渡部昇一(上智大学名誉教授)
石平(評論家)

シナ事変前夜と同じ


 「尖閣問題」が起こったとき、当時の仙谷(由人)官房長官が中国に気をつかって、「かつて日本は中国に迷惑をかけたんだから」というようなことを言っていましたね。ああいう認識がいまも日本人のあいだにある。

渡部 あれでまず思ったのは、これは〈シナ事変〉のときと同じだということです。

 あのころも、シナは尖閣と似たような事件をしょっちゅう起こしていた。それで日本人はシナに対してカンカンに怒っていたんです。だから、「暴支膺懲」(暴虐な支那を懲らしめる)という言葉ができた。それは、私ら子供でも、みんなそう言っていました。いちばんひどかったのが、昭和12年(1937)の中国軍による通州の日本居留民大虐殺、いわゆる「通州事件」(注1)です。あれだけひどいことをされたら、やり返すのは当然ではないか、というのが一般的な考えでしたね。

 いまの中国は「暴支」どころか「暴走」していますね。シナ事変、つまり日中戦争について、私は中国でこういう教育を受けました。

 日露戦争当時からすでに、日本は中国をほろぼして大陸を我が物にする計画を立て、着々と対中侵略を進めてきた。その過程に満洲事変があって、盧溝橋事件(注2)があり、そうして全面的な侵略が始まったと。

 そう教えられて、私は「日本人はすごいな」と感心した。何しろ、百年の計を立てて、そのとおり実行していたというのですから。

 しかし、日本に来て歴史の本を読むと、全然話が違うのでとても驚きました。いったいどこに侵略計画があったのか。ズルズルと戦争に巻き込まれていっただけではないのか。

渡部 日本に侵略計画があったという話は、東京裁判のときに証拠として出された田中上奏文がもとになっているんです。田中義一首相のいわゆる「田中メモ」ですが、そこに日本は満洲を征服して、まずシナを、最後には世界を征服するというシナリオが書いてある。

 しかし、実のところ、それは誰が書いたのかわからない。しかも、その侵略を決めたという昭和2年の会議に、元老の山縣有朋も出席したことになっている。ところが、大正11年に亡くなっている山縣有朋が出席できるわけがない。信憑性がないから、証拠として認められなかったんです。最近の研究では、このメモは、コミンテルンがモスクワで捏造して、世界中に広めたのだと言われています。

 中国の教科書には、「田中上奏文」が必ず載っています。逆に言うと、田中上奏文の存在がなければ、日本が侵略戦争を行ったと断罪することはかなり難しい。

渡部 「田中上奏文」が偽物だということがわかったにもかかわらず、それが世界に広まってしまった。A級戦犯の最も大きな罪とされる「平和に対する罪」は、戦争を計画したということですが、その事実がそもそもないんですよ。

「対華二十一カ条」の中身


 そういう意味では、日中戦争にはコミンテルンが大きな影を落としていますね。もう一つ、中華民国大総統袁世凱に日本政府が提出した「対華二十一カ条要求」、あれこそ日本の野望と野心の現れであり、侵略の第一歩だと、中国では必ず言うんです。

渡部 あれは14条までは、これまでの条約を守ってくれという当然の要求です。最後の七カ条は、そのために日本の人材を積極的に登用して権利を認めてくれという希望でしたが、結局、最後にはその部分をすべて削除して条約を結んでいる。後半の7カ条は、希望なんか出すと誤解されると言って、日本の議会でも批判されていたんです。

 その7カ条に中国は反発したわけですが、結局、その部分は削除された。それはどの国家間でも行われている当然の外交交渉ですね。一方が希望を出して、相手が反発すれば一歩引く。

渡部 あのとき、アメリカが「民族自決権」を持ち出して、いかにも日本が悪いかのように騒ぎたてて中国を焚きつけた。それで問題が大きくなったところがある。民族自決権そのものは非常に立派な考えだけれど、自分たちが持っている植民地のフィリピンや、あるいはイギリスが世界中に持っている植民地については問わない。しかし、中国に対してはしきりに民族自決を煽りたてた。だから中国の青年たちのあいだで排外運動が起きた。最初は日本だけでなくて、イギリス、アメリカも排除しようとしたわけですが、日本だけが武力で抑えることをしなかった。だから、なめられて排日運動だけが大きくなった。

