堂々とそびえる天守閣に瓦、漆喰(しっくい)、石垣…。こうした「城」のイメージは、織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市)から全国に普及したとされる。それ以前の城は、戦闘目的に特化した土造りが一般的と考えられていた。しかし、最新の発掘調査では、戦国時代の奈良市周辺で、信長以前にも瓦を使用するなど、「戦国三大梟雄(きょうゆう)」の一人に数えられる武将・松永久秀によって独自の発展を遂げていた可能性が浮上。専門家から「安土城以前に畿内では『戦う城』から『見せる城』への転換があったのではないか」と脚光を浴びている。

屈指の山城


 奈良市との府県境に近い京都府木津川市の鹿背山(かせやま)城。市教委が平成20年度から現地調査を進めている。ここで安土城よりも古い時代の城の瓦が出土した。

 鹿背山城はそもそも、興福寺(奈良市)の勢力下にあり、街道や木津川の水運を押さえる交通の要衝だったとされる。武将・松永久秀が入手し、改修を加えて城の防御力を強化したとみられる。

 安土城以降、普及する天守閣や石垣を備えてはおらず、基本的には土造りの城だが、滋賀県立大の中井均教授は「土造りの城の最終段階ともいえる防御施設で、久秀が大和を守る最前線の城として強化した」と注目する。

 この城跡からは、畿内以外の同時期の城にはない瓦も出土しており、中井教授は「畿内では他の地域のような巨大勢力が成長せず、あまり防御施設は進歩しなかったが、見た目で周囲を威圧するという独自の発展を遂げたのではないか」とみている。

久秀の「見せる城」


 瓦ぶきの城は、信長、さらに豊臣秀吉の時代に一般的となる。しかし、それ以前に造られた「見せる城」として注目されるのが奈良市の多聞山(たもんやま)城だ。これは安土城よりも約20年前に、久秀が築城を始めている。

 久秀をめぐっては、「室町幕府の将軍・足利義輝を暗殺した」「東大寺を焼き打ちした」など多くの逸話が残る。さらに、その築城技術は現在も高く評価されている。

 奈良市中心部は当時、興福寺が絶大な権力を誇り、武士の本格的な築城は珍しかったが、久秀は興福寺などの寺院勢力を次々と屈服させ、東大寺や春日大社も見下ろす標高115メートルの小高い山の上に多聞山城を築いた。

 それまでの城造りは、居館を山麓に設け、城は周辺を見渡す険しい山の上に防御施設を巡らすのが普通だった。しかし、多聞山城は、その常識とは異なり、東側の若草山(標高332メートル)よりも低く、山頂から内部の防御施設をのぞかれる恐れもあった。

 それでも久秀は、寺を見下ろす場所を選んで築城した。麓に居館はなく、城の中に屋敷を構えて居住したとみられる。

三笠霊苑から見た多聞山城跡=奈良市

城の先進性


 多聞山城には、立地以外にも特徴がある。

 当時、城を訪れた宣教師や僧侶らが残した文献には「城壁と堡塁(ほうるい)の壁は白く輝いていた」「すべての家屋と堡塁は美しい瓦でおおわれていた」と書かれている。「四階建ての櫓」の記述もあり、後の「天守閣」に相当する建造物ではないかとも考えられている。

 多聞山城跡は現在、奈良市立若草中学校の敷地となっている。中学校は文化財保護法が制定される前の昭和23年に建てられたため、十分に発掘調査もされずに城の遺構は破壊されたが、瓦は出土していた。

 久秀が支城とした鹿背山城のほか、奈良市の南側にある同県天理市の龍王山城でも瓦が出土している。

 中井教授は「畿内では『戦う城』ではなく、ふんだんに金と技術をかけ、見た目のインパクトで周囲を威圧する『見せる城』へと進化を遂げたのでは」と推測。「戦争に使う防御施設としては『先進的』とは言いがたいが、それまでの城とは一線を画すという意味では“畿内先進型”ともいうべき独自の進化だ」と評価する。

信長にも影響?


 「将軍と三好氏は(久秀の)望むこと以外何もできない」と言われるほど勢力を伸ばした久秀だが、筒井氏ら地元の武士の巻き返しに遭い、窮地に立たされたこともある。

 その頃、畿内に乗り込んできたのが信長だった。

 久秀は信長と会い、大和一国を任されて援軍を授けられ、勢力を盛り返す。

 久秀は信長を裏切って再度許され、さらに裏切って死亡するという複雑な経緯をたどるが、一度目に裏切って許された際、多聞山城を信長に献上している。

 しかし、信長は天正4(1576)年から、久秀の多聞山城の破城(取り壊し)を始める。

 久秀に代わり大和を任された筒井順慶は、奈良市に隣接する現在の同県大和郡山市に拠点を置いたため、“先進的”な多聞山城はわずか16年間で姿を消すのだが、信長が多聞山城を訪れた記録が残されている。その後、信長が安土城の築城を始め、天守閣や漆喰の壁、瓦ぶきの屋根、石垣などを採用しているため、「多聞山城が近世城郭の先駆けか」「信長にも影響を与えたのでは」とする説も依然根強い。

 信長が畿内に入る前に築城した岐阜城(岐阜市)や小牧城(愛知県小牧市)でも瓦は使われているため、中井教授は「(信長が)畿内の城について知っていたとは思えない」とするが、「信長と畿内で、同時に『見せる城』の発想が生まれたのではないか」と推測する。

 さらに、久秀が多聞山城の築城で動員したとみられる、奈良の大寺院の瓦をふいていた職人集団は、信長も安土城築城の際に集めている。このため、中井教授は「畿内の城の“先進性”を支えた技術は、信長以降も受け継がれ、全国の統一基準として広まった」と関連を指摘する。

 古代史ばかりが注目を集める奈良。だが、「見せる城」が独自発展したかも知れない戦国時代にも“発掘”すべき魅力が秘められている。

(橋本昌宗)
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