長澤連治(元支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第二小隊第二分隊長)
聞き書き・構成/解説 江崎道朗(評論家)

いまなぜ「盧溝橋事件」か


靖国神社参拝を終え、本殿をあとにする小泉純一郎首相(中央)。現職首相として21年ぶりの終戦記念日参拝を果たした=2006年8月15日(古厩正樹撮影)
 首相(編注:小泉純一郎元首相)の靖国神社参拝をめぐる日中対立の背景には、言うまでもなく昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋(ろこうきょう)事件に始まる支那事変(日中戦争)がある。この日中間の戦争責任はすべて日本側にあるというのが一般的な見方だったが、アメリカ、旧ソ連、台湾などの機密文書の相次ぐ公開によって通説の見直しが始まっている。当然のことながら盧溝橋事件もまた見直しの対象に入るべきだ。

 そもそも中国大陸に日本軍がいたこと自体が問題だと批判する人もいる。確かに中国政府の了解なく日本軍が中国大陸に侵攻し駐留したならば、そうした非難も甘受すべきだが、少なくとも盧溝橋事件前の日本軍については、そうした批判は当たらない。

 日本軍駐留のきっかけとなったのは、1900年、宗教・政治結社である義和団が、外国人排斥を旗印に北京の外国公館を襲撃したことであった。時の清国政府は傍観した(裏では暴動を煽った)ため、やむなく日本、ロシア、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストラリアなど11カ国が共同出兵して暴動を鎮圧した。そして翌1901年、各国政府は清国政府と「北清事変に関する最終議定書」を結び、首都の北京に列国公使館区域を設定する(第7条)とともに、中国在住の自国民を守るため、外国軍隊の北京・天津地区における無期限の駐兵を認めさせた(第9条)のである。

 更に同議定書の「交換公文」において、各国軍隊には、鉄道沿線において犯罪捜査を行い、犯罪者に対して懲罰権を行使する権限や、清国政府に通告することなく実弾射撃以外の訓練や演習を行う権限も付与された、という解釈が確立されていた。

 このように中国政府との合意に基づいて各国は、北京・天津地域を守るため軍隊を駐留させていた。その規模は、盧溝橋事件当時(昭和12年)、イギリス軍1000名、アメリカ軍1220名、フランス軍1820名、イタリア軍300名であった。居留民が3万3000人に達していた日本の場合、約5600人が駐留していた。

 当時、日本軍の支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊は、北京郊外にある盧溝橋から北西約4キロに位置する豊台(ほうだい)に駐屯地(=基地)を置いていた。この第三大隊第八中隊の133名が7月7日深夜、盧溝橋周辺の永定(えいてい)河の河床地帯で実弾を使わない夜間演習を行っていたところ午後10時40分頃、突然実弾射撃を受けた。その後も午後10時50分頃に2回目の実弾射撃があり、翌日の午前3時25分頃、3回目の実弾射撃を受けた。

 3回もの実弾射撃を受けて、その「犯人」が中国の第二十九軍か匪賊(ひぞく)であるかを確かめるため、第三大隊が永定河左岸堤防に向け前進すると、午前5時30分、永定河左岸堤防に布陣していた第二十九軍が一斉猛射撃を開始し、日本側も前夜以来初めてそれに応射、ついに全面衝突となった。これが、いわゆる「盧溝橋事件」である。

 約2時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、8日の午後3時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移し、北平(現在の北京)及び盧溝橋城(苑平県城)内で、停戦に向けた交渉が行われ、11日に北平で日本の支那駐屯軍と中国の第二十九軍との間で現地停戦協定が結ばれた。

 しかし、中国側は25日に北平東方の廊坊駅付近で、26日には北平の広安門で相次いで衝突事件を起こした。さらに29日に、北京郊外の通州で中国側の冀東防共自治政府(1935年12月、蒋介石政権から分離して成立した政府)の保安隊が、軍人及び女性を含む日本人居留民を多数殺害する「通州事件」を起こした。かくして日本政府は内地から三個師団を派遣し、全面的な日中対決となったのである。

 ところが、中国共産党政府の歴史教科書では、「最初の一発」にも、停戦協定後に中国側が「廊坊事件」や「通州事件」といった軍事的挑発や在留邦人に対する組織的大量殺害事件を起こしたことにも全く触れておらず、あたかも日本軍側が一方的に戦争を仕掛けたかのように描いている。