 それは日中関係の大きな教訓ですね。肝心なときにきちんと武力で対応しなかったから、中国はますますつけあがって「暴支」になった。

渡部 「二十一カ条要求」を出した時期が第一次世界大戦のさなかだったのもまずかった。英米がヨーロッパの戦争で忙しい隙を狙ったかのような、ずるい印象を与えてしまった。

 日本のそういう判断ミスが、アメリカに利用された結果、中国の五四運動(注3)がはじまり、反日的な風潮が高まった。

渡部 反日運動についてだけは、ソ連とアメリカは同調していたという印象を受けますね。談合したわけではないとしても、日本を大陸から追い出すことが両国の利益だった。

日本は満洲を中国に返した


 五四運動の後、しばらくしてコミンテルンが中国で共産党を作った。中国共産党は自分たちで作ったものではなくて、コミンテルンの中国支部に過ぎない。日中関係のすべての問題がそこから生じてきたと言ってもいいのではないでしょうか。

渡部 ロシア革命とコミンテルンがなければ、大陸はずっと穏やかなままだったと思います。中国人も誤解していると思うんですが、日露戦争前の満洲はロシア領になっていたんです。ロシアはまだ自分の領土であると主張してはいなかったけれど、清国の役人が満洲に入るときには、ロシア官僚の許可を得なければいけなかった。

 その満洲を、日本は日露戦争でロシアを追い出して当時の清国、つまり中国に返したんです。そしてロシアが作った鉄道と、南満洲鉄道の権利、それから日清戦争で日本が得た東半島の租借権だけをもらった。あのままほうっておいたら、いずれ「満洲スタン」(「スタン」は国や地方を表すペルシャ語起源の言葉)なんて地名になっていた。

 北シナも朝鮮もそうです。半島はいまごろ「コリアスタン」になっていますよ(笑)。

 朝鮮人も満洲人も何々スキーという名前をつけられていたでしょう。キムスキーとかね(笑)。

渡部 だからスターリンは昭和20年の8月に、これで「日露戦争の敵を討った」と言ったんです。もしもロシア革命がなければ、満洲と東半島は日本が租借し、鉄道は日本が管理して、あとは平和だったはずです。満洲事変も不要だった。

 日中戦争も起こらなかった。万一、満洲があのころソ連と共産党に侵略されていたら日露戦争以来のすべての国防上の安全保障の成果を日本は一気に失うところだった。

渡部 しかし、アメリカが愚かだったから、日本の敗戦でそれが失われたわけです。朝鮮戦争以後、アメリカの歴史家は口をそろえてこう言った。何がシナ大陸を失わしめたか、それは日本を潰したからだと。

 結果的に共産主義中国という化け物を生み出した。いま世界中でいちばんやっかいな国を生んだのは、あの頃の痛恨の歴史だった。

ミステリアスな事件


渡部 満洲国に清朝の王朝が続いていれば、大きな緩衝地帯が存在して、世界平和のためには非常によかった。ただ、清朝にクーデターが起こって愛新覚羅溥儀が日本公使館に逃げ込んでこなかったら、満洲国建国のアイデアは生まれなかったと思う。溥儀は満洲のヌルハチの直系ですから、その故国に正統の皇帝を立てたのは、誰からも文句を言われない良いアイデアだったと思う。

 満洲国は、ある意味では、日本本土よりも近代国家でした。私は大学時代に満洲を旅行したことがあるんですが、ほかの中国の都市よりずっと整備されていた。まず、橋が丈夫です。日本人が作ったから(笑)。当時の鉄道がいまでも走っていますしね。結局、近代中国の産業基盤はすべて満洲にあった。満鉄の遺産です。現代の中華人民共和国の自動車産業も、旧満洲からはじまっています。

張作霖
渡部 張作霖爆死事件にしても、当時は昭和天皇まで河本大作大佐が事件の首謀者だと思っていたらしいけれど、リットン調査団は「ミステリアスな事件である」と言っているだけで、日本軍が起こした事件だとは言っていないんです。イギリスの諜報部は、爆発物の分析をし、火薬がソ連のものであると突き止めている。日本は気づかなかったけれど、リットンは知っていたんだと思います。だから、あえて日本を責めなかった。石 リットン報告書を読めば、日本を一方的に断罪していないことはすぐわかる。それなのに、東京裁判以降、歴史的事実が塗り替えられて、どういうわけか、すべてが日本を断罪するものになってしまった。それを、なぜか日本人は否定しようとせず、それどころかむしろ積極的に認めている。

