渡部裕明(産経新聞論説委員)

 今から約730年前、日本は例のない外国からの侵攻に見舞われた。2度にわたる蒙古襲来(元寇)である。当時は朝廷と鎌倉幕府という二重の政権だったが、さまざまな形で協力し、結果として列島が占領される事態を免れることができた。それは「神風が吹いた」に代表される神話的な力ではなく、侵攻を防ぎ止める武力を備えていたからであった。未曽有の国難に、わが祖先たちがどう立ち向かったかを振り返ることは、現代の不安定な東アジア情勢の中で日本の針路を考えるヒントにもなるだろう。


 11月中旬、長崎県の対馬を訪ねた。あいにく朝鮮半島は見えなかったが、対馬の北端からは50㌔の距離しかない。『魏志(ぎし)』倭人伝の昔から、朝鮮半島と日本はこの島を経由して行き来していた。

 対馬には、「大陸との架け橋の島」というキャッチフレーズがある。さまざまな先進技術が伝わり、江戸時代の朝鮮通信使のような国際交流もあった。だが、大陸に近いがゆえの悲劇も数多く残されている。

 平安時代の寛仁(かんにん)3(1019)年4月、ロシア沿海州地方の女真(じょしん)族といわれる刀伊(とい)が、約隻の船団を組みこの島を襲ってきた。刀伊は島を蹂躙(じゅうりん)し、北部九州まで足を伸ばした(刀伊の入寇)。「望月の欠けたることもなしと思えば」とうたった藤原道長の全盛期にも、このような外患があったのである。

 それから約250年後、比較にならない大規模な船団が対馬を襲うこととなる。「文永の役」である。文永11(1274)年10月5日夕、対馬下島(しもじま)西岸の小茂田(こもだ)浜に900艘の艦隊が姿を現した。

 モンゴルから興った世界帝国の元と、その属国にされた高麗(こうらい)(朝鮮)の計約4万の軍勢であった。

「生の松原」に復元整備された元寇防塁(国史跡)越しに、博多湾を望む。約730年前、海は蒙古の船団で埋め尽くされた
=福岡市西区(荻窪佳撮影)

戦況極めて不利

 知らせを受けた対馬国府(現在の対馬市厳原(いづはら)町)の約騎の兵が守護代の宗(そうの)助国(すけくに)に率いられて駆けつけたが、瞬く間に蹴散らされた。

 蒙古軍は南下して14日、壱岐に侵攻した。壱岐には対馬より多い守備隊がいたが、敵ではなかった。拠点の城は陥落し、守護代も戦死する。この時の惨状について、蒙古襲来を予言した僧・日蓮は信徒から伝え聞いた情報として「対馬では男はみな撲殺され、女は手に綱を通され、船べりにつるされた」と手紙に書いている。

 蒙古軍の目標は、九州の玄関口の博多だった。10月20日未明に上陸し、鎮西奉行の少弐資能(すけよし)、経資(つねすけ)父子らが西国の御家人を率いて懸命に防いだが、戦況は極めて不利だった。

 その理由は、蒙古軍の戦法や武器が日本にないものだったからである。蒙古は騎馬を使った集団戦を展開し、毒矢を使った。「てつはう(鉄砲)」と呼ばれた炸裂(さくれつ)弾のけたたましい音響には、人も馬も驚かされた。博多の街は焼かれ、御家人たちは苦戦を余儀なくされた。

1週間続く戦闘

 翌21日、蒙古軍は神風に追われて逃げ帰ったというのが、これまでの通説だった。しかし、九州大学の服部英雄教授(日本中世史)の最近の研究によって、戦闘はその後も博多周辺で続き、27日ごろにようやく引き揚げたことが明らかにされている。

 「20日の深夜に暴風雨が襲ったというのは、『八幡(はちまん)愚童訓(ぐどうくん)』だけが書いている記述です。しかし、『愚童訓』は八幡神の霊験(れいげん)を宣伝する史料で、実録ではありません。そもそも旧暦の10月下旬は冬で、台風シーズンは過ぎている。『勘仲記(かんちゅうき)』という当時の貴族の日記に、27日前後に退却したことをうかがわせる表現があるのです」

 文永の役では、蒙古軍は長期戦を覚悟していなかった。日本に有効な打撃を与えればいい、むしろ早期の撤収は予定の行動だったというのが、服部教授の説である。しかし、約1週間にわたる御家人たちの奮闘は、日本攻略が簡単ではないという印象を蒙古軍に植え付けるに十分だった。