 一九三七年七月七日夜、日本侵略軍は北平西南の盧溝橋に進攻し、長い間もくろんでいた全面的な侵華戦争を開始した。(中略)

 七日夜、日本軍は盧溝橋北側で盧溝橋進攻を目標とした軍事演習を行った。彼らは一人の兵士の失踪を口実に、苑平県城に入って捜索することを理不尽に要求、中国守備軍に拒絶された。日本軍はすぐさま苑平県城に向けて攻撃を開始した。(中略)双方は盧溝橋で争奪を繰り返した。ほどなくして、日本軍は大量の援軍を集合させ、北平、天津に向けて大規模な進攻を開始した。


中国・北京郊外の「中国人民抗日戦争記念館」
 教科書だけではない。盧溝橋周辺には、中国共産党政府の「愛国主義教育基地」、すなわち「反日教育基地」の総本山「中国人民抗日戦争紀念館」があり、「南京大虐殺」「三光作戦」など、でっちあげられた日本軍の「蛮行」をモチーフとした巨大なモニュメントが無数に並ぶ公園も整備されている。いわば日本の「原罪の地」として位置づけられているのである。

 この中国共産党政府の歴史観の影響なのか、我が国の中学校の歴史教科書も、誰が「最初の一発」を撃ったのかを曖昧にしたまま、全体の文脈から日本軍が仕掛けたかのような印象を抱かせる記述となっている。

 満州を支配下に置いた日本は、さらに華北に侵入し、一九三七年七月七日、北京郊外の盧溝橋でおこった日中両国軍の武力衝突(盧溝橋事件)により、日中戦争が始まりました。


 一九三七年七月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突する事件が起こりました。現地では停戦協定が結ばれたにもかかわらず、日本政府の方針がまとまらないこともあって戦火は上海にも広がり、宣戦布告のないままに全面的な日中戦争が始まりました。


 では、どちらが戦争を仕掛けたのか、言い換えれば、誰が「最初の一発」を撃ったのか。この問題について財団法人偕行社の協力を得て今回、盧溝橋事件に立ち会った長澤連治元伍長から新たな証言を得ることができた。夜間演習を行った第八中隊第二小隊の第二分隊長として盧溝橋事件に遭遇した長澤元伍長は、「日本軍が最初の一発を撃つことは有り得ない」として、次のように証言した([ ]内は聞き手の補足)。

中国軍との戦闘など全く予想していなかった


 いまから69年前の昭和12年(1937年)7月7日、北京郊外の盧溝橋近くで支那駐屯歩兵第一連隊の第三大隊第八中隊の133名が夜間演習を行った際に、私は第八中隊の第二小隊第二分隊長として演習に参加し、いわゆる盧溝橋事件に立ち会いました。

 当時、盧溝橋周辺には、宋哲元(そうてつげん)率いる第二十九軍のもと第三十七師(馮治安(ひょうちあん)師団長)が配置されていました。その第三十七師が6月下旬になって夜間の隠密作業で永定河左岸の堤防に散兵壕を構築したり、満州事変のときに作った盧溝橋付近のトーチカ十数個を掘り返して使えるようにしたりしていました。このため、上級の幹部たちは「どうもおかしい」と感じていたようですが、私たち兵隊は、まさか日中間で戦争が起きるなんて全く感じておりませんでした。本当に予想外でした。

 7月7日に盧溝橋付近で夜間演習をしたのは、来るべき検閲[司令部等が、各部隊の錬度などをチェックすること]に備えてのことでした。第八中隊に割り当てられた演習内容は、薄暮を利用して敵に接近し、「黎明攻撃」といって夜明けとともに戦闘を開始するという想定でして、そのための訓練を行ったわけです。

 盧溝橋周辺で演習中であった7日の夜10時40分頃、最初の銃撃の音がしました。私も聞きました。実弾を2、3発撃ってきましたね。実弾には、飛弾音(ひだんおん)といって弾が飛ぶ音がするんですよ。発射直後と、2、300メートルのところと、5、600メートルのところでは音が違います。私たちも射撃訓練のときに実弾を撃ちますけれど、飛弾音というのはなかなか判らないものですが、部隊には満州事変に参加した人もいて、中隊長はすぐに「これは実弾だ」とはっきり答えていましたね。