「引かれ者史観」


渡部 戦前・戦中に反日運動とか左翼運動をやって帝国大学を追われた人たち、お縄になって牢屋に引かれていってもおかしくなかった人たちが戦後、大学に復帰して東大や京大の総長・学部長におさまった。そういう彼らの歴史観を、エッセイストの山本夏彦さんは「引かれ者史観」と呼びました。戦後の歴史経済学者はみんなこの人たちの弟子にならざるを得なかったから、学界は「引かれ者史観」に染まってしまった。ジャーナリズムも同様です。昔ならくさい飯を食っている人たちが、刑務所のかわりに学界とマスコミに集まっている(笑)。みんな日本の敗戦によって利益を得た「敗戦利得者」なんです。

 コミンテルンは、戦前は日本周辺で工作を行って大日本帝国を潰しましたが、戦後はさらに日本国内に入り込んで、日本の心まで潰そうとした。

渡部 潰されなかった人たちは、史学や法学の本流にいなかった人たちですね。本来であれば、法学部の教授なら、「日本に主権がないときにできた憲法など憲法ではない」と言うべきです。国際法の学者であれば、「交戦権のないような憲法を持ってはいけない」と言うべきでしょう。しかし、東大や京大では言わない。むしろ、歴史や法律が専門ではない文学の先生とかがそういうことを言っているわけです。敗戦利得者ではないからまともなことを言える。敗戦利得者の弟子たちは、その口移しを言っているだけです。そして、弟子の秀才たちが各地の大学に散って「引かれ者史観」を学生に教え、あるいは高級官僚として、あるいは朝日新聞やNHKに入って反日的な言動をしている。

 不思議なのは、そういう誤った歴史観が70年たったいまも、大半の日本人の頭を占めているという現実です。占領軍は指導者たちの精神まで占領し続けているようです。

中曽根内閣で一変


渡部 「引かれ者史観」は「東京裁判史観」と言ってもいいのですが、それに反対して憲法改正を党是にしていたはずの自民党が、中曽根康弘内閣(1982~87)のときに明らかに変わってしまった。昭和60年(1985)の外務委員会で、「日本は東京裁判において中国に対して有罪になった。その罪をいまも背負っている」と答弁したんです。

 それはサンフランシスコ条約を無視していますね。

渡部 サンフランシスコ講和条約で、東京裁判については白紙になったんです。にもかかわらず、自民党も講和条約を無視した歴史観を持つに至った。田母神(俊雄)元航空幕僚長の事件でも、田母神さんをやめさせる理由がなかったので、「日本の侵略は歴史的事実である」と言った、村山元首相のいわゆる「村山談話」(1995)に背いたという理由をこじつけた。しかし、村山さんは社会党の党首じゃありませんか。社会党はサンフランシスコ講和条約に参加しなかった党ですよ。

 中国共産党も講和条約に一切参加しなかった。

渡部 社会党は当時、国会で第二党でしたから、当時の吉田茂首相はぜひ参加させたかったのに、請われても行かなかった。スターリンの意図に従ったのです。そういう左派の意見に、中曽根さんは外交に関しては乗ってしまった。それ以来、「南京事件はなかった」とか、「朝鮮に対しては良いこともした」と発言しただけで大臣の首が飛ぶようになった。

 第3次中曽根内閣の文部大臣だった藤尾正行さんは、歴史教科書問題で「日韓併合」は韓国にも責任があると言っただけで罷免された。「東京裁判史観」はサンフランシスコ条約後も続いているわけですね。

渡部 講和条約の11条に、東京裁判ですでに判決が下りている人は、刑期の継続を実行する、ただし、関係国が許せば免罪されるとあります。それに従って、国内でも「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が与野党一致で可決され、A級戦犯も免責されました。これで国内的にも国際的にも、戦犯はいなくなり、本人や遺族にも年金の支給が行われることになった。

 A級戦犯として有罪を宣告された重光葵は鳩山一郎内閣の副総理兼外務大臣になって、日本が国連に加盟したときには、国連に日本代表として出席して演説し、拍手喝采を受けて、帰国後に急死したときには国連で黙しているんです。

