田中秀雄(近現代史研究家)

東亜保全-日本の大命題


 明治の開国を迎えなければならなかった日本にとって、日清、日露の大戦争が国家安全保障のために遂行しなければならなかった国家的プロジェクトであったことは、狂信的な反日思想の持ち主を除いては誰も異論はないだろう。

 さらに、西洋列強のアジア進出という事態に、日本は自国の安全だけでなく東洋の保全を考えなければいけなかった。明治22(1889)年2月11日の大日本帝国憲法発布の頃、明治天皇は西郷従道に言われたという。

 「東経百二十度以東のシベリアに意義ある援助をし、日本海の安全を保ってこそ支那の領土保全が図られる」のであると。

 シベリアというのは満洲と言い換えてもいいだろう。ここには明治天皇の優れた地政学的感覚と東亜保全という叡慮が表明されている。この天皇の基本的認識に添って、明治の政治家、軍人たちは外交に対処し、身を処していったのである。

 明治天皇と同じ認識を北一輝も『支那革命外史』(1916・大正5年)年で述べている。南北満洲と黒龍沿海の諸州、ウラジオストク、これらを城郭にして初めて朝鮮、支那、日本海の安全は保たれるのであると。

 日露戦争の勝利とその後の韓国併合、これによって東亜は磐石の平和を保てるようになったはずであった。しかしそうではなかった。

二十一カ条交渉における日清・日露の戦後処理


 1915(大正4)年、大隈内閣はいわゆる二十一カ条の要求を北京の袁世凱政府に行った。「第一次大戦のどさくさにまぎれて利権獲の企みで日本の対中侵略の始まり」と中国や自虐史観派がやり玉にあげる問題である。しかし、1月18日から始まって5月7日の最後通牒、9日の袁世凱政府受諾に終わった経緯や内容を冷静にみていくと、この交渉には日清、日露戦争の戦後処理という重要な意味があったことが分かる。

二十一カ条要求を行った時の外相、加藤高明(元首相)
 全5カ条、21項目にわたる要求のうち主なものは、継続中の第一次大戦で戦火を交えていたドイツの山東省の利権継承に関するものが4項目、南満洲と内蒙古、漢冶萍公司に関するものが9項目、そして最も問題をはらんでいたとされる第五条のいわゆる希望条項が7項目である。

 山東省関係は日清戦争後に諸列強が清国内に相次いで獲得した権益、租借地のうちドイツ版に関するものである。日本はこのドイツとロシア、フランスによる三国干渉によって遼東半島領有が不可能になった。逆に言えば、ドイツは干渉のご褒美として山東省の権利を得ていたのだ。

 やはり三国干渉のご褒美としてロシアが租借地として得ていた旅順や大連の租借権は、その後日露戦争での勝利で日本が継承することになった。とすれば対ドイツ勝利の代償として利権の継承を求めることは特に不当と思えない。日本には権益継承の要求権があったのである。日清戦争の戦後処理という側面である。

 しかしながら日本は資財を投じ、自ら血を流してドイツ軍基地を攻略占領しながらも、北京政府と協定を結んだ上で還付してもいいという予約もしていた。これも日中親善を念頭においていたからである。

 南満洲と内蒙古に関する要求は、戦後のロシアから権利継承を得ていた満鉄や旅順・大連がまもなくその期限切れを迎えるため、それを99年に延長したいということと、日本人が興したい農業や商工業のために土地建物の賃借権や所有権を許可することである。

 しかし後半部分では中国の未整備な法制度に、日本人がどう対処するかという大きな問題があった。後にも記すことになるが、これが満洲事変の大きな原因となっている。

 満洲での権益の安定化は、この地が明治天皇も認識されていたように日本の死活的な戦略上の重要拠点であったことに加え、10万の戦死者を出した戦争の結果から見ても不当なものではなかった。日本は清国のためにこれだけの血を流してロシアを北方に追いやったのだ。日露戦争の戦後処理という側面である。