 では、誰が撃ったと思ったのか。盧溝橋(苑平県城)の城壁に近い方向から銃声がしたので、これは中国側だと、私たちはすぐに思いました。当時、中国の第三十七師は盧溝橋の散兵壕(堤防陣地)に夜、兵士を配置していましたから。

 演習中に実弾射撃を受けたのは初めてのことでしたが、ただの嫌がらせか、暴発で誤って撃ってしまったのではないか、というような感じを最初は持っていて、それほど深刻には受け止めていませんでした。というのも、狙い撃ちというよりも、「闇夜に鉄砲」で、私たちの頭上を飛んでいましたので、本気で私たちを狙ったものではないと感じたからです。それに、そもそも宋哲元率いる第二十九軍とは非常に友好的な交わりをしていたので、私たちは「友好的な軍隊」つまり「友軍」と呼んでいました。ですから友軍と同じように感じていた第二十九軍から最初に実弾を撃たれたときは、挑発的行為だと全く思いませんでしたね。恐らく事故か何かだろうと思っていました。

 この盧溝橋事件の背後に中国共産党の謀略があったと言われていますが、当時の私たちは全くそんなことを考えていませんでした。ただ当時、中国の学生たちが排日運動を煽っているという話は聞かされていました。それを聞いた私は、「日本側が友好的にやりましょうと思っているにもかかわらず、なぜ中国の学生たちは排日運動を煽ったりしているのか」といった感じで、さほど深刻には受け止めていませんでした。

 第二十九軍で最も排日的なのは第三十七師の馮治安師団長だということも当時から聞いていましたが、「中国側にも、反日的指揮官がいる」程度の受け止め方でしたね。馮治安師団長の背後に中国共産党の謀略があったなんて、上級の幹部は判っていたのかも知れませんが、私たちは全く知りませんでしたね。

一発も勝手に使うことはできなかった


 盧溝橋事件が「日本軍の謀略だった」という話を戦後聞かされて、非常に憤慨しましたね。私たちは当時、好き好んで彼らに戦(いくさ)を挑んだという考えは毛頭もっていませんでしたからね。それに、当時の日本軍の実態を知っていれば、日本側から実弾攻撃をすることなど有り得ないことが判るはずだからです。

 当時の日本軍はすべて官給品による生活でして、兵器、被服、消耗品等の管理はたいへん厳しいものがありました。特に弾薬の管理はことのほか厳しかったんです。何しろ私たち兵隊は、営内(駐屯地)で実弾を持たせてもらえませんでした。当時、北京郊外の豊台にいた日本軍において実弾を持てたのは、勤務中の風紀兼警備衛兵だけでした。

 その風紀兼警備衛兵にしても、小銃弾15発を薬盒(やくごう)[腰のベルトに通す革製の弾入れ]に入れ、歩哨(ほしょう)として警戒にあたる時のみ内五発を小銃の弾倉に装填することができました。そして、任務を終えた後は、衛兵司令の前で歩哨掛の号令により確実に実弾を抜いた後にようやく任務終了となるという厳しさでした。

 それでは、私たち兵隊はいつ実弾を持つことができたのか。実際の戦闘を除けば、射撃場での実弾訓練の時と、野外演習のために営外に出る時だけでした。

 実弾訓練に際しては、射撃場で弾薬が支給されましたが、その総数と発射使用弾の薬莢(やっきょう)[小銃で弾丸を発射した際に出る弾丸の抜け殻のようなもの]数とが一致しないと、たった一発であっても未使用の弾薬のありかを部隊全員で探しました。もし見つからないと、--そんなことは実際は有り得ませんが--その部隊の隊長と兵器掛は処分されます。具体的には始末書を取られ、成績評価は黒星となります。

厳重に包装されていた実弾


 野外演習に際しては、内地ではないことですが、大使館や居留民保護の任務を持つ部隊であるため、さすがに実弾を支給されましたが、その量は僅かでした。

 盧溝橋事件当日は演習出発直前に、規定によって警備用として小銃1挺につき30発の実弾と、軽機関銃1銃につき120発を渡されました。実弾を受け取る手続きもきちんと決まっていて、兵器掛の下士官が中隊長の命令により、中隊の人員と軽機関銃の数に応じて所要数を申請するなど所要の手続きを経て弾薬庫から受領してきたものです。

