高島俊男(中国文学者)
聞き手 『歴史通』編集部

創業皇帝・毛沢東


 ──ご高著『中国の大盗賊・完全版』の元版、1989年に出た『中国の大盗賊』では、最後の毛沢東の章がすべてカットされていましたね。そこまでの歴代の盗賊の話だけでもすごくおもしろいので十分楽しめましたが、文字どおりの盗賊史になってしまい、毛沢東に至るまで盗賊なんだという著者の含意がとんでしまいました。

シナを代表する大盗賊皇帝二人。14世紀に紅巾軍を率いた朱元璋(明の太祖)と20世紀に共産党軍を率いた毛沢東
高島 もともとは最後の盗賊王朝としての中華人民共和国と、その創業皇帝である毛沢東について書くはずだったんですけれどね。それまでの歴史上の盗賊皇帝の記述は、その前置きのつもりだったけれど、当時はまだ、中国のことを「盗賊王朝」と言うのはさしさわりがあったらしくて、版元からの要望で、毛沢東の部分はつけたしのようになってしまった。

 社会主義国というのはそれ自体が善だという風潮がありましたからね。

 戦後30年間くらいまでは、朝鮮半島でも北はうまくいっていて南の韓国はまちがっているというのが普通の見かただった。それが21世紀に入ったあたりから、中国についてはっきり書いてもいいような雰囲気になって、ようやく毛沢東の章が陽の目をみることになりました。

 ──中国には大昔から20世紀にいたるまでつねに「盗賊」がいた。盗賊というと、日本ではただのどろぼう集団のように聞こえますが、スケールが違いますね。高島さんの定義では、「官以外の、武装した、実力で要求を通そうとする集団」で、数万から数十万人という大集団まである。農村の貧窮によって腹をへらした人間が集まって村を襲い、食糧や金品を奪うというのがおおかたの始まりですが、最初から世直しとかユートピアの実現を目的にして徒党を組む場合もある。ただ、その目的が正義か不正義かは関係なく、秩序を乱すものとして、そういう武装集団を「官」の立場から「盗賊」と呼ぶ。

 『中国の大盗賊・完全版』でその代表として主に描かれているのは、漢の高祖劉邦、明の太祖朱元璋、明王朝を倒した李自成、清末期の「太平天国」の洪秀全、それにきわめつき最後の盗賊皇帝として毛沢東。

『中国の大盗賊・完全版』講談社新書より

 中華人民共和国は、中国の歴史上、漢、明につづく強力な盗賊王朝である。

 もちろん、中華人民共和国を建てた中国共産党は、最初から政権奪取を目的とした集団であり、したがってその政権奪取前の活動も過去の盗賊とはことなる点が多々あり、また現に王朝とは称していないけれども、しかし共産党の革命は、これを中国歴史のなかにおいて見るならば、朱元璋や李自成と同じように、一つの盗賊集団が漸次壮大になってついに政権を奪取する過程と見たほうが理解しやすい。そのほうが、プロレタリア階級の革命と見るよりもずっと話が合うのである。

 たとえば、中国共産党の軍隊は、毛沢東の戦略方針にもとづいて、省境地帯の山の中や農村地区に根城を作り、官軍に追っかけられると各地を流動しながら作戦し、十分に勢力をたくわえた上で最後に都市を襲撃して奪取するという方式をとっている。これは歴史上の盗賊がとったやりかたなのである。プロレタリアートの革命ならば、プロレタリアートというのは都市に大量に発生するものだから、まず都市──すなわち国家の心臓部──で蜂起せねばならぬはずである。しかし、だいたい中国には、プロレタリアートの革命が起るような条件は全然なかったのだ。

 だから、1927年に毛沢東が作った中国共産党の軍隊は、中国歴史上の、盗賊の流れの上に位置づけられるべきものなのである。それは、マルクス主義を信仰し、不平知識人が指導し、貧しい農民の味方を標榜する、一大盗賊集団であった。