 漢冶萍公司は揚子江中流の現在の武漢市に1908(明治41)年に設立された鉄鋼と石炭を主とする商事会社であるが、この中の大冶鉄山の鉄鉱石は日清戦争後に八幡製鉄所を設立した日本にとっては、産業化するための必須の資源供給地となっていた。1899年に正式に契約が結ばれ、日本興業銀行などを通じて巨額の投資、借款が行なわれていた。日露戦争の膨大な鉄鋼需要はここから可能となった。

 辛亥革命後は革命軍による公司の没収の動き、また国有化の策謀もあったりして日本との関係が不安定になっていた。当時既に年間30万トンにもなっていた鉄鉱石の安定供給のための交渉は必須であった。

 最後まで中国側が抵抗したのが第5条7項目である。内容は、政府に日本人顧問を招くこと、「必要な地方」の警察を日華合同にすること、日本から兵器を輸入することなどだが、当時日本に亡命中であった「国父」孫文が、山田純三郎(孫文革命に参加して1900年に戦死した山田良政の弟)や犬塚信太郎満鉄理事との間で交わした「中日盟約」(大正4年2月5日)とその5項目が等しい。国民党の創始者で台湾のみならず中国共産党下の中国で今も尊敬される孫文には問題となる内容ではなかったのである。

 3カ月の長丁場には、中国側がわざと交渉を遷延させ、交渉模様を第三国にリークさせて干渉を起こさせようと試みるなど、日本側にはきわめて不快な問題が続発した。そして中国側の意向を勘案した日本側の最終修正案(4月26日)に対する、中国側の「最後の決定案」と称する回答(5月1日)がまた問題となった。満洲や内蒙古の土地賃借権は認めても、中国の警察法規に従うことを要求していた。あってなきがごとき法制度に在住日本人が従順であり得るはずがなかった。その他も決して応じられないものが多かったが、ドイツ権益の中国への無条件還付、日独講和会議への中国の参加、戦役によって生じた損害を日本が負担することまであった。あきれて物が言えなかった。

 5月5日夜、袁世凱政府の参政院参政である李盛鐸が「交渉の結果はかならず南方人の非難攻撃、あるいは政府打倒の風潮をかもし出す恐れがある。対応策として日本国の要求を軽減せんとして、このような態度に出たものと思われる。日本がいよいよ最後の決意を示すに至れば、我が方は譲歩するほかないだろう」との見解を日本側に伝えた。

 東郷茂徳の回想録『時代の一面』に出てくる、日置公使が彼に話したという「使嗾」、強要された形を装えばいいとのけしかけがあったのである。これがいわゆる「最後通牒」の舞台裏である。

 7日の最後通牒、9日の受諾と続き、中国の新聞は轟々の非難記事を満載した。李盛鐸の言う「南方人」に繋がるマスコミだろうか。しかし彼らは広東人である孫文と関係が深いわけで、当の孫文は「中日盟約」を密かに交わしている。日本非難に名を借りた北京政府攻撃にすぎまい。

 日本側は懸案事項のかなりの部分を解決するに至った。しかし山東省権益に関しては条件付の還付を明記し、第5条の多くを撤回した修正案が締結されたのである。

「欣然同意」の西原借款


 大隈内閣に代わり、1916(大正5)年10月に誕生した寺内正毅政権の対中外交政策で、最重要なのがいわゆる「西原借款」である。

 これは朝鮮総督時代の寺内総理と親交のあった実業家・西原亀三が交渉の直接当時者として北京に赴き、段祺瑞政権との間でまとめた案件である。二十一カ条要求が解決した翌年、袁世凱は皇帝に就こうとして失敗し、頓死した。その後の政権担当者となったのが段祺瑞である。

 西原借款は、諸名目とは裏腹に、北京政府への実質的な政費補助という側面が強い。あくまで日中親善が目的であり、北京政府と南方政府はお互いに妥協(統一)することを念頭においていた。西原はこの借款を二十一カ条要求でこじれた日中関係の改善策と考えていた。

 政権発足早々の大正6年1月20日に契約された交通銀行借款を皮切りに、総辞職(大正7年9月21日)後の9月28日にも3件の契約があたふたと成立、合計8件、1億4500万円の巨額借款である。原敬内閣の組閣は翌29日である。

