戦争に引きずり込まれて行ったのだった。

 さて盧溝橋事件を巡って最も論議されたのは、最初の数発を撃ったのが日本軍と中国軍のどちらであるかという問題である。中国は一貫して、日本軍は行方不明の兵士捜索のため発砲してきたと主張してきたが、日本では最近すでに中国共産党の陰謀説が定着している。真犯人は宋哲元指揮下の国府軍第二十九軍に潜入していた張克侠副参謀長以下、多数の中国共産党員だったとの説、あるいは劉少奇の差し金とする説(劉少奇自身がそう語っていた)などがある。

 当時の興亜院政務部の極秘文書によると、コミンテルンは盧溝橋事件を受けて、「あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突にまで導かなければならない」などとする中国共産党宛ての指令を事件翌日に出した。

 これを受け中国共産党は、すぐに開戦通告を打電しているから、まったく手際がよすぎる。

 コミンテルンと中国共産党が、嫌がる日本軍に無理やり始めさせたのが支那事変なのである。日本がなぜ「謝罪と反省」をしなければならないのか、まったく理解できない。

本当の被害者は日本だった


 日中戦争-支那事変は、日本の軍部の暴走がもたらしたとの見方が日本でも定着しているが、それは非常に一方的な偏見、独断である。

 日本の支那事変以前の対中国政策は、もとは幣原外交に代表される不干渉の宥和政策である。しかし中国の排日、侮日運動はかえってそれによって助長されただけでなく、中国内部の矛盾の深化とともにますます激しくなり、日貨の排斥、不買運動から、日本人居留民の虐殺までを引き起こしているわけだ。

 それに対して日本軍部は暴走どころか自制をしていたことは、支那事変勃発後の不拡大原則を涙ぐましいまでに遵守する姿勢を見れば理解できるだろう。

 もっとも日本の世論は、中国の挑発、同胞虐殺事件を受け、支那膺懲を求める声が高まり、それは国民の総意と言っていいほどのレベルに達した。そのころの反中国意識は、2004年のサッカーアジア杯や2005年の反日愛国デモに対して醸成された、今日の嫌中気分の比などではないことは、良識ある人ならわかるだろう。

 しかしそれでも日本政府は不拡大方針を堅持し、あるいは和平交渉を終戦まで何度も試み、国会で「今度の戦争目的は」と質問されても、何ら具体的な回答を出せなかった。なぜかと言えば、あの戦争が中国の挑発に対する自衛の戦争だったからだ。

 日中間の戦争において、日本は明らかに被害者だったのだ。

 民国樹立から終戦に至るまでの間、中国は多政府の混戦状況から、一日たりとも抜け出すことはできず、そのカオスに日本は引きずり込まれたわけである。

 日中戦争の後半は、明らかに日本が支援する南京政府、アメリカが支援する重慶政府、ソ連が支援する延安政府の三つ巴の内戦の様相を呈していた。そのなかで日本は南京だけでなく、重慶に対しても、内戦の早期終結と、「共同防共」との希望を捨てなかった。

 日中戦争の本質を客観的に言うならば、中国内戦に対する日本の人道的、道義的介入だったと言うことができるだろう。

 だがそれに対してスターリン=コミンテルンは、何としてでも日中戦争の長期化で国民党と日本を弱体化させ、共産党の拡大と日本のソ連攻撃の阻止を行い、中国で、そしてうまくいけば日本でも、共産政権を樹立させようと狙っていたのだ。マッカーサーが朝鮮戦争を経て、日本が中国で戦っていたのは侵略ではなく防共の戦いだったと悟った話は有名だ。
【注】李大ショウのショウは金へんにりっとう

黄文雄
昭和13年(1938年)、台湾高雄県生まれ。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。同61年に台湾で地下出版された『中国之没落』(新台政論社)は大反響を呼び、反体制運動家の必読書に。中国を批判し日本を激励する言論を展開。著書は『中国・韓国が死んでも教えない近現代史』(徳間書店)『大日本帝国の真実』(扶桑社)『満州国は日本の植民地ではなかった』(ワック)『日本人なら知っておきたい中国の侵略の歴史』(宝島社)『終韓論』(ベストセラーズ)など多数。