 要するに講和条約を締結した時点で、日本は歴史的な名誉を回復し、国際社会に復帰して独立をきちんと果たした。そのときに、もう戦後ではなくなった。

渡部 だから、日本の内閣は、中国にも韓国にもペコペコしなかった。それが中曽根内閣から一変したんです。そのときの外務省の知恵袋が小和田恆さんでした。小和田さんが、「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」と勝手に答弁してしまった。国賊と言ってもいいでしょう。小和田さんは非常な秀才ですから、敗戦利得者の東大の法学部教授の言うことを全部そのまま暗記していたらしい(笑)。

共産中国という“化け物”


 日中戦争のきっかけとされるのが盧溝橋事件ですが、これによって、中国と日本はやむなく全面戦争に至り、歴史は取り返しのつかない方向に進みました。盧溝橋事件がなければ中国共産党も蔣介石に全滅させられて、今日のような共産主義中国という化け物も生まれなかったでしょう。すべてあの瞬間、昭和12年(1937)7月7日の盧溝橋での発砲事件から、日本にとっても、中国の人民にとっても不幸の歴史が始まった。

渡部 盧溝橋事件も、いまでは国民政府軍に入り込んでいた共産兵が発砲して、意図的に武力衝突を引き起こしたという説がほぼ確立していると思います。もともと戦争をする気はなかったのだから、どうもおかしいなぁと日本軍も国民政府軍も思っていたでしょう。

 だから、本当に奇妙な戦争だったと思うんですよ。

渡部 盧溝橋事件は一応、現地協定を結んで収まったんです。ところが、そのおよそ3週間後に先述の「通州事件」が起こって、シナに対する日本国民の怒りが爆発した。それでもシナ政府が謝罪したために、まだ戦火は開かれなかった。だから、本当にシナ事変がはじまったのは8月13日の中国側の上海攻撃(第二次上海事変)からです。ただ、それも蔣介石が望んだことではなく、京滬警備(南京・上海防衛隊)司令官の張治中という共産党とみられる将軍が仕掛けたことだった。

執拗な挑発


 蔣介石は、〈中国人にとって本当の脅威は日本ではなくて中国共産党〉であることがよくわかっていた。だから日本と戦う気はなく、中国共産党殲滅に専念しようとしていました。にもかかわらず、日中は全面戦争に突入した。

 そのA級戦犯は、国民革命軍第二十九軍を率いていた宋哲元です。盧溝橋周辺に駐屯していた中国軍は、国民党軍ではなく、二十九軍なんです。宋哲元の二十九軍は事あるごとに日本軍とトラブルを引き起こしていた。だいたい二十九軍は共産党員だらけでした。だから、どう考えても盧溝橋事件は二十九軍の共産党員が引き起こしたとしか思えない。

 蔣介石も、二十九軍に対して日本にちょっかいを出すなとしきりに言っていた。にもかかわらず、日本が盧溝橋事件の現地解決、不拡大方針を決めると、二十九軍はその翌々日の7月13日に日本軍のトラックを爆破して大紅門事件(注4)を起こし、25日に廊坊事件(注5)、26日に広安門事件(注6)というように、次々に日本軍を攻撃した。“じっと我慢”の動かない日本軍をなんとしても全面戦争に追い込もうとした。そしてついに通州の中国保安隊(冀東防共自治政府軍)による日本人虐殺事件、いわゆる通州事件が起こる。

渡部 そういう挑発は、ソ連の指示によるものでしょう。日本軍がシナ大陸で戦争をしていれば、それだけソ連軍も楽になる。それを見破ったのが石原莞爾です。彼はナポレオン戦争の専門家なんですが、当時、彼が書いたパンフレットを読むと、「シナ事変が起こるとすれば、それはナポレオンにおけるスペインとの戦争と同じである。ナポレオンにとって本当の敵は陸ではロシアであり、海ではイギリスであったにもかかわらず、スペインなどにかまっていたから泥沼に引き込まれてしまった。同じように、日本の本当の敵はソ連なのだから、シナ事変などに巻き込まれてはいけない」と書いてある。