 注目すべきは、西原が南方派にはこれぞという首領がいないという認識を示していることである。彼らは支那の実情を無視し、我儘し放題のことをなそうとしていると批判している。孫文など目に入っていない。孫文革命を援助して寺内政権を批判していた宮崎滔天とは正反対である。

 西原借款で注目すべきは、6・7件目に結ばれた「鉄道借款」だろう。満蒙四鉄道と山東二鉄道、計4000万円であるが、これは財政総長であった曹汝霖からの同額の密かな政費援助申し込み(大正7年9月14日)に起因している。

 その後、後藤新平外務大臣と特命全権公使章宗祥との間に交渉が成立し、鉄道借款の形で解決が図られたのである。つまり9月24日に極秘に、山東省鉄道の日本軍の済南と青島での駐留継続、鉄道に日本人を聘用、鉄道の将来的な日中合弁経営などが合意されたのである。章は「欣然(喜んで)同意」と交換公文に書いている。二十一カ条問題の山東省部分の実質的解決である。日清戦争の戦後処理が終わったのである。

五四運動が孕んだ「種」


 1918(大正7)年8月14日には、アメリカが発起し、日本も賛成した中国の対独参戦が決定し、中国は第一次大戦の勝利国としての地位を得ることになる。パリ講和会議は翌1919年1月18日から始まった。

 この会議で中国は自らも戦勝国であることを理由に、山東省権益を直接返還することを求めた。傲慢というべきか、西原借款の8件目は中国の軍費を負担する「参戦借款」という名目なのである。

 これが原因で日中間に紛糾があったが、前年9月の西原借款の交換公文が披露されると、中国代表は調印を拒否して帰国した。その結果起こったのがいわゆる五四運動である。1919年5月4日、曹汝霖の邸宅は焼き討ちにされ、その場にいた章宗祥は暴力を振るわれた。

 しかし五四運動の背景は深く広い。19世紀末からの中国の半植民地的な状況に危機を感じて、心ある知識人の中に自国を改革する運動が始まった。新文化運動と言われるもので、たとえば胡適が提唱した、難しい文語体でなく口語体の「白話文」使用運動などである。

 中国の封建的な現状を批判する過激な儒教批判も登場してくる。この儒教批判の主導者たちが北京大学に集合していた。陳独秀や李大釗などである。そして彼らは、ボリシェヴィキが政権を奪取した1917年のロシア革命への憧れから、共産主義への道を歩み出していた。

 五四運動の主体は彼らに教えられた学生であった。彼らに共鳴した言い方をすれば、愛国運動であり、民族主義でもあったろう。それは反政府運動ともなって、全国に展開した。段祺瑞政権はデモを取り締まり、学生を逮捕しては釈放し、また逮捕しては釈放することを繰り返し、最後には曹汝霖や章宗祥は罷免され、6月13日、内閣は総辞職した。学生たちの勝利である。

 重要なことはこれが反日運動であったことである。これに共産主義者たちは味をしめた。愛国運動、民族運動に仮託して共産主義を広めようというひそかな戦略である。反日運動が反政府運動に転換し、その逆もあるというパターンが作られてくる。

 なお胡適も北京大教授であったが、陳独秀らの共産主義には反対であった。

ワシントン会議の外交敗北


 五四運動のとき、孫文は、排日運動が激しかった上海にいた。ほぼ1年前に広東軍政府から大元帥を解任されていたからである。ここで彼の日本批判が始まっている。

 孫文は1920年12月に広東に帰還する。しかし実力はなかった。彼を支えるのは既存の軍閥であり、彼自身の有する軍隊はなかった。1922年に入って孫文は統一のための北伐を始めようとして対立する軍閥の陳烱明に追放され、また上海に落ち延びている。

 西原亀三の認識は間違いではなかった。

 孫文は、ついには自分たちの革命ができないのは日本の策謀だとまで痛烈に非難するようになった。この年の12月に52歳で亡くなった宮崎滔天にも手紙を出し、日本の軍閥を批判している。彼の日本非難は日本の新聞紙上でも披露され、当時は少壮の外交官であった重光葵も孫文自身から直接聞かされている。

