東京九段の靖國神社・遊就館に、矢田一嘯の描いた「蒙古襲来図 油画」11点が所蔵されている(全14点のうち3点は関東大震災により亡失)。

 これは明治19年(1886)の「長崎事件」をはじめとする日清戦争前夜の清国の恫喝に対し、清の脅威を感じて「元寇を撃退した鎌倉武士に学ぶべし」と国防意識を訴え、元寇記念碑建設運動を展開した湯地丈雄に矢田が共鳴。腕をふるった渾身の作である。

 中国の恫喝外交に対峙する現代と、状況としては非常によく似ている。

 それぞれおよそ縦2メートル、横2・7メートルの大作で、軸装され、巻いて全国各地に持ち歩いたため画布の破れや絵の具の落が随所に見られ、劣化が激しかったが、2010年に開かれた特別展「神風 そのふきゆくかなたへ──蒙古襲来と国難に立ち向かった護国の戦士たち」を機に全面的に修復され、制作直後の鮮明さを取り戻した。この絵画を後世に長く伝えようとする関係者諸氏の強い意志の賜物と言えるだろう。

 ここには元と高麗の日本侵略の残虐さとともに、国難に敢然と立ち向かった鎌倉武士たちの姿がリアルに描かれている。

 日清戦争前の明治の日本人たちよりも、はるかに国防意識の薄れている現代の日本国民こそ、先人の残したこの絵画をじっくり味わうべきではないか。

第一図 日本を侵略せよ!

玉座にすわる元の皇帝・フビライに向かい、高麗の趙彜(ちょうい)が地図を広げて日本侵略を提案している。フビライは趙彜の進言を受け、「征東行省」という日本侵略のための役所を設けて日本服属を画策した。右にいるのは『東方見聞録』を著し、“黄金の国ジパング”を紹介したイタリアの商人、マルコ・ポーロ。彼は17年間、フビライの側近として仕えたが、第1回目の襲撃計画にはまだ参加していない。したがって、この絵は実際には2回目の来寇前の図である。(209×276センチ)

第二図 元の使者来る

震災で失われた第二図の写真版(以下同)。中央上は鎌倉幕府の執権・北条時宗。その下は太宰府に到着した蒙古の使者、高麗人の潘阜(ばんぷ)が筑前の守護・少弐資能(しょうにすけよし)に皇帝からの国書を渡している図。左上は対馬の島民2人を拉致し、日本の使者と偽ってフビライの宮殿へ連行する場面。左下・右上は蒙古の使者が福岡の今津に到着し、日本の地形を調査しているところ。右下は蒙古襲来を告げる早馬。

第三図 蒙古、対馬を襲う

これも失われた第三図。文永11年(1274)10月3日、蒙古軍・高麗軍合わせて総勢4万の大軍が対馬の西岸佐須浦を襲い、1週間にわたり残虐の限りを尽くし、島民を惨殺した。

第四図 対馬守護代・宗助国の戦死

対馬に上陸した蒙古・高麗連合軍を、守護代・宗助国(そうすけくに)はわずか八十騎を率いて迎え撃った。一時は撃退に成功するものの、援軍のないまま宗助国一族は全滅した。中央が宗助国。(209×274センチ)

第五図 壱岐守護代・平景隆の最期

対馬を攻め落とした蒙古・高麗連合軍は続いて壱岐の北岸に上陸した。壱岐の守護代・平景隆(たいらのかげたか)も100騎を率いてこれを迎え撃ったが、大軍に抗しきれず、居館・樋詰城(ひづめじょう)で自決した。中央の景隆の前で頭を下げているのは、太宰府に急報を命じられた家臣の宗三郎(そうさぶろう)。彼によって壱岐の惨状が初めて博多に知らされた。(209×275センチ)

第六図 蒙古、博多湾に出現

失われた第六図。ついに元の艦隊が筑前今津(現福岡市西区)に出現、一部が上陸し、水陸から博多に向けて進撃した。迎え撃つ日本の軍勢は5000人。総大将は鎮西奉行・少弐資能(しょうにすけよし)。

第七図 小弐景資の活躍

博多湾を襲った元軍の主力は箱崎附近に上陸し、千代の松原に布陣した。戦況は一進一退であったが、日没近くになって日本軍は水城方面に退却を始めた。この時、博多正面第一線の指揮官であった少弐資能の息子・景資(かげすけ)が追撃する敵将・劉復享(りゅうふくこう)を矢で射落とした。追撃をあきらめた蒙古軍は海上に退却。その夜のうちに風雨の中を撤退していった。(212×274センチ)

第八図 元の使者を処刑

文永の役の翌年、建治元年(1275)4月、元の使者、杜世忠(とせいちゅう)らが長門国室津(山口県豊浦町)に来航。幕府は鎌倉に護送し、翌月、鎌倉龍ノ口において使者を斬首の刑に処した。(208×276センチ)

第九図 宮中より伊勢神宮へ勅使発遣

蒙古襲来に対して朝廷では伊勢神宮をはじめ諸社寺に国難打開の祈祷を命じた。弘安4年(1281)には、再度の元軍襲来の報に接して勅使を伊勢神宮に遣わせた。本図は紫宸殿で階下にいる勅使・中御門経任(なかみかどつねとう)が宣命と御幣物を託される場面を描いたもの。(215×274センチ)

第十図 伊勢神宮へ勅使到着

勅使が伊勢神宮に到着。御正宮の前で、亀山上皇の宣命を奏上しているところ。上皇は「国難に身を以て代わらん」と記していた。(216×275センチ)

第十一図 弘安の役 博多湾の攻防

弘安4年6月6日、元軍が再び博多湾に来襲。待ち構えていた日本の水軍は小舟に分乗して夜襲を敢行した。元軍は海岸に築かれた防塁に上陸を阻まれ、壱岐へ退却した。空中に見えるのは元軍が放つ「てつはう」を描いたもののようだ。火薬・金属片が入った陶製の大砲の弾丸のような武器である。(217×275センチ)

第十二図 元の艦隊に挑む

元の船に小舟を漕ぎ寄せて斬り込む鎌倉武士に元軍が狼狽している。堅固な海岸防備と果敢な水軍の攻撃により、元軍は思うように攻撃できないまま海上に長期間の停泊を余儀なくされた。(209×271センチ)

第十三図 元軍、海に沈み壊滅

閏7月1日の夜に吹き荒れた暴風によって元艦隊は壊滅。海の藻屑と化した。14万の元軍のうち、帰国できたのは2割にも満たなかったという。(214×274センチ)

第十四図 今津浜の惨状

戦いは日本側の勝利に終わったが、対馬・壱岐、博多湾付近の住民の犠牲は計り知れない。この絵の後方には死を看取る者もなく、カラスについばまれている屍体が描かれている。国防・護国意識の大切さを訴える作品である。(217×275センチ)