北村稔(立命館大学教授)

日本軍に感謝した毛沢東


 中国共産党の最高指導者であった毛沢東は、1961(昭和36)年1月24日に、訪中していた日本社会党(現、社会民主党)の国会議員らに対して、日中戦争について次のように語っていた。

毛沢東「日本の軍閥はかつて中国の半分以上を占領していました。このために中国人民が教育されたのです。そうでなければ、中国人民は自覚もしないし、団結もできなかったでしょう。そしてわれわれはいまなお山の中にいて、北京にきて京劇などをみることはできなかったでしょう。日本の『皇軍』が大半の中国を占領していたからこそ、中国人民にとっては他に出路がなかった。それだから、自覚して、武装しはじめたのです。多くの抗日根拠地を作って、その後の解放戦争[日本敗戦後の国共内戦―北村注]において勝利するための条件を作りだしました。日本の独占資本や軍閥は『よいこと』をしてくれました。もし感謝する必要があるならば、私はむしろ日本の軍閥に感謝したいのです」。


 毛沢東の談話は、中国共産党の最高権力者のみにゆるされた本音の吐露である。日本軍国主義のおかげで中華人民共和国が出現したというのである。一体、どのような歴史事実が存在したのか。

「虫の息」だった共産党


 かつての中国では、抗日とは日本との即時開戦を意味する言葉であったが、抗日が中国内で叫ばれだしたのは、1931年9月の満州事変勃発後である。

 事変が勃発した当時、中国共産党と国民党は内戦中であった。国民党と共産党は1924年から27年までの合作(第一次国共合作)のあと、1928年からは、不倶戴天の敵として激しく戦っていた。

 国民党が一党独裁体制により1925年に広州に樹立した国民政府は、1928年には首都を南京に定めた。そして国家資本主義政策を急速に展開していた。中央銀行が設立され(1928年11月)、関税自主権の回復も実現されており(1930年5月)、国内金融の統一と国家収入の安定的増大および自国産業の保護が推進されようとしていた。このような経済発展の動きは日本と競合することになる。

 一方この間、中国共産党は農民反乱により、辺境部での「社会主義革命」を追求していた。しかし実態は、マルクス主義者のいう「生産活動からはじき出されたルンペンプロレタリアート(遊民)」の暴動であり、中国の歴史上では頻繁に発生していたものである。ちなみに、共産党が各地に樹立していたソビエト区の一つである江西省興国県永豊区のソビエト政府では、政府委員18人のうち6人が博徒出身であった。政府委員の内訳は、共産党自身の1930年の内部調査に基づく(福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち―土匪と流氓の世界』(中公新書、1998年)。

 ソビエト区では地主の土地が没収され小作人に分配されており、農地の所有形態は変化していた。しかし農作業に新式の機械や肥料が持ち込まれたわけではなく、従来どおりの方法で農業がおこなわれていた。ソビエト区は全国に点在し、1931年11月には毛沢東を主席とする中華ソビエト共和国臨時政府が江西省の瑞金に成立した。しかし農業という生産活動において何らの新機軸も出現せず、生産力の向上が望めない状態では、中華ソビエト共和国には発展の可能性は無かった。冒頭の毛沢東の言葉のとおり、「われわれはいまなお山の中にいて、北京にきて京劇などをみることはできなかった」という状況が続いたであろう。

 満州事変勃発当時の国民党と共産党の政治路線を評価すれば、都市を中心に国家資本主義建設に邁進し社会の生産力を向上させようとした国民党の路線が、中国史の正鵠を得ていた。ちなみに、中国で行われている1979(昭和54)年以来の改革開放政策は、毛沢東が推進した「社会主義プロレタリア文化大革命」を<貧困を共有する悪平等>であったと批判し、社会の生産力向上を至上目的にして開始されたのである。