 そうした声高な批判が聞えたかは別にして、1921年末から始まったワシントン会議で、幣原全権は、満蒙問題はともかく、山東問題では中国側に全面的に譲歩したのである。この会議は第一次大戦のパリ講和会議で解決できなかったアジア問題を討議する場であった。

 何より重要なのは、この問題をうるさく言い立てる中国に敗北したことと、アメリカの委員から日清戦争後に締結された露支密約に軍事同盟があったのかを問われて、それをしぶしぶ認めた顧維鈞全権に対し、日本側は沈黙したままそれ以上何も追求しなかったことである。二重の外交敗北である。

 この軍事同盟の意味するものは何か? 日露戦争でロシアと必死で戦っている日本の背後を清国軍が突いてくる可能性があったことである。清国領土の保全を日本人の血で贖った日本に対する重大な背信行為であった。本来ならばこの時点で、満蒙を日本領土にしてもよかった。二十一カ条を提出された袁世凱は清朝の高官だったのであり、裏事情はすべて知っていたはずだ。そうでありながら空とぼけて、3カ月以上の長丁場を交渉に費やさせたのである。

 孫文も二十一カ条を批判するようになったが、この露支密約にも言及はしないし、三国干渉でドイツが権益を得ていたことも問題としないのである。彼は日本の対中国侵略主義と批判するのだが、日本は生存のための戦争の結果を受け取ったまでであり、それ以上でも以下でもない。日本が支那保全=東洋の平和を企図するにあたっても、まずは自国の安全が第一である。

 孫文は朝鮮半島の三・一独立運動事件(1919年)もあって、日本の朝鮮支配も批判の対象とした。しかし朝鮮問題が原因で2度の大戦争が起こったことを理解していたのか。孫文が日本の戦争を革命に利用しようとしたのは勝手だが、日本は彼の革命を援助するために戦争したのではない。併合もまずは自国の安全のためである。多くもない国幣を傾け、孫文の嫌いなイギリスと同盟して始めてロシアに勝利したのである。

 漢冶萍問題に象徴的なように、日本が得た権益は資源なき日本にとっては「存在するための鮮血であった」(『米国極東政策史』A・W・グリスウォルド)。それもごく平和的な手段で維持しようとしているだけで、日中親善という建前は崩されていなかった。「西原借款」はその象徴である。有償借款、つまり貸し出しだが返還されないのも仕方がないと考えていたのかもしれない。「武士の情け」である。

 二十一カ条での「最後通牒」は相手側も納得した上での形だけのものであった。ワシントン会議で露支密約の露呈に沈黙したままだったのも、「武士の情け」であったのか。しかし幣原の戦後の回想録『外交五十年』では、肝心のところが曖昧なのが遺憾である。

孫文の連ソ容共政策


 孫文の再度の広東帰還は、陳烱明の排除がなった1923年2月である。しかしこれも別の軍閥の力によるもので、僥倖という側面もあった。そして孫文は大元帥に就任した。

 彼が日本批判を始める以前にロシア革命が起きている。1917年である。この革命に孫文は大きな関心を抱いた。革命ロシアもアジアに大きな関心を抱いていた。

 早速なされたのが、1919年7月25日の「対支宣言」である。この中で、ソ連は列強の圧制に苦しむ中国に同情し、解放する意図を持つ。また旧ロシア政府が持っていた圧制的条約を無効とし、義和団事件の賠償金も放棄するとの中国を喜ばせる宣言を出していた。ソ連のこの宣言に直ちに応じたのが孫文だった。

 1921年にはコミンテルン代表のマーリンと接触、1923年1月には落ちのび先の上海で、ヨッフェとの間に共同宣言を出す。翌1924年1月には、連ソ容共政策と国共合作を中国国民党第一次全国大会で宣言することになる。