 冷静に見ていた石原さんのような人が、発言力を失ったのは日本の不幸ですね。

渡部 もし日本が計画的に戦争をするつもりでいたら、まっすぐ南京に向かったでしょう。それで一挙に南京を占領して終わりですよ。

 日本が計画的に侵略したというようなことはまったくなくて、二十九軍のような中国側の執拗な挑発にのってしまった。

渡部 通州事件のときは、日本人は非常に憤慨したけれど、中国側が謝ったことで戦争にまで至らなかった。

 本来であれば、謝ってすむ問題ではありませんね。なんと言っても民間人を含めた230人が虐殺されたんですから。

渡部 日本はすぐ水に流すんです(笑)。

宋美齢の反日宣伝


 通州事件でも日本が動かなかったから、いよいよ日本が応戦せざるを得ない状況を作り出すために、8月13日の上海事変を起こしたのでしょう。

渡部 中国は民間人のいるホテルまで無差別爆撃を行ったから、日本は居留民を保護するために陸軍を派兵せざるを得なかった。司令官だった張治中が満洲の反日スパイを動かしていたことは、奉天(瀋陽)の日本軍憲兵にも知られていました。その張治中が、日本の陸戦隊約4000人が日本人居留民を守っているところに約5万の大軍で攻撃してきた。そこで翌8月14日、日本政府は急遽第三師団と第十一師団を上海に派遣したのです。

 これが本当の日中戦争のはじまりであると、元米駐日大使のライシャワー教授も言っています。

 つまり、戦争を始めたのは中国だというのが歴史的真実だということになる。

渡部 そのとおりです。結局、日本が「断固として不拡大方針を貫く」などと言っていたからなめられたんですよ。

 第一次上海事変(昭和7年=1932)のときも、中国軍は共同租界に対して攻撃を仕掛けたので、イギリスもアメリカも反撃している。日本だけは抵抗するなという命令を出されたので反撃せず、公使館まで襲われてしまった。これで中国は「日本与しやすし」と考えたと思いますね。こういうときは、やはり断固たる態度をとらなければいけない。これも、今日の状況とよく似ています。

宋美齢
 日中の全面戦争が始まるまでの一連の経緯は、どう考えても中国側のコミンテルンの指令を受けた人間たちが一方的に日本を挑発して、あらゆる手を使って日本を全面戦争に引きずり込もうとしたということになる。

渡部 それを、いかにも日本のほうから侵略を仕掛けたと宣伝したのは、もちろんソ連と左翼の連中ですが、実はアメリカもそうなんです。

 日本と全面戦争になった以上、蔣介石は「日本がシナを蹂躙している」というイメージを作り出して、国際世論の同情を集めようとしたんです。そこで蔣介石は、非常に賢明にも、キリスト教に改宗しました(笑)。奥さんの宋美齢もクリスチャンで、アメリカの名門女子大の卒業生です。そして、アメリカのプロテスタントの牧師たちに金をばらまいた。アメリカからは、それぞれの教区の牧師たちが寄附を募って布教に来ていて、妻子もあるから生活費が必要なんですよ。それで蔣介石に世話になっているから、「日本が悪い、日本が悪い」と言うわけです。

 なるほど。本当は、蔣介石はキリスト教に興味はなかったのに。

渡部 そうすると、アメリカの宣教師たちは、日中戦争をキリスト教徒対異教徒の戦争のようにとらえる。宋美齢のステンドグラスまで入れた教会もあるそうです(笑)。

 聖母マリアのかわりに(笑)。

渡部 だから面白いことに、当時のアメリカの宣教師は口をそろえて日本軍の悪口を言っているけれど、それはプロテスタントばかり。カトリックの神父や尼さんには日本を批判した人が一人もいない。カトリックは単身赴任だし、蔣介石からお金をもらう必要がないから(笑)。

南京の「ナ」の字もなかった


 中国が捏造した最大の“傑作”は「南京事件」ですね。

攻略からまもない昭和13年初頭の南京露店街 大にぎわいを見せている
渡部 あの話がおかしいと私が思ったのは、まずこういうことでした。シナ事変初期には兵隊さんたちが1、2年でみんな帰国していたんです。うちの近所でも2人くらい帰ってきた。だから、全国では何万人と帰ってきている。にもかかわらず、南京大虐殺など噂にもならなかった。

 昭和17年(1942)に日本の機動部隊がミッドウェーで大敗したときには、それは極秘だったにもかかわらず、私は近所の遊び仲間から、「もう加賀も赤城もなくなったんだぞ」と聞かされました。加賀も赤城も、われわれが幼いころから名前をよく知っていた日本の主力航空母艦ですよ。大変なことになったと思いました。東北の小さな町にも、そういう極秘情報はちゃんと伝わってくるんですよ。だから、南京大虐殺が本当にあったとしたら、その当時、噂にならないわけがない。

