元亀4年(1573)8月、織田信長は浅井長政の居城小谷おだに(滋賀県長浜市)を攻め、その際、長政が妻(市)と娘の三姉妹(茶々・初・江)を信長に託した話は有名です(『浅井三代記』)。

 しかし、信長はその小谷城を攻め落とすのに3年もかかっています。

 今回は、小谷落城にかかわる姉川の合戦の謎と落城の真相に迫ってみたいと思います。

 元亀元年(1770)6月、信長は朝倉義景を討つべく越前に侵攻し、金ヶ崎(敦賀市)を落としますが、そのとき信長の耳に、「長政離反」の一報がもたらされました。

 長政は信長の義弟。そのとき、信長は「浅井は歴然御縁者たるの上(中略)虚説たるべき」(『信長公記』)といい、すぐには信じませんでした。

 それだけ長政を信じていたのでしょう。

 結果、信長は命からがら京へ逃げ帰ることになります(金ヶ崎崩れ)。

 信じていたぶん、信長の怒りは激しいものでした。

 その年の6月、信長は裏切り者の長政を成敗すべく、大軍を率いて長政の居城小谷を包囲しました。

 しかし、織田軍の勢いもそこまで。何しろ、小谷城は峻険な山城。天下に名高い堅城を、そう簡単には攻め落とせません。

 そこで信長は、浅井勢を平地に引っ張り出し、野戦に持ちこむ作戦にでます。

写真は小谷城のある小谷山
 小谷城は峻険な山城です。

 そこで信長は、浅井勢を平地に引っ張り出し、野戦に持ちこむ作戦にでます。

 まず信長は、羽柴(のちの豊臣)秀吉らに命じて城下を放火してまわらせました。

 そうして、籠城していた長政と援軍の朝倉勢を姉川北岸に誘い出すことに成功します。

 一方の織田勢は姉川の南岸に陣し、加勢の徳川軍と共に、6月28日の未明、姉川を挟んで両連合軍の決戦の火蓋が切って落とされます。

 ところで最近、信長が傘下の武将へ、二十八日までに岐阜城(当時の信長居城)へ軍勢を終結させるように求める史料が発見されています。

 もし、彼らを決戦に投入する考えだったと仮定したら、信長の予想より早く、浅井勢は姉川を挟んで織田勢と対峙したことになります。

 そして、そのことがこの合戦に大きく影響するのです。

この碑は浅井勢らが陣した姉川北岸にあります。
 旧陸軍参謀本部編纂の『日本戦史』の記述をみるかぎり、両連合軍の兵力は、「織田二万九〇〇〇・徳川五〇〇〇」(計三万四〇〇〇)に対して、「浅井八〇〇〇・朝倉一万」(計一万八〇〇〇)の兵力差がありました。

 しかし、ほぼ3倍の兵力を誇る織田勢は、浅井勢に押しまくられ、『甲陽軍鑑』によると、十五町(約1.6㌔)も後退させられます。

 ところが徳川勢の奮戦によって、ようやく逆転勝利を得たといいます。

 結果、『信長公記』は、

 「宗徒(主な武将)千百余討取。大谷(小谷の誤り)まで五十町追討ち、麓を御放火」

 と記し、通説は織田・徳川の勝利だとしています。

 つまり、織田との決戦に敗れ、ふたたび居城に籠城するしかなくなった浅井勢は、このまま衰退の一途を辿るかのようにみえます。

 ところが、朝倉方の史料(『朝倉始末記』)には「互角ノ合戦ニソ成ニケル」とあり、逆に織田方の将兵「千余人」を討ち取ったと書かれています。

 それぞれ“身びいき”の部分を割り引いて考えると、勝負は引き分けとみるのが妥当でしょう。

 だとすると、織田勢2万9000に岐阜城からの後詰の兵が加わり、数の上で浅井・朝倉連合軍をより圧倒してしまっていたら、この合戦で織田・徳川連合軍が完膚なきまでに敵を粉砕していた可能性もなくはありません。