 この一連の展開の中で、孫文は何を考えていたのだろう。マーリンと接触したときは北伐の陣営にいるときである。ヨッフェと会ったときは陳烱明に追い払われた屈辱のときである。孫文の耳に、強力な軍隊を提供しようという甘美なささやきが吹き込まれた可能性は大いにある。

 孫文はソ連の力を借りてそれまでの封建的な軍閥に代わる、近代的軍隊を中国に作ろうとしたのである。1923年8月、蒋介石をモスクワに派遣した。12月に彼は帰国して、翌年6月に黄埔軍官学校を創設するのである。

 蒋介石がソ連に行っている間にボロディンが広東にやってくる。彼はこの軍官学校の設立に大きな力があった。教員には政治部副主任として周恩来が就任することになる。国民党の学校なのに、共産主義者が政治部の中心に座ったのである。

 国民党第一次全国大会では、共産党との合作を危惧する声が党員から出された。しかしその声を孫文は無視した。共産党員は国民党に入党するのであり、その党紀は守らなければならない。危惧の必要はないというわけである。

 中国革命を応援していた犬養毅宛の孫文の手紙(1923年11月)には、日本批判とともに「ソビエト主義とは、ほかでもない孔子の説くところの『大同』である。大同の世は理想社会ではないか。日本もソビエトと同盟せよ」とまで書いている。受け取った犬養も相当に困惑したであろう。孫文は完全に共産主義に毒されていたのである。

 1924年11月、孫文は北京の覇者となっていた張作霖と会うために日本経由で北京に行くことになった。そのときあの有名な「大アジア主義」の演説を神戸でやっている。最後の言葉として「日本は西洋覇道の番犬となるか、東洋王道の盾となるか、その判断はあなたがた日本人にかかっているのです」と述べたと言われている。

 その後の経過は孫文の悪い方の予言が当たったと言われるのだが、それは違うのではないか。真実は孫文が不用意に中国に持ち込んだ、共産主義という悪魔の思想と戦うために日本の昭和史はあったのである。日本にとって共産主義は「東亜の保全」への新たな脅威であった。

 宮崎滔天のように日本政府が孫文を支援しておればよかったという意見もあるかもしれない。しかし実力においては北京政府に明らかに劣っていた南方政府に国が援助するということが現実的に可能だったか? 内情は複雑で、双方に足を置いている政客も多い。列強との兼ね合いもある。内乱を誘発するだけの内政干渉と非難されるのがおちだったろう。

共産主義浸透と暴虐事件の続発


 孫文は1925年3月に北京で死去する。その後の国民党は混乱を極めた。後継者は定まっておらず、早速孫文の側近の1人である親ソ派の寥仲愷が暗殺される。年末には右派の西山会議派が結成される。蒋介石も翌年3月の中山艦事件で共産主義者によるテロの危険に遭遇する。この危機を克服する中で彼は頭角を現し、国民党軍を完全に統率することに成功する。

 蒋介石による北伐が始まったのはその年の夏からである。約半年をかけて揚子江流域までたどり着く。蒋介石はこれを自前の兵隊だけで行なったわけではない。例えば元々湖南省の軍閥だった唐生智などが参加した。そして大きな事件が続発することになる。

 1927(昭和2)年3月24日、南京を占領した北伐軍が南京市内を暴行の嵐にさらした。外国人が多数虐殺され、市内は掠奪の巷となった。日本領事館も掠奪を受け、女性は暴行を受けた。武装解除されていた陸戦隊は眼前での暴行を防ぐこともできなかった。英米の砲艦は南京市内に砲撃をして自国民を守ろうとしたが、日本はそれもできなかった。

 漢口にできた政権は共産色が濃かった。労働者を組織するとの目的で、日本人の店に働いている者も「工会」に入らなければいけなかった。断わる者は「工賊」と書いた紙を背に張り、後ろ手に縛って街を引き回した。後の文化大革命で再現される光景である。そしてこの政権に唐生智が入っていたことを我々は見逃してはならない。

 4月3日、漢口の日本租界は漢口政権の攻撃に晒された。武器を持った群集が租界内を掠奪して暴れまわり、日本女性が暴行死した。これは完全に共産主義者に指導された租界回収の目的を持った行動であった。