 しかも、支給された実弾はすぐに使用できないようになっていました。どういうことかと言えば、実弾は15発ずつ紙製ケースに入れられ、その上から縦横十文字に被服補修用糸でぐるぐる数回巻にした形にして渡されるため、簡単に取り出すことができないようになっていたのです。もし野外で緊急事態が発生したら、即座に実弾を装填し対応することができないため、実に危険極まりないと私たちは思っていましたが、それが当時の規則であったため、やむを得ませんでした。

 当然のことながら、野外演習に際して理由なく紙製ケースの紐を解き、紙を破いて実弾を取り出したら鬼より怖い上官から厳しく追及されることになります。というのも、日本軍は当時、野外演習に際して実弾を使っていなかったからです。演習では、形だけ引き金を引くか、時には空包[発射音だけがするもの]を使うだけでした。

 盧溝橋事件が発生した7月7日の夜もやはり野外演習を実施していましたが、敵に模した仮設敵[ベニヤ板や布で人間の伏せた形に作り、色彩を施したもの]の部隊が空包を持ち、実弾は使っていません。

取り出しにくい位置に弾丸を携行


 更に携行に際しては、わざわざ実弾を取り出しにくい位置に身に付けるように指導されました。兵隊は平素、ベルトの正面のバックルの左右に30発の前盒[弾入れ]を二つ付けています。15発の実弾が入った紙製ケースを二つ、つまり30発ずつ渡される場合、必ず左側の前盒に入れるよう、口うるさく指導されました。なぜ左側なのかと言えば、左側の方が装填しにくいからです。

 実弾を装填するには左手で小銃を胸の前に捧げ、右手でレバーを引いて弾倉を開け、右手で弾入れの前盒の留めを外し、紙製ケースを破って五発ずつセットにしてある実弾を取り出し装填します。従って、もっとも装填しやすいのは動かす右手下の右の前盒に入っている実弾です。左の前盒に入っている実弾は小銃を支えている腕の下で開けにくい。

 まして戦闘になれば、兵の姿勢は概ね敵弾を避けるために右手で銃を持ち、左ひじで上半身を支えた匍匐(ほふく)[横ばい]姿勢ですから、左側の前盒は体の下になり弾を出しにくい。取り出しやすい位置に実弾を身に付けさせると、身の危険を感じた兵隊が命令をきかずに実弾を装填し、撃ってしまうと考えたのかも知れませんが、現場の兵隊からすれば、「過剰」ともいえるほどの実弾管理体制でした。

 野外演習を終了し、営内に戻ると、兵器掛が各自から紙製ケースに入った実弾を集め、その数を確かめ、弾薬箱に封印し、直ちに弾薬庫に運び返納、厳重に保管させました。万が一実弾を落としたりして返納の際に一発でも数が合わなかったら大変な騒ぎとなり、厳しく追及され、処分を科せられることになります。もちろん鬼より怖い下士官の兵器掛が丹精して包装した紙製ケースを破いて実弾を取り出すことも有り得ません。理由なく実弾を装填しているだけで、厳しく追及されるからです。

 つまり、野外演習に際して実弾を支給されましたが、兵隊が命令もなく無断で小銃に装填するはずがないのです。よって日本軍の兵隊がミスとか偶発で撃つことは絶対に有り得ないのです。

携行食糧もなく


 なお、「最初の第一発は中国軍側の偶発的行為かも知れないが、事件を利用して日本軍が日中戦争を拡大するつもりであった」という批判があります。しかし、当時の第八中隊の装備を知れば有り得ない話だと思います。

北京近郊の盧溝橋で戦闘態勢を取る日本軍部隊=昭和12年7月
 盧溝橋事件が起こった日、野外演習に際して兵隊が渡された実弾は従来通り1人僅か30発でした。この30発という数は決して少ない数ではありませんが、本格的な戦闘を想定していなかったことは明らかです。また、私が所属していた第八中隊は当日、中隊長の配慮により兵隊の負担を軽減し、来るべき検閲に備えて体力温存のため超軽装で野外演習に参加しています。具体的には、夕食を早めに営内で取り、飯盒(はんごう)を持参しないで済むようにし、鉄帽も着替え用下着も携行食糧(乾パン)も持たず、背嚢(はいのう)[リュックサックのようなもの]を空っぽにしていました。ただし湯冷ましを入れた水筒と作業用の小円匙(えんぴ)[シャベル]と小十字鍬だけは持って出ました。中国軍との戦闘など全く想定していなかったわけです。