 実は、私も日本に来るまで南京大虐殺など一度も聞いたことがなかった。中国の小学校、中学校の教科書にも南京大虐殺なんて載っていませんでした。

渡部 それは重要な証言ですね。

 もちろん、日本軍がどんなにひどいことをしたかということはさんざん教わってきました。それでも南京の「ナ」の字もなかった。

渡部 南京虐殺について、公式に日本政府に抗議してきた政府はない。

 蔣介石自身も抗議していない。日本留学から中国に帰ったとき、南京出身の大学のクラスメイトに、「親父さんかお祖父さんから、大虐殺の噂を聞いたことがあるか」と聞いたら、やはり「ない」と言っていました。

 最初、南京で30万人殺されたという記述を読んだときに、素朴な疑問を感じたわけです。中国では、歴史的な大虐殺が何度もありました。どこそこで100万人の捕虜を殺したとか、そういう記述が歴史書によく出てきますが、そういうところを掘り返すと、たしかに人骨がいっぱい出てくるんです。面白いことに、2000年前の記述でもじゃなくて、必ず出てくる。しかし、南京から何十万体の骨が出てきたなんて話、一つも聞いたことがない。

渡部 当時、戦争が起こりそうになると、お金のある南京の市民は大部分が逃げたんです。逃げるところのない人たちや外国人が南京に残っていた。そのときの20万人という人口はかなり正確な数なんです。ところが、それから1カ月後に、市民を食わせなければならないので日本が食糧を調達したときには25万人になっていた。

 増えているんですね(笑)。そもそも30万人なんか殺せない。仮に30万の死体があったとして、その数字を誰が集計したのか。物理的に不可能です。

 しかし、日本の知識人が南京虐殺をことさらに言いふらしたり、日本を攻撃することによって社会的地位を得たりというのが私には信じられない。本来なら逆でしょう。

河本大作説の疑問


渡部 その「逆」のこと、つまり本来の姿に戻す動きが、少しずつ起こりはじめているとは思います。しかし、先ほど言ったように「敗戦利得者」たちの反日的な言動はいまだに尾を引いている。日教組も子供たちに「すべて日本が悪い」と教えてきたわけですから。とくに、そうして地位を築いた人は新たな歴史的事実が出てきても、面子があるからいまさら持論を引っ込めるわけにはいかない。

 秦郁彦さんは『南京事件』という著書のなかで、4万人虐殺説をとっている。30万人説を否定して4万人説をとったから良心的であるように言われていますが、私はこれを批判したことがあるんです。まず市民と戦闘員の死者を区別していないという問題が一つ。それから、曽根一夫という男の証言を重視していること。この曽根という人は2冊くらい南京大虐殺の本を書いている。ところが、この男は南京には行っていないんです。私は仙台で偶然、曽根氏の親類に会ったことがあるんですが、その親類は「あのつきには困ったものだ」と言っていました(笑)。つまり、まったくあてにならない男なんです。

 4万人という根拠は何ですか。

渡部 それなりにいろいろ計算したらしい。「捕虜を処分せよ」という命令を、「すべて殺せ」と解釈しているんですね。当時の命令では、それは「解き放て」という意味です。食糧も不足しているから、捕虜に食わせる余裕がなかった。それをすべて殺したと計算したんですね。それから戦闘捷報か何かを調べて4万人という数字を出しています。しかし、私は市民に関して言えば限りなくゼロに近いと思う。

 秦先生がいい研究もなさっていることは認めるけれど、やはり面子にこだわっているのではないかと思いますね。張作霖爆死事件も日本軍のしわざだと言われてきたけれど、田母神俊雄さんが「そうでないという説もある」と書いたら、秦さんはものすごく怒って、朝日新聞か何かで「そんなことを言うのは上杉謙信が女であるというようなものだ」と批判した。

 ところが、張作霖爆死事件を日本軍が起こしたという説には根拠がないんですよ。首謀者は河本大作大佐ということになっていて、戦後、河本大佐の手記なる告白記事が『文藝春秋』に出たことがありますが、これは彼の甥である左翼の人間が書いたデッチ上げでした。東京裁判で、パル判事は張作霖事件に関する証言はすべて伝聞証拠にすぎなかったと断定しています。そもそも当時、河本大作は生きて中国に捕らわれていたのだから、証言させればよかったのに、中国が抑えていた。なぜ呼ばなかったのかというと、彼を証人として出廷させるといろいろまずいからだったと思う。