 同じ頃、張作霖が北京のソ連大使館を捜索した。排外暴動の風潮を煽り、どんな手段を使っても掠奪や虐殺を強行し、外国の干渉をもたらし、その混乱の中から将来的な共産主義による中国支配を目論むという命令計画文書を押収する事件が起こった。漢口事件はその一環だった。事件で李大釗は逮捕され、銃殺された。

 蒋介石は反省した。4月12日、上海クーデターを敢行する。市内に割拠する共産主義者たちを一網打尽にして、五千人をも射殺した。市内にゴロゴロと首がころがった。周恩来も危なかったという。漢口にも軍隊が送られ、唐生智は一旦日本に亡命する。

 その後内政上の問題で一旦下野した蒋介石だが、12月10日に首都南京で革命軍総司令に復帰した。その翌日、広東に集まっていた共産主義者たちが武装蜂起をして城内を占領した。監獄が開放され、掠奪と放火、恐怖の3日間が広東を支配した。ソ連の方針を堅持していたのである。これも国民党が弾圧した。

済南事件の本質


 翌1928年、蒋介石は北伐を再開した。そして5月、起こったのが済南事件である。これは蒋介石の北伐=統一を望まぬ日本が邪魔立てしたものと非難されるのだが、実態は違う。これを理解するためには前年起こった南京、漢口事件に戻らねばならない。

 両事件で大きな被害を被った揚子江流域の日本人居留民は、一旦全員日本に引き揚げねばならなかった。そして時の政府に中国に対する断固たる措置を望むとの陳情をなしたのである。

 そして、北伐の再開である。進撃ルートにあたる済南では日本人居留民の危険が予想され、保護のために出兵がなされた。中国軍の警察力が信用できないからだが、やはり日本軍との衝突が起こり、男女16人の在留日本人が非道というほかない方法で虐殺された。中国兵は相変わらずの野蛮さで、至る所で虐殺、掠奪、強姦をやった。黄埔軍官学校で促成された近代軍隊などほんの一部で、兵隊などは一皮剥けばただの無頼漢に過ぎなかった。将官にしても、退却すれば処刑という厳しい強制力を行使しての北伐敢行であったのだ。

 結局北伐は済南を回避してこの年七月に完成することになるが、北京を占領した兵隊らは西太后の墓を暴き、遺体を陵辱し、遺葬品の財宝を掠奪するという暴挙までした。財宝の幾つかは宋美齢への贈り物となった。これは溥儀の復辟(清朝復興)、そして満州国皇帝就任への気持ちを強く刺激したのである。

 内田良平は既にこうした中国社会の古今変らぬ実情を『支那観』(大正2年)で深く鋭利に解剖し、孫文の理想主義など実態から乖離した机上の空論だと唾棄している。

田中上奏文と唐生智の足跡


 南京、漢口事件後、田中内閣は中国各地の領事らを集めて「東方会議」(1927年6~7月)を開いた。このような事件の再発の場合を予測して対応策を決めようとしたのである。

 それだけのことだったが、中国はわざと曲解した。この会議で日本が中国を征服し、そしてアジアを、全世界を支配する計画が作られたとする「田中上奏文」なるものを1929年に公表したのである。書いたのは共産主義者の王梵生とも言われるが、原型は孫文の側近だった戴天仇が書いた『日本論』(1928年)に既に述べられている。

 そして恐らくこの頃からコミンテルン=中国共産党の戦略が変化していったのである。諸列強の中から唯一日本という《敵国》を利用して、最終的には中国を手に入れる算段である。孫文の日本批判を利用し、戴天仇の日本観も共産主義者に乗じられるところとなった。政治軍事上は国民党と対立しながらも、思想面では共闘、あるいは利用するのである。

 唐生智は国民党軍に戻ったが、1930年に蒋介石に反抗する事件を起こしている。1937年末の南京防衛戦では、蒋介石は信頼していない外様だから彼を残したのだ。唐生智は部下を放り捨てて南京から逃げ、戦後共産党政権下では故郷の湖南省の副省長に納まっている。意味深な軌跡ではないか。