マルクス主義=造反有理


高島 歴史上有名な大盗賊には、たいてい宗教的なよりどころがあります。代表的なのが元王朝を倒した朱元璋の「紅巾賊」。これは弥勒教・白教がごっちゃになったものです。それから、後漢末の「黄巾賊」の太平道(道教の一派)、19世紀の「太平天国」のキリスト教。

 共産党のマルクス主義も、宗教ではないけれど、集団の宗教的よりどころだった。これも弥勒教や白教と同じように大乱のあとの理想世界の出現を約束するもので、教義の批判や検討は許されなかった。実際、共産党は、マルクス主義を「信仰」せよと常に呼びかけていましたからね。

 ──中国盗賊国家論というのは卓抜な着眼ですね。

高島 はっきり言うと危ないからあまり言わないだけで、そういう見かたをする中国人は多いんです。王希哲という人は『毛沢東と文化大革命』(1980年)という論文のなかでわりあいはっきりと書いていますが、国内では発表できないから、香港の雑誌に掲載した。

 もっとも、王希哲もマルクス主義者だから、盗賊を「農民」と言い換え、盗賊が天下を取ることを「農民革命」と言っている。それが中国での決まった言いかたです。

 彼のいうところは本にも書きましたが、要するにこういうことです。

 過去の農民たち、朱元璋や李自成、洪秀全らの目標は天下を取って帝王になることだったが、毛沢東もまさしくその通りだった。だが、帝王となった毛沢東は何の功績も残さなかった。彼が中国人民に残したのは経済の崩壊と公安テロのみであった。彼が起こしたのはマルクス主義の革命ではなく、朱元璋や李自成と同じ「農民革命」にすぎない。

 ──毛沢東はそもそもマルクス主義を信じていたんでしょうか。

高島 信じる、信じないということも頭になかったでしょう。彼自身はせいぜい中国人の書いた「マルクス主義早わかり」みたいな小冊子を読んだことがあるくらいだろうけれど、まわりにブレインがいる。毛沢東が書いたということになっているマルクス主義の学術論文めいたものは、だいたい西洋的教養を学んだ「洋秀才」の陳伯達あたりが書いたものです。日本の総理大臣の施政方針演説と同じで、毛沢東がそれを読みあげたから毛沢東の著作ということになっている。

 毛沢東に言わせれば、マルクス主義とは『造反有理』の一語につきる。「造反有理」とは、要するに生徒が先生をぶん殴ったり、工員が工場長を袋叩きにしたり、つまりは「上の者をやっつけるのはいいことだ」という意味ですが、そう簡単にまとめられてはマルクスも立つ瀬がない。それだけのことなら何もマルクスを持ち出さなくても、昔から中国の盗賊がやってきたことです。

 ──60年代後半の文化大革命当時、日本でもあちこちの大学に「造反有理」の大きな文字が躍っていました。それを学園闘争のスローガンにして、学生たちが角材や鉄パイプや火炎ビンで大暴れして、教授たちの研究室をめちゃめちゃに破壊した。

高島 東大では「造反有理」と書いた大きな看板が正門に立てかけられていましたね。機動隊が導入されるまではそのまま置かれていたんじゃないかな。

お手本は『水滸伝』


 ──毛沢東は歴史上の盗賊たちのやり方に学んだということも書かれていましたね。

高島 革命の出発点として聖地になっている井岡山は、もともと袁文才、王佐という山賊の一味の縄張りだった。そこに湖南の「秋収暴動」(1927年)で国民党軍に負けた毛沢東が逃げ込んで、「いっしょに革命闘争をしよう」と言って強引に居すわり、井岡山を乗っ取って袁文才と王佐を殺してしまった。このやり口は、林冲たちが王倫の梁山泊を乗っ取った『水滸伝』とよく似ています。革命後の中国では「井岡山の道」こそ中国革命の正しい道であったと言いますが、たしかに毛沢東は盗賊から帝王への道を井岡山から歩みはじめた。

