信長の城の歴史的意義


 中世から近世にかけて日本全国でおよそ3万カ所にもおよぶ城が築かれた。中世には武士だけでなく、有力な寺社も、自治的な都市も、自立的な村も、それぞれ城を構え、自らの政治的主張を行い、生命と財産を自力で守った。さまざまな集団が多様な城を分立的に築いたのが中世社会であった。そうした時代に織田信長は現れた。

 信長は当時の城が大名と家臣との横並びの関係でできていたのを打破し、自らを頂点とした城へとつくりかえた。さらに武士だけが城を築くように転換し、城を城下の中心に据えて、都市プランの中に大名を頂点とした社会を表象させた。つまり信長が次々と築いていった城は、中世的世界を脱却し、近世的世界を生み出していく大きな原動力であった。だから信長は近世城郭の成立に大きな役割を果たしただけでなく、近世社会の成立そのものに深く関わったのである。

「仙台城」の大手門脇櫓
 一説に、天守や石垣、礎石建物・瓦の使用などをもって近世城郭の画期とする考え方がある。しかしこうした歴史観では、近世城郭でも石垣を用いなかった関東地方の城郭や、寒冷な気候に合わせて瓦を用いなかった東北地方の城郭を、不完全な近世城郭だったと評価することになってしまう。

 また江戸時代の城で天守を建てなかった仙台城や福岡城も、やはり近世城郭として不完全ということになる。さらに多くの近世城郭は落雷などで天守を失い、その後再建しなかった。これらの城も最初は完全な近世城郭であっても、途中から不完全な城郭になったといわなくてはならないのだろうか。つまり天守、石垣、礎石・瓦の使用を近世城郭の指標として城を捉えるのは歴史観として大きな問題があり、適切ではない。

近世城郭成立の指標

 それでは近世城郭成立の本質的な指標とすべきものは何か?それはずばり城のかたち、とりわけ階層的な城郭構造の成立といえる。一般的に城は、本丸、二の丸、三の丸のように階層的な構造だったと理解している方が多いだろう。最も守られていた本丸が中心にあり、次に守られたのが二の丸、その外側に三の丸といった城のかたちをイメージしていただくとわかりやすい。ところが信長が活躍しはじめたころ、多くの城は本丸を中心にした階層的な構造になっていなかった。

 戦国期のほとんどの城郭は、大名のいた場所と、家臣のいた場所は基本的に横並びの関係にあり、家臣のいた場所も本丸同様に独立したひとつの空間として完結した防御力を備えた。こうした中世的な城の構造は、大名と家臣たちとの権力が拮抗していて、大名が必ずしも絶対的な力をもっていなかったことに起因した。信長が若き日に城主になった愛知県名古屋市の那古野城、清須市の清須城も、そうした城であった。いずれも城といっても館を基本に堀をめぐらした館城で、主体となる那古野城や清須城のまわりには、家臣が暮らした大小の館城が群在していた。

 尾張統一に向けて奔走した若き日の信長は、ときに重臣に反目され、自らの親衛隊を頼りに戦わなければならなかった。しかし信長は1560年(永禄3)に桶狭間の戦いで今川義元を破り、推戴していた守護の斯波氏を追放して、名実ともに戦国大名としての地位を確立していった。そうした変化をふまえて1563年(永禄6)年から信長が築いたのが、愛知県小牧市の小牧山城であった。

小牧山城から岐阜城へ


 小牧山城は古くは美濃攻めの砦とされてきたが、筆者の研究で南山麓に大規模な城下の町を建設したことが明らかになった。その後の小牧市教育委員会による発掘で、小牧山城の中心部は石垣で固めた本格的な居城であったことも確実になった。山麓から山腹までは直線的な大手道が伸び、山腹から本丸まではつづら折れの屈曲道の大手道にしたのも、のちの安土城と共通した。

小牧山城の復元想像図(小牧市教委提供)
 信長は室町時代以来の伝統的な館城を廃して山城へ移行し、最も高い位置にあり、石垣を独占して使用し、自らが住んだ本丸とその周辺を特別な空間として、家臣と差をつけた。1567年(永禄10)に信長が城を移転した岐阜城を、1569年にたずねたイエスズ会の宣教師ルイス・フロイスは、信長は家族とともに山頂の山城に住み、信長の許可がなければ何人も山城へは登城できなかったと記した。信長だけが圧倒的な高さの山城に暮らし、柴田勝家や羽柴秀吉などの家臣たちは山麓の屋敷地に住まわせて、信長は家臣に対して超越者としてふるまおうとしていた。

安土城天主と近世城郭

安土城跡
 1576年(天正4)から築城を開始した安土城に、信長が城づくりを通じてめざしたものが凝縮されている。信長は高石垣と地形によって最も守られた城の頂点に、さらに人為的な高みとしての天主を築いた。信長は天主を住まいにしたことで、自分自身を象徴したシンボルとして天主を位置づけていった。天主すなわち可視化された信長を頂点に、一族や家臣たちは序列化されて屋敷を与えられ、天主を核とした階層性は、城下の町におよんだ。つまり安土城で信長が実現したのは、信長自身を頂点とした世界そのものであった。

 本能寺の変後、信長の天下統一を受け継いだ豊臣秀吉や徳川家康も、日本各地の大名も信長の城づくりを継承していった。信長の城づくりは「織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)」として、近世城郭の標準になったのである。「織豊系城郭」は1987年に筆者が提唱した概念で、戦国期城郭から近世城郭が形成されていく過程は、信長と秀吉の城と、それを規範とした城が各地に成立していく動きとして説明できることを明らかにしたものである。

 近世城郭が普遍的に備えた階層的な城郭構造そのものが、信長の城を継承した証であり、天守や石垣や瓦がなくとも、近世城郭が近世城郭たり得た根本であった。このように考えると、信長が築いたひとつひとつの城は廃城になっても、信長がめざしたものは、日本各地の近世城郭にはっきりと刻まれ、生きつづけたといえるだろう。

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