新たな「十五年戦争」史観を


 満洲事変の直接のきっかけとなったのは万宝山事件である。長春北方の万宝山における中国人地主と朝鮮人(日本国民)農民の間の諍いであるが、二十一カ条要求における満蒙の土地賃借権問題とリンクしている。実はこのような諍いは、榊原農場事件を始めとして大正時代から続発していた。日本人に賃借権はあっても、地主の中国人に中国側で貸すなと罰則をかけるとどうなるのか。諍いが起こらないはずがない。

 万宝山事件を契機に一気に諸懸案を解決しようとしたのは、在満の日本人団体である満洲青年聯盟であった。彼らは満洲を自治化し、五族協和の理想国を作ろうと考えていた。

 万宝山事件から3カ月後、1931年9月18日に満洲事変は起きた。ちょうどその日に内田良平は露支密約を論拠に、満蒙の権利はむしろ日本にあるとの見解を記した小冊子を刊行した。その権利執行を軍事行動で示したのが関東軍である。

 事変が起きる2カ月前、あの東方会議を主宰した政友会代議士・森恪は、旅順で関東軍の石原莞爾参謀と会っている。軍は満蒙を占領するが、満蒙人が信頼する政治家による簡明な王道政治を実現するという石原構想に森は驚いた。石原はまた満蒙領有はソ連の極東進出を防止するという意味で、朝鮮問題の解決にも寄与するとの認識を示した。朝鮮独立を画策する共産主義者たちは満洲とシベリア、特に沿海州でうごめいていた。

 事変の経過は、石原が満洲青年聯盟の構想に歩み寄り、溥儀を招いて半年後の独立国家誕生へと至る。石原の予見通り、満洲建国後は朝鮮内での独立の動きは沈静化する。共産主義の防波堤が満洲に築かれたからである。
 事変当時、上海にいた米国領事ラルフ・タウンゼントは、その2年後に満洲建国を高らかに讃える『暗黒大陸中国の真実』をアメリカで刊行した。しかし彼のような人物だけが上海にいたのではない。ゾルゲ、アグネス・スメドレー、尾崎秀実、川合貞吉らの国際共産党(コミンテルン)員らが上海にそろっていた。事変の勃発は彼らには驚愕の極みであった。関東軍の行動はソ連の危機だからだ。早速彼らは協議し、川合が実情調査のために奉天まで出かけている。ゾルゲが、上海で地下活動を続けていた周恩来とも知り合っていたという説も近年注目されている。

 ゾルゲや尾崎の認識はコミンテルンも共有するところであった。モスクワにおけるコミンテルン第12回執行委員会決議(1932年9月)の表題の一部に明確にそれが現われている。「ソ連邦への軍事干渉」と書かれているのだ。

 満州国建国後の1931年11月、中国共産党は江西省・瑞金で中華ソビエト共和国を成立させ、共和国政府名義で対日宣戦布告をした。そしてゾルゲや尾崎の活動が活発化する。つまりコミンテルンの対日「十五年戦争」が開始されたのである。「十五年戦争」という言葉は従来、日本が満州事変以降、昭和20年8月15日の大東亜戦争停戦まで中国を侵略し続けたという反日偽造史観を宣伝する左翼用語であった。しかし、コミンテルンと中共が一方的に日本に仕掛けた非対称戦は確かにこのとき、日本人が知らないまま始められていたのである。彼らは「十五年戦争」と称することで、日本を大陸での泥沼に引きずり込んだのは自分たちだと自白しているのだ。彼らの戦争責任を追及する文脈で使用してこそ、「十五年戦争」は正しい意味を持つのである。

田中秀雄氏(たなか・ひでお) 昭和27(1952)年、福岡県出身。慶應義塾大学文学部卒業。著書に『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』(草思社)、『石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて』(芙蓉書房出版、以下同じ)、訳本(共訳含む)に『暗黒大陸中国の真実』『アメリカはアジアに介入するな!』『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』など。映画評論家としても活躍。