 毛沢東の「井岡山の道」は盗賊の道そのままです。毛沢東自身、「陳勝・呉広から太平天国まで、大小数百回の農民革命戦争」がやってきたことを自分もやるんだと言っている。それを中国では「マルクス主義の原理を中国の条件に創造的に適用した」というのだけれど、毛沢東は過去の盗賊たちのやり方を教訓にしただけで、マルクス主義とは何の関係もない。いま話に出た王希哲も、「毛沢東という中国書生があれら教条主義者どもよりかしこかったのは、ペテルブルグ蜂起(注 ロシア革命の意)の道よりも梁山泊聚義の道のほうをよくおぼえていたところにある」と言っています。

 ただ、毛沢東は西洋的教養とは無縁ではあったけれど、典型的な中国文化人で、伝統的な教養はありました。彼のように「詞」をつくれる中国人というのは20世紀になるとそう何人もいなかった。「詞」というのも広い意味では「詩」の一種ですが、「詞」も「詩」も日本語だと発音が同じ「し」になってしまうから、日本では「詞」に関しては中国語で「ツー」という。「詞」は「詩」よりもさらに規則が厳格で、一行が何字・何行、というようにスタイルが詞題ごとに決まっていて、それぞれのところにどういう音が入るかということまで厳格に決まっている。だから、「詞」をつくるのはすごくむずかしい。向こうの音を知らないと、日本人には「詩」のまねごとはできても、「詞」はとうていつくれない。

 詞題というのはその詞の音調を指し示すもので、何百とある決まった詞題ごとに一つ一つ行数・字数が違うし、ぜんぶ音調が違う。ぼくが本のなかに引いている毛沢東の「沁園春」というのも、内容を意味するタイトルではなくて、詞題の一つです。

 毛沢東は「詩」ももちろん作っているが、「詞」のほうが多い。そしてその「詞」はたいへんいい。単に上手だというだけではなく、雄渾で英雄の気概があふれている。しかも単に豪放だというのではなくて、ことばの運用のセンスがいいのである。

 一つ、拙訳でご紹介しましょう。数ある作品のなかでも最も著名なもので、題は『沁園春・雪』。1936年、延安の作である。

 

北国の風光、

千里、氷はとざし、

万里、雪は舞う。

長城の内外を望めばただ茫々。

大河の上下は、

突如その流れを止めた。

山に銀の蛇舞い野に蝋の象駆け、

もし天の高さにまで登れば、

陽光に盛装と地味ななりと、

さぞやなまめくことであろう。

山河はかくのごとく魅力あふれ、

無数の英雄がこぞってひざまづいた。

惜しいかな秦始皇・漢武帝は詩文を解せず、

唐太宗・宋太祖も風雅に劣る。

一代のわがままもの、

ジンギスカンは、

弓を引いて大鷲を射落すことしか知らぬ。

みな過去の人となった! 文雅の人物は、

やはり今日を看よ。

 

 ……中国の自然は美しい。昔からあまたの英雄豪傑がこの中国をまるごと自分のものとしようとした。それに成功した人たち、秦の始皇帝、漢の武帝、唐の太宗、宋の太祖、あるいは元のジンギスカン、みな勇力にはすぐれていたが肝腎の文化的教養がなかった。文化的教養を身にそなえながら天下を我がものとした人物はいないのか。─それはほら、きみの目の前にいる男を見てほしい。

 ……

 文化的条件をそなえた人物たることの証拠がまさしくこの詩なのである。「詞」という詩は、一つ一つの詞題(この場合なら『沁園春』)によってことばの配置の規則・制約が異なるというやっかいな形式なのであるが、この作品はそれをクリアーして、殺伐、傲慢になりかねない内容を、優雅で華麗な古典的表現によって統御している。こんな芸当のできる開国皇帝は、古来一人もいなかったのである。


マルクス主義の「革命教典」


 ──過去の皇帝たちと違って、自分は力だけでなく文化的教養も身につけていると言っているわけですね。

 姚雪垠という作家は大長編小説『李自成』で、20世紀半ばの中国の形勢と明末の形勢を重ね合わせて、毛沢東を李自成になぞらえているそうですね。正統政権である明朝は国民党の中華民国、李自成軍が毛沢東の共産党、山海関の外にいた満洲人の清は日本の関東軍にあたる。たしかに状況はそっくり。山海関の外から夷狄が中原をねらっているという図式は中国では古代から繰り返されていることですが。