 国民党は共産党の中央ソビエト区に対して、1930年の12月から5回にわたる包囲攻撃を加え、1934年の10月には中華ソビエト共和国の首都の瑞金を陥落させた。このあと共産党軍(紅軍)は、国民党軍(国民革命軍)の追撃にさらされる1年間の困難な移動をへて、1935年の10月には陝西省北部にたどり着き、やがて延安を根拠地とする。この間、共産党は移動途中の1935年1月に、貴州省の遵義で会議を開き、失脚していた毛沢東が中央政治局常任委員に選出され、主導権掌握への第一歩を確立していた。

 共産党軍(紅軍)のこの北方への移動は、「長征」として肯定的に語られるが、実態は逃避行であった。絶滅を免れたが国民革命軍により辺境に封じ込められたのである。共産党が逼塞状態を脱して新たな政治展開を図るためには、大きな歴史変動の波が必要であった。そして変動は、中国史を変化させる伝統的要因である「異民族の侵入」によりもたらされる。1937年に始まる日中戦争である。

国民党への反撃のための「抗日」スローガンで


 紅軍は国民革命軍に包囲され、社会主義革命を追求する政治路線も一般社会の支持を得ておらず、共産党は孤立していた。しかし満州事変の勃発は、共産党に突破口を提供した。地主対小作人の階級闘争を一時的に停止し、中華民族対日本民族の矛盾を正面に掲げて、共産党の存在をアピールするのである。

 満州事変勃発後の1931年11月に、成立直後の中華ソビエト共和国臨時政府は日本に宣戦布告し、抗日を主張する最初の政治勢力となる。背景には、満州事変のあと蔣介石らの国民政府首脳が妥協策を繰り返し、国民の不満が充満している状況が存在した。共産党は蔣介石の「不抗日」を非難することで世論を巻き込み、蔣介石に対する有効な攻撃手段とした。そしてこれにより、辺境のゲリラ集団から民族の存亡に責任を有する政治勢力へと変身し、中国政治の主導権を国民党と争う絶好の機会を手に入れた。

 満州事変が勃発すると、市民の間には激しい抗日気運が高まり、各種の反日団体が組織された。血書や断食により、対日即時開戦の決心が示された。南京や北京では数十万人の抗日救国大会が開かれ、南京では、「日本人を殺せ」の大合唱が会場に充満した。首都の南京では大学生たちが外交部(外務省)のビルに乱入し、国民政府外交部長の王正廷を殴打して重傷を負わせた。王正廷は1931年の9月30日に辞職する。

 このあと12月になると、全国各地から大学生1万人以上が南京に集結して「請願」をおこない、蔣介石を「恐日病」と非難し、直ちに北上して日本と戦うよう蔣介石に求めた。学生たちは国民党の中央党部に乱入したあと警官隊と衝突し、学生側に死傷者がでた。

 抗日を主張する民衆は、やがて国民政府に対し国際連盟からの脱退を求めることになる。国際連盟が派遣したリットン調査団の報告書が、満州における日本権益の尊重を問題解決の条件として提示していたからである。

 国民政府の対日妥協策は、蔣介石と対立する地方の軍閥たちにも、格好の攻撃材料を提供した。彼らも共産党と同様に、「抗日」を蔣介石への攻撃手段にしたのである。

 当時、国民政府の統治は揚子江流域に限定され、その他の省は蔣介石に対抗する地方軍閥の実質的支配下にあった。広西省の李宗仁、雲南省の龍雲、新疆省の盛世才、甘粛省の馮玉祥、山西省の閻錫山、山東省の韓復榘、察哈尓省の宋哲元、綏遠省の傅作義、東三省(満州)の張学良である。ちなみに満州事変勃発前年の1930年には、馮玉祥と閻錫山と李宗仁の3人が聯合して、蔣介石と戦う大規模な内戦(中原大戦)が発生していた。しかしこの内戦は張学良の蔣介石支持表明で、蔣介石の勝利に帰す。