 モンゴルの皇帝フビライは1279年、南宋(なんそう)を滅ぼして悲願を達成した。その2年後、日本再征を宣言した。今度は文永の役の4倍近い約14万の軍勢を派遣することとした。

植民地化の構想

 フビライは、日本は金銀にあふれた島というマルコ・ポーロ流の「ジパング幻想」にとらわれていた。また、滅亡させた南宋の軍人の処遇に困り、日本へ移住させることを考えていたともいわれる。いずれにせよ、今度こそ日本を占領し、植民地とする構想だった。

 日本の指導層は、この最大の危機にどう対処したのだろうか。外交は本来、朝廷の権限だったが、武をもって国を支える幕府は「力による防衛」しかないと考え、朝廷の返事を握りつぶした。通交を求める元の国書は何度も届いたが、耳を傾けた形跡は全くない。

 「幕府は元からの使者を斬首しています。信じられない行動です。この時期、国を代表して外交にあたるという点では、朝廷も幕府に遠慮するという、いわば双方の無責任状態が生じていた。元の国書にあった『兵を用いるなどは誰が好むであろうか』という言葉を幕府が脅しと受け取り、戦争以外の選択肢はないと考えたのは仕方なかったともいえます」

 『北条時宗と蒙古襲来』(NHKブックス)などの著書がある村井章介・東京大学教授(日本中世史)はいう。

 幕府の最高指導者は、若き執権の北条時宗(1251~)だった。義父の安達泰盛と組んで、専制的な権力を握っていた。蒙古の再征は避けられないと判断し、文永合戦の〝敗因〟を分析した。蒙古軍騎馬隊の上陸を阻止するため、博多湾岸に総延長約㌔もの防塁(石築地(いしついじ))を築くことを命じたのである。高さ約2㍍の防塁は、いまも福岡市西区の「生(いき)の松原」などに残って復元されている。防塁は期待以上の効果を発揮することとなった。

 弘安4(1281)年5月3日、第1陣(東路(とうろ)軍)4万が朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出港した。6月中旬には、中国・寧波(ニンポー)から出る万の軍(江南(こうなん)軍)と合流する手はずだった。

 しかし、日本には運も味方した。江南軍の出発が司令官の急病で遅れ、合流までに東路軍は疲弊したのである。しかも、東路軍内部では蒙古軍と高麗軍の感情的な対立があった。狭い船内で伝染病が発生し、3千人が亡くなったという記録もある。

蒙古軍が初めて現れた小茂田浜。宗助国が奮戦したが、4万の大軍の前に敵ではなかった
=長崎県対馬市 (渡部裕明撮影)

博多攻撃の拠点

 先に博多湾に到着した東路軍は防塁のため上陸できず、湾の北にある志賀島(しかのしま)(福岡市東区)で戦いが繰り広げられた。蒙古軍は、御家人たちの必死の抵抗に苦戦した。7月中旬、ようやく江南軍が平戸島(長崎県平戸市)に姿を現した。東路軍と合わせ4400艘からなる軍勢は鷹島(たかしま)(同県松浦市)を占領した。鷹島は牧草や水に恵まれ、博多総攻撃の拠点とされた。

 しかし7月30日から激しい風雨が起こった。今度は間違いなく大型台風であった。翌日にかけて吹き荒れた突風は帆をなぎ倒し、船と船は衝突し沈没した。翌朝、浮かんでいた船はわずか200艘だったという。

 それぞれの役割果たした朝廷と幕府、民衆 万の蒙古軍をはね返す 

 2度の失敗にもかかわらず、フビライは日本征服の夢を諦めなかった。日本側もその脅威を忘れず、御家人たちによる異国警固(けいご)番役(ばんやく)は幕府滅亡後まで続いた。北条時宗はよほどの心労がたたったのだろう、弘安7(1284)年、歳の若さで亡くなった。

神や仏も戦った

 蒙古襲来の様子を描いた絵巻物として、『蒙古襲来絵詞(えことば)』(宮内庁三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)蔵)が残されている。肥後国(熊本県)の武士、竹崎季長(すえなが)が自らの活躍を絵師に描かせたものである。

生の松原の防塁前を、馬に乗って堂々と行進する竹崎季長 (蒙古襲来絵詞・部分、宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
 困窮した御家人だった竹崎は、蒙古襲来で手柄を立て家運を盛り返そうと奮戦した。「承久の変」(1221年)で没落した伊予(愛媛県)の御家人・河野通有(みちあり)も海軍を率いて功績を挙げ、旧領を回復している。

