太田弘毅(歴史学者)

 昭和の時代、軍歌『元寇』の名を惜しみ、その詞やメロディーを愛唱する人々によって、記念碑として、筥崎宮の境内に建てられた。現在でも多種にわたり出版されている、軍歌集や、愛唱歌集にも、軍歌『元寇』は必ず収録されてはいる。玄海灘方面から押し寄せる異国の軍勢を撃退する神威を持ち、護国の神である、八幡神を祀る筥崎宮。そこに、軍歌『元寇』の歌曲碑が建てられた意義は大きい。

 軍歌『元寇』の五線譜と歌詞を刻んだ石碑が、福岡市東区箱崎町の筥崎宮境内に、建立されている。『元寇』と題名があり、上段に音符が五線の上に記され、下段には歌詞全文にわたって、陰刻されている。ここでは音符は、一音符下げたものが、用いられている。昭和56(1981)年3月29日に、日本唱歌保存愛唱会―現在は解散して存在せず―が、これを建てた。

鳥居を出て、筥崎宮の周囲を練り歩く御神輿行列=福岡市東区
 軍歌『元寇』は、明治25年に、作られたが、当時は日清戦争前夜であって、国威発揚をむねとする時代であった。作詞・作曲をした人物は、当時陸軍軍楽隊の楽手であった永井建子(ながい・けんし)であった。のちに、陸軍戸山学校軍楽隊長になった。いくつかの軍歌の中でも、血湧き肉踊る歌となっていった。

 明治時代、東アジアの強国として、その威を張っていたのが、清国であった。その大国主義を振りかざして、日本を恫喝する事件が明治19(1886)年に起こっている。8月13日、清国丁汝昌の率いる、北洋艦隊の鎮遠・定遠・済遠・威遠の四大艦が、長崎に来て水兵が上陸し、暴行を働く騒動がそれである。同月15日、清国水兵が、再び上陸、長崎市民に乱暴し、彼我に死傷者が出ている。世に言う長崎事件-長崎清国水兵暴行事件-である。当時の日本人は、目の当たりに見る、清国による恫喝外交と、往昔、鎌倉時代に起った元帝国の元寇役-蒙古襲来-とを、二重写しにして、護国の必要性を痛感した。

 碑の手前には、「元寇歌曲碑」という、説明文がある。その全文は、次の通り。


 元寇歌曲碑
元の国が、文永(一二七四)と弘安(一二八一)の二度に亘って来襲してから、七百年以上になります。
当時、私達の祖先は博多湾の海岸一帯に防塁を築き、神社仏閣に敵国降伏を祈願するなど、国をあげての防衛に神仏のご加護もあって日本征服の野望を挫折させたのであります。
この祖先の一致団結の防衛をたたえ、私たちが今日あることに感謝するため、陸軍軍楽隊員の永井建子が、九十年前作詞作曲した唱歌「元寇」を長く保存したいために、「日本唱歌保存愛唱会」が元寇ゆかりの筥崎宮の境内にこの碑を建立した次第であります。
 昭和五十六年(一九八一)三月二十九日建立


 元寇歌曲碑が建立された翌日の新聞は、次のように報じている。

 四百余州を挙(こぞ)る十万余騎の敵―唱歌『元寇』(永井建子作詞作曲、明治二十五年)の歌碑が福岡市東区の筥崎宮境内に建立され、二十九日、その除幕式が行われた。〔中略〕歌碑は畳一枚大。蒙古軍の船が多数沈んだと伝えられる長崎県・鷹島町黒島でとれた自然石を選び、五線譜と歌詞を刻んだ。式には約百五十人が出席。〔中略〕中村学園女子高コーラス部員らとともに歌碑の前で『元寇』を斉唱、静かな境内に歌声がこだました。
(『西日本新聞』昭和56年3月30日付朝刊、15面「超短波」欄より、福岡県立図書館の森氏よりご教示、西日本新聞社から提供される)

 「長崎県・鷹島町黒島でとれた自然石」を、歌碑の石としたとの事であるが、“元寇の島”として、有名になりつつ ある同町との因縁を、考えざるを得ない。鷹島の神崎湾では、現在も第二次蒙古襲来-弘安役-時に、壊滅した元艦船隊の探索が、進行中である(鷹島海底遺跡)。

 なお、「鷹島町黒島」とは、鷹島の西方海上約4kmに位置し、古くは「石島」と呼ばれていた小島(編注:現松浦市鷹島町黒島免)。「石島」の呼称の元となったのは、黒島石-垂々石ともいう-の産地であったからである。四百年の伝統がある。「鷹島町黒島でとれた自然石」と、新聞は報じているが、「自然石」とは、黒島石-垂々石-に、ほかならない。

 軍歌『元寇』の歌曲碑が、建立された筥崎宮は、もともと、護国をもって任ずる神社であった。延喜21(921)年、「末代に至り異国より我国をうかがう事あらば、我其敵を防ぎ去へし、故に敵国降伏の字を書て礎の面、吾床の下におくべし―」との八幡大神の託宣があったと言う。筥崎宮は、玄界灘・あるいは、東シナ海方面から、日本へと攻めよせる、異敵・異賊防衛のための、護国神社であった。楼門は、文禄3(1594)年に、小早川隆景が建設。その正面には、大きな「敵国降伏」の扁額が、掲げられている。これは社宝の色紙から、拡大したものだとのことである。

精神教育 對外軍歌

 元寇

   永井建子作歌、竝樂譜撰訂


第一 鎌倉男兒


四百餘州を挙る 十万餘騎の敵


國難こゝに見る 弘安四年夏の頃


何ぞ恐れん我に 鎌倉男兒あり


正義武断の名  一喝して世に示す


第二 多々良浜


多々良濱邊の戎夷  ソハ何蒙古勢


傲慢無禮者     俱に天を戴ず


イデヤ進みて忠義に 鍛へし我腕3


こゝぞ國の爲め   日本刀を試し見ん


第三 筑紫の海


心ろ筑紫の海に  波押分て行く


偉丈夫の身    寇を討ち歸らずば


死して護國の鬼と 誓し箱崎の


神ぞ知召す    日本魂潔よし

〔以下省略〕

湯地丈雄編『精神教育対外軍歌』(護国堂、明治26(1893)年)1頁より
・この歌詞が、軍歌集に掲載されたのは、これが最初の例か。

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