 このような状況下で抗日が焦点となると、軍閥たちは蔣介石の不抗日を槍玉にあげ、蔣介石非難の大合唱を展開する。馮玉祥は、蔣介石に抗日を促す論争を挑み、1936年になると李宗仁が「焦土抗戦論」を発表し、「北上して抗日し一切の失地を回復する用意がある」と大見得を切る。しかし李宗仁が支配する広西省は、満州を離れること3000キロの地である。どのように北上抗日を実現するのか。蔣介石批判のための口先だけの抗日以外の何者でもなかった。

 共産党による抗日は、以上のような状況下に主張されたのであり、全国の民衆からの支持を獲得できる有効な政治スローガンであった。そして共産党も、反蔣介石の軍閥たちと同様に、日本軍と直接に戦闘を交える危険は少なく、口先の抗日であった側面も否定できない。たしかに1936年の2月に、紅軍の部隊が抗日実践を唱えて根拠地の陝西省北部から山西省に侵入し、日本軍との前線のある華北の地に向かおうとした。しかしこの動きは、山西省の閻錫山と蔣介石が派遣した援軍により、たちまち撃退された。

台北の中正紀念堂にある蔣介石坐像
 蔣介石ら国民政府首脳の、日本に対する妥協策には十分な理由があった。国民政府の政治、経済、軍事の基礎は都市にあり、都市により農村部を支配していた。ひとたび日本との間に全面戦争が始まれば、沿岸の都市部はたちまち日本軍に占領され、経済建設は崩壊し国内の統一も失われることが予想された。そして日中戦争が始まると、予想どおりの状況が出現する。首都の南京は半年を経ずして占領され、国民政府は奥地の重慶に移転を余儀なくされることになる。

 それにもかかわらず、新聞はじめ当時の国内のマスコミの論調は、日本軍「恐れるに足らず」が主流であった。その根拠は、概ね3点である。(1)中国は人数的に優勢である。中国陸軍には191の師団があり200万人以上の兵士がいる。さらに新たに1000万人以上を動員できる。これに対し日本陸軍の現役部隊は17個師団25万人であり、最大でも200万人しか動員できない。日本海軍は大陸の作戦では役に立たない。(2)中国は領土と資源で優勢である。日本は資源が貧弱で長期戦を戦えない。日本商品の最大市場は中国であり、日本製品ボイコットを半年続ければ日本は干上がり、やがて瓦解する。(3)列強諸国は満州を日本の勢力範囲であると認め、満州事変を黙認した。戦場を満州に限定せず中国全土に拡大すれば、列強諸国は日本に干渉するであろう。

 上記の3点のうち、3番目の理由はその後の展開を予想するものであったが、予想の実現までには中国の主要部分が日本軍に占領されてしまう。「抗日」の実行は、政権担当者の国民政府には困難な課題であった。戦争回避を主張した人々は少数派であったが、軍事や政治の重要ポストについているか、社会的影響力のある学者たちであった。

 当時もっとも声望のあった学者で、和平論を主張して抗日派と論争した哲学者の胡適の言葉を借りれば、抗日とは、「鍛冶屋の鍛えた大刀をひっさげ、荷車やラクダや人夫をたよりにして、近代的な日本軍と運を天に任せて戦う」ことであった。蔣介石自身も馮玉祥との論争で、「銃でもおよばず、砲でも及ばず、教育訓練でも及ばず、機械でも工場でも及ばない。もし日本に抵抗すれば、せいぜい3日で国は滅んでしまう」と述べ、馮玉祥に「三日亡国論」だと批判されていた。

 しかし表むき蔣介石は、妥協派という非難をかわすために、<先ず共産党を滅ぼして国内を統一し、国民の団結一致により日本と戦う>「安内攘外」(内を安んじて外を打ち払う)論を展開した。そして戦争になった場合の戦略として、1933年の段階で次のように述べていた。「日本が我々の第一線の部隊を打ち破れば、我々は第二線、第三線の部隊でこれを補充する。…一線、また一線と陣地を作り不断に抵抗して少しも怠ることがない。…もし3年か5年も抵抗できれば、国際上において必ず新しい発展があると思う。…このようにしてこそ、我々の国家と民族には死中に活を求める一筋の希望があるのである」(秦孝儀『総統 蔣公大事長編初稿』<中華民国二十二年(一九三三年)四月十二日条>、1978年、台北)。