 朝廷も必死に役割を果たした。朝廷や寺社が支配する領地荘園(本所一円地)から人や兵糧を拠出し、幕府に協力した。さらには当時の亀山上皇らは「異国降伏」の祈禱(きとう)をささげ、神社や仏閣も一心に蒙古退散を祈った。武士だけではなく、神仏も戦ったのである。

 蒙古の脅威は、フビライの死(1294年)とともに遠ざかった。しかし、「ムクリ、コクリが来る」という言葉は以後も長く残った。ムクリは蒙古、コクリは高麗である。子供たちは、こう聞かされると震え上がった。それほど蒙古襲来の衝撃は大きかった。

残る首塚や胴塚

 対馬の小茂田浜の近くには、蒙古と戦い亡くなった宗助国の首塚や胴塚が残されている。鷹島には、「文永の役」で対馬が蹂躙されたことを120㌔の海を越えて大宰府に伝え、鷹島に渡って戦死した対馬小太郎、兵衛(ひょうえ)次郎の墓もあって、いまも地元の人たちによって守られている。

 これらゆかりの地を訪ねながら、熱いものがわきあがってくるのを禁じられなかった。遠い歴史ではあるが、蒙古の脅威に立ち上がった人々の必死さに胸をうたれたのである。

 指導者はその役割を果たし、武士は戦場で戦う。汗を流しながら防塁の石を積んだ人もいれば、祖国の防衛を祈りという形で神仏に託した人々もいる。蒙古襲来をはね返すことができたのは、そうしたすべての日本人の力だったとみることができるだろう。

 蒙古襲来のような差し迫った危機に見舞われたとき、日本人はどのような行動が取れるのだろう。対馬や壱岐、博多への旅の終わりに、しきりにそのことを思った。 


【用語解説】蒙古襲来をめぐる動きと歴史 
元と高麗 1206年、蒙古高原の諸部族を統一したチンギスハンによって広大な帝国が打ち立てられた。孫のフビライは中国北部の金王朝を滅ぼし、元を建国して大都(現在の北京)を都と定めた。モンゴルは1231年から朝鮮半島の高麗を攻め、約年間にわたる攻撃によって高麗王朝は衰微。三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる親衛軍による抵抗運動も続けられたが1273年、高麗は完全に元の支配下に入り日本遠征の一翼を担うこととなった。

元の「国書」 文永4(1267)年、高麗の使節・藩阜(はんぷ)によってもたらされたフビライの国書が東大寺の僧によって書写され、現在に伝わっている。 《日本は昔から中国に通交しているが、朕(ちん)(フビライ)に対しては一度も使節がない。これからは友好関係を結んで親睦をはかりたい。通交を拒むのは道理に反する。ましてや兵を用いるなどは誰が好むであろうか》。これが主な内容で、最後には「不宣(ふせん)」という言葉もあった。これには、相手を臣下としない、対等という意味があって、杉山正明・京都大教授(モンゴル史)のように、「国書そのものは通交を求める穏やかなものであった」とする見方もある。

陸自対馬警備隊 国境の島である対馬には、律令国家の時代は「防人(さきもり)」が置かれ、日本防衛の最前線だった。日本が唐・新羅連合軍と戦って大敗した「白村江の戦い」(663年)のあとには、下島に朝鮮式山城の金田城(かねたじょう)(国特別史跡)が築かれた。また日露戦争に際しては、金田城跡に砲台が設けられた。現代の防人といえるのが陸上自衛隊対馬警備隊(対馬駐屯地)で、谷村博志隊長以下、約400人が「祖国防衛に命をかけた先人の思いを忘れるな」をモットーに、日々の訓練に励んでいる。 



 わたなべ・ひろあき 産経新聞論説委員兼編集委員。愛媛県今治市生まれ。昭和49年入社。京都総局や奈良支局、大阪社会部、大阪文化部などで宗教・文化財の取材を長く担当した。東京本社論説副委員長を経て、昨年から現職。現場主義をモットーにしながら、読者にわかりやすく興味深い日本史像の提供を目指している。産経新聞水曜朝刊オピニオン面に「夫婦の日本史」を連載中。邪馬台国論争では、邪馬台国は大和盆地にあり、初期ヤマト政権につながっていったと考えている。共著に「運慶の挑戦」「親と子の日本史」など。



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