 最近では研究が進んで、ソ連主犯説が濃厚になっています。そういう状況にあって、田母神さんはあくまで穏やかに、「日本軍の犯行ではないという説もある」と言っているのに、激昂して日本軍犯行説を周知のこととして反論するのは、「南京でも虐殺がなければならない」「張作霖も日本軍に爆殺されたのでなければならない」という「東京裁判史観」が崩されるからですよ。それはエゴでしかない。自分のエゴと業績を守るために相変わらず「日本は大虐殺した」と言い続けるのです。

有色人種の解放戦争


 日本にとっても意味のない戦争をした結果、国益を損なった。日本が中国の挑発に乗らず、もっと大局的な判断をして戦争の不拡大を貫く道はあったのでしょうか。

渡部 南京が陥ちたとき、トラウトマンというドイツの外交官が和平案を出したんですよ。そのときの日本の参謀次長──参謀総長は閑院宮という宮様ですから、実質上の参謀総長です──その多田駿中将は、ぜひとも停戦してくれと涙を流して近衛首相に頼んだ。しかし、近衛首相の周囲はコミンテルン系の左翼ばかりだった。それで「蔣介石政権を相手にせず」という声明を出して、スターリンの思惑どおり、大陸の泥沼にはまり込んでしまった。

 それから日本はものすごい消耗戦を続け、ついにはアメリカと戦争せざるを得なくなった。ルーズベルトは絶対日本と戦争する気でいましたからね。ヒトラーのためにイギリスが息の根を止められそうになっていたから、アメリカはイギリスを助けなければならなかった。ところが、アメリカ国民は第一次大戦に参入してろくなことがなかったから、ルーズベルトはヨーロッパの戦争には絶対参入しないという公約を掲げて当選したんです。にもかかわらず、チャーチルがしきりに助けを求めてくるし、蔣介石からも参戦を懇願してくる。

 だから、アメリカは日本が対米開戦せざるを得ない状況に追い込んだ。これは三国同盟の弱さをつかれたということもあります。三国同盟はもともと日独防共協定でしたから、ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだときに、これは三国同盟の意図に反すると言って、同盟を破棄していればよかったかもしれない。しかし、それは死んだ子の年を数えるようなもので、長い目で見れば結局、有色人種の解放戦争はしなければならなかったかもしれません。

 それが大東亜戦争の歴史的功績ですね。国際的に人種観が変わった。

渡部 いまの人には戦前の白人の人種差別のひどさがわからない。日本人のような全然犯罪者を出さない、優秀な移民団でも、1人も入れないというところまで差別された。

 そもそも、白人に勝てる有色人種もいるということが日露戦争で日本が勝利するまで、白人も有色人種も思ってもみなかったんです。当時、日露戦争は世界の注目の的だったから、誰もが驚いた。

 大東亜戦争のときも、実際、機動部隊を持っている国というのはアメリカと日本しかなかった。イギリスにもドイツ、フランス、ソ連にもない。アメリカと対抗して戦争ができるのはヒトラーのドイツでもなければチャーチルのイギリスでもない。日本だけだった。インドのネルーや、ベトナムのホー・チ・ミンなど、世界中の独立運動の指導者は、みんなそこからインスピレーションを得た。有色人種のイメージを180度変えたのは日本だったんです。

 そういう意味では、大東亜戦争というのは有色人種と白人の全面戦争でもあったわけですね。

渡部 日露戦争に続いて2度目ですね。それで日本はアメリカから憎まれた。アメリカは人種差別を前提としてできている国です。もしはじめから人種差別はないという彼らの独立宣言が本当なら、インディアンの土地を奪ったり、アフリカから黒人を連れてきて奴隷にしたりできませんよ。だから、白人と同じステータスの有色人種が現れたということはアメリカにとって非常に不愉快なことだった。日本と戦争をしたころのアメリカの海軍には有色人種もいましたが、軍艦の厨房(台所)以外には配属されなかった。なぜなら、大砲を撃たせたり飛行機に乗せたりすると、有色人種が出世して上官になる可能性があるから。それは白人には耐えられない。戦前のシンガポールでも、マレー人は奴隷に近く、その上に中国人がいて、中国人はマスターであるイギリスに仕える。そういう差別構造を日本が完全にぶち壊した。