 はたして4年後の1937年に始まった日中戦争は太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発により、蔣介石の予想どおりの展開と結末を迎えることになる。しかし一方では共産党に勢力拡大の機会を与え、国民党が政権を奪われてしまうという結果をもたらす。

コミンテルンの介入と抗日の実現


 内戦を続けていた国民党と共産党は、やがて表面上は戦闘を中止し、抗日のため民族統一戦線を構築する。統一戦線を成立させた最大の要因は、コミンテルンの新政策であった。コミンテルンはナチスドイツの出現と日本の満州国建国が、両面からのソ連攻撃に発展する危険を感じていた。この危険に対処するため1935年夏のコミンテルン第7回大会は、反ファシズム統一戦線の構築を決議した。その結果、各国の共産党員は階級闘争を一時的に停止し、ドイツ、日本、さらにはイタリアからのソ連攻撃の脅威を減少させる役割を担わされた。

 こうして1935年8月1日に、モスクワ駐在の中国共産党代表の王明(陳紹禹)は、中華ソビエト共和国政府と中国共産党中央の名により「抗日救国のために全国同胞に告げる書」を発表し、統一された国防政府の樹立を呼びかけた。ただし、この段階では蔣介石たち国民政府首脳を売国奴呼ばわりしており、国民党との抗日統一戦線の構築は不可能であった。

 1936年5月5日になると、共産党は中華ソビエト共和国中央政府の毛沢東ならびに革命軍事委員会主席の朱徳の名により、国民党に対して一カ月以内の停戦と一致抗日を呼びかける通電(全国のメディアに通知する電報)を発した。この中では、「蔣介石氏」という敬称も用いた。そして日本側からの圧力に対し対決もやむなしと考え始めていた国民党側との間で、このあと上海で停戦協議が開始されたという。

 すでに蔣介石も、1935年11月の国民党第5回全国大会で、日本とは和平の努力を続けるが「最後の関頭(分かれ目)」に到ればと述べて、抗日の覚悟を示していた。そして同年の末にはオーストリアのウィーンでソ連政府と接触し、抗日への援助を打診し始めていた。しかし表面的には従来からの安内攘外の方針を崩さず、延安を中心とする共産党支配地域への包囲を強化していた。

 ところが翌1936年12月になり、地方軍閥の楊虎城と、満州の地盤を失ったあと共産党包囲を担当させられていた張学良が、包囲作戦の督戦に西安を訪れた蔣介石を監禁したのである。そして共産党側との連絡のもとに、蔣介石に対して、内戦停止と一致抗日の実現を迫った。いわゆる「西安事件」の勃発である。この事件のあと、基本的には国共内戦の停止と一致抗日という状況が出現する。

日中戦争の拡大と共産党の勢力増大


 1937年7月7日の盧溝橋事件のあと、抗日民族統一戦線として第二次国共合作が一気に促進される。共産党は9月に宣言を発し、国民党の党是である三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)の実現に奮闘し国民党の指導のもとで抗日戦争を戦うことを確認した。紅軍は国民革命軍に編入され、第八路軍、および新四軍と改称し、国民政府から軍費の給付を受けた。共産党のソビエト区も辺区と名を改め、地主の土地没収は停止され小作料の軽減へと変化した。国民党の政治主導権が承認され、国内の政治統一が促進された。

 国民党は1938年3月になると、戦争完遂の指導方針である「抗戦建国綱領」を作成し、7月には蔣介石を議長に共産党も参加する国民参政会が組織された。国民参政会は1948年3月まで、最高の民意機構として機能する。