高島 共産党軍は国民党軍にとても勝てそうになかった。ところが、そこに「満洲帝国」を建てたさらに強い日本軍が攻めてきた。弱い者が強い者と1対1で戦えば、これは勝ち目がないが、そこにもう一つ強いやつが入ってきて三角関係になれば、いちばん弱いやつにも勝つチャンスは出てくる。毛沢東はマルクス主義には弱くても、中国の権謀術数の歴史にはくわしいから、無学な李自成のようなドジはふまない。共産党が天下を取れたのは、言ってみれば日本のおかげです。実際、毛沢東も、1970年代になって中国を訪問した日本の政治家に、「われわれが勝てたのは皇軍が応援に来てくれたおかげだ」と言っていますね。もちろん、毛沢東一流のジョークだけれど、これは当たっている。

 ──共産党が天下を取れたのは毛沢東の戦略のうまさによるもので、別にマルクス主義者のいう歴史的必然というようなものではない。実は中国人にとっては別にマルクス主義でなくとも、白教や太平道のような宗教でもよかったのではないでしょうか。

高島 やはり中国自体にマルクス主義を受け入れる下地があったと考えるべきでしょう。中国では古来、「五経」(易・書・詩・礼・春秋)に代表される儒家の経典があった。「経典」とはどんな時代でも人間の指針となる永遠の真理をしるした書のことです。ところが、20世紀になって儒教が権威を失ってしまい、それにかわって中国人の心をとらえたのがマルクス主義だった。「打倒孔家店」で儒教そのものを否定しても、真理をしるした書物というよりどころをもとめる中国人の習性は急にはなくならなかったんです。

 中華人民共和国の建国後、マルクス主義の書物は「革命経典」と呼ばれることになった。これも経典なのである。

 マルクス主義が他の西洋の学問とちがうのは、一つには全面的であること、すなわち、あらゆる学問、あらゆる方面にまたがっているか、もしくは応用が利くことである。もう一つは、絶対に正しいことである。この点で、他の学問は儒教のかわりにはなれなかった。……

 しからばかつての儒家の経典とこんにちの革命経典のあつかいは何から何まで同じなのかというと、そうではない。

 儒家の経典は解釈の自由を許した。だからこそ二千何百年も前の本がその後の時代の応用に耐えたのであって、学者は時にはずいぶん無理な、あるいは無茶な受けとりようをして、しかし自分ではそれが「聖人の本意」と信じて、結果的にはある程度柔軟な思想を展開したわけである。

 革命経典は一般人が任意に解釈することを許さない。解釈権を有するのは党のみである。その解釈は党の必要に応じて変り得る。しかし一般の学者が革命経典を自由に解釈する形で自己の考えを展開する餘地はない。

 中国の学者の論文を読んでいると、革命経典が論断の証拠として用いられていることがしばしばある。「それが証拠にマルクスがこう言っている」という形である。これは昔の人の「聖人もかく言へり」と同じであって、習性というものは強固なものだと感じ入る。

 共産党は中国人のこの習性を利用したのである。しかしまた、利用されてしまうような素地が中国人にあるのも事実なのである。中国人の行動や思考はいわばがんじがらめなのであるが、それら一切の束縛から、それどころか憲法をはじめとするすべての法律や規則からも完全に自由なのがたった一人の帝王である。

 そういう体制をわたしは「帝国」と呼ぶのである。


「共産党」とは名ばかり


 元版『中国の大盗賊』が出て以後こんにちまで16年ほどのあいだの、中国の変化は甚大であった。政治的には共産党の独裁(dictatorship 中国では「専政」と訳す。そのほうがまさる)を維持したまま、経済は資本制(あるいは自由市場制)に移行した。そしてそれが成功して、大繁栄している。……