 だから、日露戦争はコロンブスのアメリカ大陸発見以来、数百年に一度起こるかどうかの大事件であったとみないと世界史はわからない。20世紀初頭は、人種差別は当然という世界でした。そして21世紀のはじめには、国という名に値しないような国でも国連で一丁前の口をきくようになっています(笑)。この百年の差はどこに起因するかといえば、日露戦争と大東亜戦争しかない。

 日本はあらゆる国際の場で堂々と「人種差別を破ったのはわれわれです」と言うべきですね。

渡部 そうです。第一次大戦のあと、日本が国際連盟で人種差別撤廃を提案したとき、それをぶち壊したのはアメリカだった。そういうことはプライドと地位をかけて言わなければいけない。ところが、政治家が勉強していない。勇気・胆力がない。

 捕鯨問題で世界を相手に日本の立場を主張した元農水省の小松正之さんの話を聞いたことがあるんですが、「自分が頑張れたのは十数年間、クジラについて勉強したからだ。ちょっと話を聞いてわかったような気がしたというくらいでは必ず言い負かされる」とおっしゃっていた。やはり10年以上研究しないと信念にならないというんですよ。政治家も、それくらい勉強してほしいと思いますね。

(注1)通州事件 昭和12年(1937)7月29日、北京の東方にあった通州で、シナ人の保安隊(冀東防共自治政府軍)が起こした大規模な日本人虐殺事件。通州の日本軍守備隊と、日本人居留民(多数の婦女子と朝鮮人を含む)約106名が、人間とは思えぬような方法で中国兵によって惨殺され、シナに対する国民の怒りは頂点に達した。当時の日本人の反シナ感情は、この事件を抜きにして理解することはできない。東京裁判において弁護団は、通州事件について外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウェッブ裁判長によって却下された。この事件に触れると、シナ事変は日本ばかりが悪いと言えなくなってしまうという判断があったのは言うまでもない。

(注2)盧溝橋事件 昭和12年(1937)7月7日の夜10時、蘆溝橋に駐屯していた日本軍の一個中隊に向けて、何者かが発砲したことから始まった。周囲に中国軍(国民政府軍)が駐屯していたから、彼らが発砲したのではと思われたので、日本軍は軍使を派遣することにした。翌八日の早朝4時、ふたたび日本軍に向けた発砲事件が起こり、状況が曖昧なまま、日中は戦闘状態に入った。事件から4日目の7月11日に、事態収拾のため現地協定が成立した。

(注3)五四運動 大正8年(1919)、第一次大戦後のヴェルサイユ条約で、山東省におけるドイツの権益を日本に移譲することが容認されたのを発端に起こった中国の反帝国主義・反日運動。5月4日に発生したため、この名がある。

(注4)大紅門事件 昭和12年(1937)7月13日、北京の大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され、日本兵4名が死亡した事件。

(注5)廊坊事件 同年7月25日に北京の郎坊駅で国民革命軍が日本軍を襲撃した事件。

(注6)広安門事件 同年7月26日、中国の了解のもとに北京・広安門の居留民保護に赴いた日本軍が中国軍から銃撃された事件。

わたなべ・しょういち 上智大学名誉教授。英語学者。文明批評家。1930年、山形県鶴岡市生まれ。上智大学大学院修士課程修了後、独ミュンスター大学、英オクスフォード大学に留学。Dr. phil.,Dr.phil.h.c.(英語学)。第24回エッセイストクラブ賞、第1回正論大賞受賞。著書に『英文法史』などの専門書のほか、『知的生活の方法』『知的生活の方法・音楽篇』(渡部玄一・共著)などの話題作やベストセラー多数。小社より、『渡部昇一の日本の歴史』(全7巻)、『渡部昇一ベストセレクション』シリーズ刊行。

せき・へい 評論家。1962年、中国四川省成都生まれ。北京大学哲学部卒業。四川大学哲学部講師を経て、88年に来日。95年、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関に勤務ののち、評論活動へ。07年、日本に帰化する。著書に『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)、『中国はもう終わっている』(徳間書店)、『なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか』(ビジネス社)、『私はなぜ「中国」を捨てたのか』『もう、この国は捨て置け!』(ワック)など多数。