 ただ、浅井側からすると、この合戦の勝敗はそう大きく態勢に影響しませんでした。

 というのも、長政は、信長の誘い出しに引っかからず、合戦に8000の兵だけ送って兵力を温存させていたからです。

 この勝負は、まず長政の“作戦勝ち”であったとみるべきでしょう。

 そして信長は、このとき浅井勢の力を温存させたことを激しく悔やむことになります。

 信長はその生涯において、なんどか窮地に陥っていますが、そのひとつに直面するのです。

  姉川の合戦から三ヶ月、元亀四年(1573)の九月二十三日、三好三人衆が籠る大坂の野田・福島砦を攻撃中、信長は陣を引き払い、京へ急行しようとしました。

  三好三人衆と連携する浅井・朝倉勢が信長の留守(出陣中)を狙い、京へ軍勢を進めているという急報が入ったからです。

  しかし、京へ急ぐ信長の前に荒れ狂う江口川(現・安威川下流)が立ちはだかります。

  三好勢らによって渡し船が撤去され、織田軍は一歩も前へ進めなくまりました。

  殿軍(しんがり)を和田惟政・柴田勝家の両将に命じているとはいえ、三好勢に背後を襲われたら、進むに進めず、織田勢は壊滅する危険もありました。

  そのとき信長の冷静な分析力が的確な判断を下します。

  実際に馬を川に乗り入れ、流れが見た目ほどでないと確信するや、全軍に渡河命令を下したのです。

  かくして、信長の判断どおり雑兵も徒歩で無事渡河することができました。

  ところが、その翌日には徒歩ではとても渡れないほどの水かさになったため、江口付近の人々は、

 「奇特不思議の思ひをなす事なり」(『信長公記』)

 といって皆、驚いたというのです。

  しかし、すべては、姉川の合戦で浅井勢の力を温存させてしまったがために招いた窮地だったといえるでしょう。

 姉川の合戦で「織田・徳川連合軍」が勝利したとみるのが一般的です。

 しかし、徳川時代に書かれた史料には、徳川勢の奮闘を誇張し、彼らが信長の窮地を救ったとする作為が感じられます。

 また、信長側も、当時、将軍足利義昭と険悪な関係にあったため、結果以上に合戦の勝利を喧伝する必要がありました。

 したがって、「織田・徳川連合軍」の勝利という話は、こうしたことから生まれた虚報といえるでしょう。

 信長にしたら、姉川の合戦で浅井勢の息の根を止められなかったことが痛手となります。

 大坂の野田・福島で窮地に立たされたこともそうですが、その後、難攻不落の小谷城はなんど攻めても落ちませんでした。

 それはやはり、小谷城が峻険な山城であったためでしょう。

 小谷城は清水谷と呼ばれる逆V字形に切れこんだ谷を挟んで、右側の峰と左側の峰に分断されています(下の写真参照)。

 右側の峰の山頂付近にある本丸へ攻め上がる方法はふたつありました。

小谷城の模型
 小谷城は清水谷と呼ばれる逆V字形に切れこんだ谷を挟んで、右側の峰と左側の峰に分断されていました。

 右側の峰の山頂付近にある本丸へ攻め上がる道はふたつあります。

 まず、ひとつは峰下の大手口を突破する方法です。

大手道
 しかし、写真からおわかりいただけるとおり、大手道はかなり急峻で、道の途中にはいくつも出丸がもうけられていました。

 ここから攻め上がるには、かなりの被害が予想されます。

 もうひとつが、本丸のある右側の峰と左側の峰を分かつ清水谷方面から水之手道を攻め上がる戦術です。

清水谷から水之手道方面を望んだところ
 姉川の合戦の2年後、実際に信長はこの戦術を取ろうとしますが、攻めきれずに引き返しています。

 というのも、左側の峰の山頂にもうけられた支城の大嶽おおづく城とその尾根上にある出丸から背後を攻撃されたからです。

 つまり、小谷城は右側の本城と左側の支城(大嶽城)が独立しながら、互いに連携できる“鉄壁の守備陣形”を敷いていたのです。

 それではなぜ、信長はこの難攻不落の山城(小谷城)を攻め落とすことができたのでしょうか。

 信長が清水谷方面からの城攻めに失敗した翌年の八月、小谷城は陥落して長政は自害します。

 市(長政の妻)が幼い三姉妹(三女の江については小谷落城後に生まれたとする説もあります)を連れ、炎の中、城を脱出するのはこのときのことです。

 その年、浅井にとって最大の後ろ盾だった武田信玄が他界し、小谷城から至近の距離にある山本山城主・阿閉あつじ貞さだ征ゆきが織田方へ寝返ったことが痛手となります。

 信玄を失って孤立していた長政を、貞征が見限った形です。

 やがて、貞征に呼応するかのように大嶽城に付随する砦(焼尾砦)の守将も織田方へ寝返り、これで万事休ス。

 大嶽城はあえなく陥落してしまいます。

 前述したように、小谷城は、大嶽城(左峰)と本城(右峰)が連携して、難攻不落の威を誇っていました。

 大嶽城が落城してしまえば、“丸裸”も同然といえるでしょう。

 こうして、水之手道を攻め上がった羽柴秀吉らの前に、落城します。

 ただし、もし姉川の合戦で織田勢が大勝利をおさめ、そのとき長政の首を挙げていたとしたら、信長はここまで浅井勢に苦しまなかったでしょう。

 だとすると姉川の合戦は、戦略的にみて浅井方の勝利とみなすほうが適切かもしれません。


 (筆者注 以上の内容は「信長、秀吉、家康 「捏造された歴史」 (双葉新書)から一部引用したものです)


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