 7日の晩は、夜間演習が夜の10時半頃に終わって朝は4時頃になると明るくなってしまうので、その間は野営をして仮眠をとるつもりでいました。ところが夜10時40分頃に実弾射撃を受けてから私たちの部隊は、野営もできず、敵に射撃を受けても安全なところまでは後退したりするなど敵に対して警戒態勢をとり、ひたすら緊張状態の中を過ごしました。

 営内での夕食から30時間経った8日の夜11時頃、在留邦人の協力で弾薬箱に入れて運ばれた炊き出しのおにぎりをようやく食べることができましたが、その美味しさは未だに忘れることができません。それまで睡眠もとれず、携行食糧もなく、頼りにするのは水筒一本の水だけでした。民家の水がめや井戸の水もありますが、そのような水を飲むことは非常に危険でした。

 中国側が主張するように、もし日本軍が野外演習を口実に中国軍との戦闘を始めようという謀略を考えていたのだとしたら、第一線となる私たち第八中隊の兵隊をわざわざ鉄帽も携帯口糧も持たせずに野外演習に出すでしょうか。現場にいた者としては、日本軍が最初から仕掛けるつもりだったとはとても思えないのです。

【解説】長澤証言をいかに受け止めるべきか


 以上、長澤氏の証言のポイントを整理すると、以下の3点に集約されよう。

 第1に、当時の中国駐留の日本軍は弾薬の管理が厳しく、たとえ1発でも無断で実弾射撃をできる態勢になかった。このため、たとえ偶発的であったとしても、盧溝橋事件の「最初の一発」が日本軍によるものである可能性はほとんどないということである。ちなみに中国側の反日宣伝を真に受けて、中国大陸にいた日本軍の兵士たちは規律が乱れ、好き勝手に武器を使って中国の民間人を殺害し、民家に押し入って食糧やお金などを略奪し、女性に暴行を働いていたといった印象を持つ人が多いが、それがとんでもない誤解であることも判る。

 第2に、中国の歴史教科書では「盧溝橋進攻を目標とした軍事演習」と非難しているが、夜間演習に出た第八中隊は、鉄帽も携行食糧も持参していない上、実弾も1人30発に過ぎず、中国側との戦闘を想定した装備ではなかった。演習目的も、間近に迫った検閲のための訓練に過ぎず、実弾も全く使用していなかった。つまり第八中隊には、盧溝橋進攻という「目標」も、夜間演習を行うことで中国側を挑発する「意図」もなかったのである。

 第3に、豊台駐屯地にいた第八中隊は、日常的な交流があった中国側の第二十九軍を「友軍」と見なしていた。そのため、最初の実弾射撃を受けた第八中隊の兵隊たちは、中国側による「嫌がらせ」か「偶発的事故」といった受け止め方しかしていなかった。中国側は「長い間もくろんでいた全面的な侵華戦争を開始した」と非難しているが、少なくとも現地にいた当時の日本軍の兵隊たちには、中国と本格的な戦争を始めるという発想そのものがなかった。

 このように長澤氏の証言から、日本軍が最初の一発を撃つことは、武器管理上も、当時の装備上も、また当時の日本軍の空気としても有り得なかったといえよう。

 「最初の一発は日本軍ではない」という見解は実は、昭和21年5月から始まった極東国際軍事裁判(東京裁判)でも否定されていない。中国側は、「盧溝橋事件は日本軍が盧溝橋地区を武力占領するために始めた」と主張したが、最終判決は、「盧溝橋事件の責任が日本側にあった」との明確な判定を下さなかったのである。日本軍の戦争責任を追及するために開かれた東京裁判においてさえも「最初に仕掛けたのは日本軍ではない」という見解を否定できなかったという事実は、我が国の歴史教科書にもきちんと明記されるべきである。

残された課題--誰が事件を仕掛けたのか


 最後に、では誰が「最初の一発」を撃ったのか、という問題に触れておきたい。

 1986年、当時現場の第二十九軍の大隊長であった金振中の回想記が中国で公刊された。その回想記によって、金振中が7月6日に開いた将校会議で「十分なる戦闘準備をなすよう指示し、日本軍が我が陣地の100メートル以内に進入したら射撃してもよし」と命じていたことが判明した。