 ではこのとき、中国共産党は何を考えていたのか。日中戦争の実質的な始まりである第二次上海事変勃発後の同年8月20日から25日にかけ、中国共産党は延安の洛川県で中央拡大会議を開き、毛沢東が起草した「中国共産党の抗日救国十代綱領」を発表、「日本帝国主義の打倒」「全国的な軍事と人民総動員」などを呼びかけ、国民党とともに抗日戦に臨む気勢を示した。しかし、これらは「公の顔」に過ぎず、それとは異なった「秘密の顔」があったことを示す資料が近年公開されている。『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』(謝幼田、草思社、2006年)によると、毛沢東は洛川会議の参加者に対し、「愛国主義に惑わされてはならない。前線に行って抗日の英雄になってはならない」と警告し、八路軍の主要任務は「軍の勢力を拡充するとともに、敵の後方に中共の指導する抗日遊撃根拠地を建設することである」などと指示している。

 同書は9月21日に毛沢東が彭徳懐に送った手紙をもとに、党の戦略の基本精神は「(日本と国民党軍の戦いを)高みの見物をするとともに、機に乗じて『根拠地を創造し、大衆を動員し』、国の中の国を創建すること」だったと指摘する。「これは抗日戦勝利後に中共が全中国を奪取するための条件を生み出すことであり」「完全に民族の責任から逃避するとともに、(中略)宣伝面では懸命に抗日を叫び、民衆を欺きながら政治的な利益を掠め取るもであった」(同書)。

 日中全面戦争がはじまると、沿岸の都市部はたちまち日本軍に占領され、国民政府の経済建設は頓挫する。これに対し共産党の勢力基盤は広大な農村部にあり、行政機構も簡素で柔軟性に富んでいた。日本との全面戦争がはじまっても共産党は国民政府の正規軍とはことなり遊撃戦(ゲリラ戦)をやるわけであり、損害も少ないことが予想された。「敵進めば我退く」を信条とするゲリラ戦は、敵とは正面から戦わず自らの勢力を温存することを旨としていた。そしてそのぶんだけ、住民が敵から危害を加えられる危険に晒されたことは想像に難くない。

 はたして日中戦争の開始後、共産党は国民政府の行政機関が消滅した(地方官吏が逃亡したのである)広大な農村部に楽々と浸透した。大都市を占領した日本軍は、都市住民のために食糧を確保しなければならなかった。しかし従来の食糧流通の仕組みは、国民政府の地方行政機関の崩壊とともに消滅していた。

 その結果、日本軍は農村から食糧を徴発せざるをえなかったが、この行為が華北(北中国)の農民の大きな反発を惹起した。これに対し共産党は、農民からの食糧徴発を極力押さえ、農作業などへの協力と治安維持の役割を通じて、農民の支持を獲得する。そして八年間の日中戦争中に、人口約一億人を擁する勢力圏を作り上げたのである。この巨大な勢力圏が、日本降伏後に再会された国共内戦において、共産党が勝利する決定的要因となった。この間の詳しい経緯は、北村稔・林思雲『日中戦争―戦争を望んだ中国、望まなかった日本』(PHP研究所、2008年)を参照していただけると幸甚である。

 ただ実際には日中戦争中から、共産党の支配地域拡大をめぐり国共間の対立が高まっていた。そして日中戦争開始3年半後の1941年1月に、安徽省では蔣介石の命令に違反して勢力圏の拡大を図った理由で、共産党の新四軍が国民党軍に包囲攻撃され壊滅する事態が発生した。国民政府はこの事件をきっかけに共産党に支給していた軍費を打ち切り、国民政府軍は陝西省の延安一帯を経済封鎖する。これに対し共産党は、軍隊を農業生産に大動員して延安の根拠地を持ちこたえる。

 日中戦争は、太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発により転機を迎え、中国は米英を中心とする連合国の一員となった。重慶の国民政府は真珠湾攻撃の翌日の1941年12月9日に、宣戦布告なき戦争を改め、日本に宣戦を布告した。これにより日中戦争における中華民国の勝利は保証され、中華民国は国際的地位を一気に向上させる。蔣介石は連合軍中国戦区最高司令官に任命され、中国だけでなくタイとベトナムの連合軍部隊を指揮した。