 筋から言えば、社会主義制度が破産すれば、プロレタリア独裁(事実は共産党独裁)の国家はつぶれるはずである。現にソ連は崩壊した。東欧諸国も同様である。

 中国のみが例外で、執政党としての共産党と社会主義経済とが、血管でつながっていなかった。一方が死んだら必然的にもう一方も死ぬという関係になかった。社会主義の経済制度が死んでまるで正反対のものに変っても、その上の国家は平気で生きている。それどころか、共産党がリードして、経済を資本制に変えたのである。……

 してみると、中国の共産党は、「共産党」と名のってはいるが、その本質は、共産党ではなかったのである。では何であったかといえば、権力を奪取して自分たちの王朝をうちたてようとする集団だったのだ。そして伝統方式によってみごとにそれに成功し、国家を創建したのである。……


 ──重慶の党委員会書記だった薄煕来が、夫人の「英国人実業家の毒殺疑惑」や一族による収賄・不正蓄財容疑で失脚しましたが、あれも実は権力闘争で、薄煕来は「特権階級を許してはいけない、文化大革命の時代に帰って革命歌をうたおう」というような毛沢東讃美のキャンペーンを盛大にやったことが党中央に警戒されたらしい。

皇帝=総書記


高島 薄煕来関係の記事を読むと、共産党の地方のボスというのはすごい権力と富を持っているものだと驚きますね。昔の王朝でも、3年間地方官をやると生涯ぜいたくをして暮らせたというから、そういうところも変っていないんだな。収賄といっても重慶だけが特別だったとは思えないから、たしかに権力闘争でねらわれたのかもしれない。

 ──歴代王朝とまったく変りませんね。

高島 共産党国家が昔の王朝国家とちがうのは、皇帝、現代で言えば党の総書記が世襲でないことだけれど、過去の王朝だって事実上は集団指導なんだから、そのこと自体は大きなちがいではない。皇帝が全権を握っているというのは建前であって、宰相や大学士などと呼ばれる何人かの高官が中央指導部として複雑な官僚機構を指揮していた。中国では、皇帝・中央指導部と、中央・地方の官僚から成る統治機構を「国家」と称したんです。一般人民は科挙に受からない限り、「国家」とは無縁だった。現在の共産党で宰相・大学士の中央指導部にあたるのは党中央委員会政治局の常務委員会です。

 だから、それよりも過去の王朝との大きなちがいは、党と国家が二重になっていて、「党が国家を指導する」という形になっていることですよ。そのせいで官僚機構がよけい複雑になっている。たとえば、日本では外務省と呼んでいる外交部を、その上に立つ党中央委員会の対外連絡部が指揮している。地方各都市の市政府の上にも党の委員会があって、たとえば重慶なら、中国共産党重慶市委員会が重慶市政府を指揮する。

 ──薄煕来は重慶市委員会の書記でしたね。書記というのは党組織のトップで、その重慶市委書記の下にまた重慶市長がいる。

高島 もともと社会主義国というのはどこでも党が国家を指導するという形になっていたけれど、中国でいう「国家」は一般人民まで含めたソ連のような西洋風の国家ではない。

 その国家の上に、昔の国家そのものである党が指導機関として乗っかって、「党と国家」という形になっているから、ほんとうに複雑なんです。

ブチコワシ屋・毛沢東


 ──文化大革命のとき、薄煕来は紅衛兵として先頭に立って大暴れしています。そのなごりでいまだに毛沢東を崇拝しているのかもしれませんが、そもそも毛沢東はあれだけの大失政をして、大量虐殺のようなことをしている。中華人民共和国成立後に関しては、負の遺産のほうが多いのではないでしょうか。

高島 たしかに毛沢東はブチコワシをよくやった。自分が知識人のくせして、あるいはそれだからこそかもしれないが、毛沢東は知識人が嫌いでした。だから、1957年の「反右派闘争」、66年からの「プロレタリア文化大革命」のように、知識人を片はしからつるしあげて、粛清したり殺したりしてしまった。ものを考えるのは自分だけで十分だ、あとは自分の言うとおりにしていればいいという考えだったんでしょう。しかし、過去二千年、中国という国を支えてきたのは知識人だったし、知識人こそが中国の宝であり、力の根元だった。それをやたらに殺してしまったのは民族の背骨を打ちくだいたようなものです。