 そこで秦郁彦氏はその大著『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996年)において、「最初の一発」について、「日本人説」、「中国側の第二十九軍」、「第三者説…(1)藍衣社など国民党系の特務機関、(2)西北軍閥系の諸分子、(3)中国共産党、(4)その他」の3説を挙げた上で、金振中回想記を踏まえ、現場にいた第二十九軍の兵士が事前に射撃許可をもらっていたため、日本軍の夜間演習の空包射撃に興奮して「偶発的に射撃した」と結論づけている。

 一方、日本側の公式見解は、事件直後は「第二十九軍第三十七師馮治安部下の支那兵約二個中隊」(盧溝橋事件が起こった翌日の7月8日午前11時の外務省当局発表)が実弾を撃ってきたと非難していたが、その後、中国共産党が当時7月8日付という早い時点で対日即時開戦を主張した通電(アピール)を出していたことなどが判り、東京裁判では、蒋介石の国民政府を対日戦に巻き込むため共産分子が企てた計画的陰謀だと主張している。

 『日本軍盧溝橋進攻に関する通電』と題したこの通電は次のようなものである。

 七月七日夜十時日本は盧溝橋に於いて中国駐屯軍馮治安部隊に対して攻撃を開始し馮部隊の長辛店への撤退を要求せり。馮部隊は衝突の発生を許されざるに因り双方現に対峙中なり…日本帝国主義の武力平津華北侵略の危険は既に各中国人の面前に迫れり…我等は宋哲元将軍が即刻動員二十九軍全体が前線に赴き応戦せん事を要求す。

 我等は南京中央政府が即時適切に二十九軍を援助し並びに全国民衆の愛国運動を開放し抗戦の世論を昂揚し全国海陸空軍を動員し抗戦を準備し中国内に潜伏する漢奸分子及一切日寇のスパイを粛清し後方を安んずべし…我等のスローガンは 武装して平津を保衛せよ 華北を保衛せよ 日本帝国主義が寸土たりとも中国領土を占領するを許さず(中略)国共両党は親密に合作し日寇の新しき進攻に抵抗し中国より駆逐す。


 この通電について中国共産党犯人説をとる葛西純一氏は、《電文は七月七日夜十時、といわゆる日本軍の先制攻撃時刻を明示しているが、事実は8日午前5時半の応戦であり、従ってこの「夜十時」は劉少奇ら中共中央北方局の地下工作員が、日支両軍に向けて銃声(爆竹のような)を同時に浴びせかけ、「点火」に成功したという無線報告によるものと思われる》と解説している(『新資料 盧溝橋事件』成祥出版社、1975年)。

 この中国共産党犯人説について、秦郁彦氏は決定的証拠がないとして退けているものの、その著『昭和史の謎を追う[上]』(文藝春秋、1993年)の中では、第二十九軍には、張克侠参謀副長を筆頭に張経武、朱則民ら中国共産党の秘密党員が司令部に潜入しているほか、盧溝橋の現場を指揮していた三十七師の百十旅団長何基もシンパであったことを紹介し、《盧溝橋事件当時の二九軍は中共党の思うがままに近い状態ではなかったか》と指摘している。

 前述したように東京裁判において日本側は、「盧溝橋事件は蒋介石の国民政府を対日戦に巻き込むため共産分子が企てた計画的陰謀であった」として日中対立を煽った中国共産党の謀略について論証しようとしたが、ウェッブ裁判長は「支那あるいはその他の場所での共産主義その他の思想の存在、またはその蔓延にかんする証拠は、すべて関連性なし」としてその書証はすべて却下されてしまった。

 戦後61年を迎え、NHKや読売新聞など日本のマスコミは戦争責任の検証に熱心だが、それならば、東京裁判で追及を禁じられた「盧溝橋事件と中国共産党との関係」も正面から取り組むべきではないだろうか。
(聞き書き・構成・解説/評論家 江崎道朗) 

長澤連治氏(ながさわ・れんじ) 大正4年生まれ。昭和10年秋田歩兵連隊、11年支那駐屯歩兵第一連隊(牟田口廉也連隊長)に転属、12年7月7日、盧溝橋事件に遭遇(当時伍長)。以後中国各地を転戦。19年7月准尉として湖南省の戦闘で右手に重傷、野戦病院、内地陸軍病院を経由して終戦で復員。現在、秋田県横手市平鹿町に在住。