新国家建設の青写真


 日中戦争中の中国では、国民党と共産党のいずれが日本敗戦後の国内政治の主導権を握るかをめぐり、熾烈な戦いが繰り広げられていた。そして国民党が従来の政治路線を踏襲して勢力温存を図ったのに対して、共産党は新しい政治理論と社会的基礎を構築し、国民党に対抗した。新しい政治理論は1940年に発表された毛沢東の「新民主主義論」であった。

 共産党は1937年9月の宣言で、国民党の指導のもとに抗日戦争を戦い、三民主義の実現のために奮闘すると述べていた。しかしこれは国民党の政治理論に従属し続けることを意味しており、共産党には、抗日統一戦線の枠を破壊しない範囲内で新しい政治理論を提示する必要があった。この作業はすでに1936年中に開始されていたが、「新民主主義論」の出現により完成される。

「新民主主義論」は巧みな政治理論であった。国民党の政治原理である孫文の三民主義を新旧二つの三民主義に分断し、蔣介石たち国民党指導部は旧三民主義にとどまる存在にすぎず、共産党こそが孫文の新三民主義を継承し発展させる存在だと主張した。「新民主主義論」は、マルクス主義を基礎に歴史を分析し、中国は1919年の五四運動を境に「新民主主義革命期」(新しい民主主義革命の時期)に入り、中国革命の指導勢力も民族ブルジョアジー(国民党がその代表である)からプロレタリアート(共産党がその代表である)に移行したと主張した。そして孫文に対する批判姿勢を一変させ、孫文を新しい歴史段階への橋渡しを演じた人物として積極的に評価した。

 事実として孫文は、ソ連との連携、共産党員との協力、労働者と農民への援助、という三つの新政策を基礎に第一次国共合作を決意したが、これは旧来の政治主張である「旧三民主義」が、新民主主義革命期の「新三民主義」に移行した結果であると主張したのである。ちなみに孫文は第一次国共合作中の1925年に逝去していた。

 共産党の新しい政治理論に対し、蔣介石は1943年に「中国之命運」を発表し、孫文の三民主義に変化はなく、国民党が革命の指導勢力であり、今後も国民政府が国家の中核であると反駁していた。しかし共産党は、「新民主主義論」により、社会主義革命に必ずしも賛成しないが、国民党の一党独裁には反対する第三勢力(民主党派とよばれた)と連携し、地方軍閥を含む国民党内の反蔣介石派を味方につけることに成功する。

 共産党は1945年4月、各党各派を基礎とする民主連合政府の樹立を提案する。そして「新民主主義論」と連合政府の樹立を掲げて国民党との内戦に勝利し、1949年には中華人民共和国を樹立した。

 国民党内の反蔣介石派の人々は、内戦の帰趨が決まった1948年1月に孫文夫人の宋慶齢を名誉主席とする国民党革命委員会を組織し、他の民主党派ととともに、中華人民共和国の成立に参画した。宋慶齢は国家副主席(主席は毛沢東)に選出され、民主党派からも数人が国務大臣に就任した。しかし新国家が共産党の独裁であることは自明であり、民主党派は1956年の「反右派闘争」で少数の人物をのぞき一掃される。ちなみに民主党派は現存する。そして、中国人からは「花瓶」とよばれている。

 三民主義のもう一つの精神である民生主義(経済的不平等の改善と社会福祉の充実)についても、都市部と農村部のすさまじい経済格差を許しながら経済発展を遂げてきた改革開放後の歴史を考えると、中国共産党の本心からのスローガンであったとは思えない。「新民主主義論」もまた、「抗日」とともに党の政治的利益を得るための虚言だったのである。

北村稔氏(きたむら・みのる) 昭和23(1948)年、京都府生まれ。京都大学文学部卒業、京都大学大学院博士課程中途退学。三重大学助教授を経て現職。中国近現代史専攻。法学博士。著書に『第一次国共合作の研究』(岩波書店)、『「南京事件」の探究』(文藝春秋)、『中国は社会主義で幸せになったのか』(PHP研究所)など。