 1958年頃から60年頃の「大躍進・人民公社」というのはセットになっているんだけれど、とにかくムチャクチャに働かせて大増産して国の経済力を上げ、一方で田畑をすべて公有にして、収穫をすべて平等に分け与えるというものでした。農民は土地を取り上げられて、言ってみれば共産党の農奴になったわけだから、それは働く気がなくなる。あまり急がせすぎて、つくった鉄もダムもほとんど使いものにならなかった。もちろん徹底的な大失敗で、毛沢東も国家主席をやめなければならなくなった。それで文化大革命で劉少奇(当時の国家主席)を追い落し、復権しようと考えたのだろうけれど、それだけにしてはちょっと騒ぎが大きすぎた。意図がよくわからないところがある。

 ──中国外交部の档案館が、60年代半ばくらいまでの史料を少しずつ開示し始めていますね。

高島 「大躍進」の悲劇について中国・新華社の楊継縄という人が書いた『墓碑』という分厚い本が数年前に香港から出たんです。これは、よく調べて書いてある。中華人民共和国になってから出たあらゆる本のなかで最も優れたものです。

 この著者も、共産党プロレタリア独裁から毛沢東独裁になって、毛沢東は実質的には最大の権力をもつ中国最後の皇帝だった、毛沢東自身も自分を皇帝とみなしていたと書いている。

 ──著者本人が半分くらいにまとめなおした、その短縮版の日本語訳が、このあいだ『毛沢東 大躍進秘録』(文藝春秋)という題名で出版されています。

いまだに人を喰う国


高島 「大躍進」政策のせいで、何が起こったか、ものすごく具体的に書いてあるでしょう。著者は餓死者だけで3500万から4000万人と推定しています。そのほとんどが農民なんだけれど、飢えをしのぐために人を食うという話が出てくる。死体を掘り起こしたり、子供を殺したりして。食い物がなくなって人間を食うというのは悲惨ですね。魯迅の『狂人日記』にも人食いの話は出てくるけれど、20世紀の半ばになって、まだ人を食っていたっていうのは中国くらいでしょうか。ほかにもあるのかなあ。

 ──このあいだ、北朝鮮で同僚を殺して食べて、その残りを羊の肉と称して市場で売ったというニュースがありました。それから、死んだ胎児や乳児の肉を粉末にした中国製の「人肉カプセル」が滋養強壮剤として韓国に密輸されたという事件も、つい最近起こっています。人食いの話がやたらに出てくる『水滸伝』の時代と変らない。

楊継縄 著 伊藤正・田口佐紀子・多田麻美 訳
『毛沢東 大躍進秘録』(文藝春秋)
高島 「人民公社」の共産主義では、いっさい不平があってはいけないというので、各家庭のカマドをたたきこわして村ごとに食堂をつくって、みんなが同じものを食べるようにした。『墓碑』(『毛沢東 大躍進秘録』)には、その人民食堂の成立から、それがうまくいかなくなるまでがくわしく出ています。人が働かないようにしておいてすべての人間に腹いっぱい食わせようというんだから無理がある。

 『墓碑』によると、各家庭で食事をつくって洗濯をして子供を育てるのは労働力の大いなる無駄だと共産党は言っていた。最終的には家庭がなくなれば私有財産もなくなる、それが理想だというんだけれど、やはりどんな世の中になっても、飯は各家庭でつくって家族で食べるというのはこの地球上どこでも変ることはないでしょうね。ただ、昔から理想社会を夢見る人はああいう「人民食堂方式」というのを考えるわけだ。誰もが同じものを誰もがおなかいっぱい食べるというのは理想社会のいちばんの基本ですからね。

 ──社長からヒラ社員まで同じランチを食べるという日本式経営の社員食堂が、一時海外でも話題になったことがあります。

高島 ああ、そういう会社があるのか。それは家族主義なんだろうけど、一種の共産主義社会だな(笑)。でも、毛沢東のそういう理想社会に比べれば、トウ小平の中国というのはずっと人間的ですよね。

神格化した毛沢東・孔子


 中華人民共和国において、党と国家の路線(生存方法の根本)を市場経済の方向へと大転換する英断をくだした皇帝はトウ小平である。この転換は、初代毛沢東の素志・遺命に反する。だから言ってみれば、トウ小平は明帝国の第三代成祖永楽帝にあたる。創業皇帝の遺志にそむくことによって成功し、国家を生きながらえさせた。いまにつづきかつ繁栄する「トウ小平の中国」は、毛沢東の中国とは別の王朝である。永楽帝以後の明帝国が太祖洪武帝(朱元璋)の明帝国とは別の王朝であるように──。しかし、初代皇帝毛沢東の最大の願いが自分がうちたてた国家の安泰と存続とにあるならば(そうであるにちがいない)、三代皇帝トウ小平こそ創業皇帝の最大の忠臣である。


 ──民主化を求めた天安門事件を弾圧して共産党体制を維持したとはいえ、「改革開放」を打ち出したのはトウ小平ですから、中国でも毛沢東よりトウ小平の評価のほうが高くて当然という気がするのですが。毛沢東にかわって天安門にトウ小平の肖像画が掲げられてもおかしくない(笑)。

高島 たしかに現実からいえばトウ小平の功績のほうが大きい。トウ小平がいなかったらいまのように繁栄した中国にはなっていないわけだから。それでも毛沢東がいつまでも消えないのは孔子と同じように、もう神格化されているからだろうなぁ。いま中国は世界中に孔子学院という学校をつくっているけれど、これも中国語学校で、別に孔子や儒教を教えるわけじゃない。ただ、いまさら「共産党学院」でもないから、一度は否定したはずの孔子という名前をつけている。中国で世界的にネームバリューがあるのはなんといっても孔子と毛沢東だということなんでしょう。

 もっとも、トウ小平というたった1人の人間がいたかいなかったかで、国全体がガラッと変るというのが中国らしいね。日本だったら、たとえば田中角栄がいたかいなかったかでいまの日本の様子がまるっきり違うなんていうことはありえない。

 ──トウ小平の改革解放というのは、「人民公社」とは正反対に、金銭的な欲望を解放したということでしょう。

高島 そう、要するに、もうけられるものはいくらでももうけたらいいということ。だから独創的ということでは、毛沢東よりトウ小平のほうがずっと独創的ですね。共産党と資本主義を結びつけるなんて発想は、世界中誰もできなかったからね。ソ連にはそういう人間がいなかったからつぶれてしまった。共産党独裁がビクともしないで、世界でトップを争うくらい市場経済が発展するなんて考えられなかった。まあ、ヨーロッパ的論理では出てこない発想です。毛沢東の革命もそうだったけれど、ヨーロッパ的論理は中国では必要ないんですね。そういうことから言えばトウ小平だって、留学しているからフランス語はしゃべれたにしても、フランス的教養があったようには思えないし、それで問題ない。

 中国人というのは昔から商売と金もうけが好きで、商売というのは個々でバラバラにやらなければ元気が出ない。そういう中国人の特性を存分に発揮させてやろうと考えたのがトウ小平の偉いところですね。毛沢東はそういうものをぜんぶ抑えてしまったから、国全体に元気がなくなった。

 ──トウ小平の中国は毛沢東の中国とは別の王朝で、毛沢東が明の太祖洪武帝なら、トウ小平は第三代の永楽帝であるというのはまさに言い得て妙ですね。今後、習近平はどんな皇帝になり、中共王朝はどこへ向かうのか……。

高島 これからもしばらく繁栄は続くかもしれない。だけれど、そもそも中国という国の根元的な精気・活力をになっていた知識人の「元気」をすべて奪ってしまったことのほうが、実は経済政策の失敗よりも、毛沢東の罪は大きい。だから、これからは若い知識人に元気を与えるような社会にならないと、いくら経済的に繁栄しても、今後100年、中国が世界の人々に尊敬される国になることはありえないと思いますね。

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