和田秀樹(精神科医・作家)

 放送法のもとに受信設備を持つ者への強制徴収権を認められている代わりに、公権力(政府)からも、社会的権力(企業)からも距離をとることで表現の自由を確保するために設立されたはずのNHKが、その本来の機能を十分に果たしているとは到底思えない。とくに、スポンサータブーのある民放にはあまり期待できない「真実」を伝えるのがNHKの責務だと考えるが、それを放棄して国民に害を与え、国力の脆弱化をもたらしている現状は看過できない。NHKの一ユーザーという立場と精神科医としての視点から以下にNHKに対する所論を述べてみたい。

「依存症社会」とNHK


 精神科医として、スポンサーに逆らえない民間マスコミの姿勢にもっとも苦々しく思っていることは、「依存症」の危険のあるものへの甘い対応である。日本人は概ね依存症の原因となるものに対する認識が甘い。依存症状態になった人は、「意志が弱い人」という形で自己責任のようにみなされる。

 覚醒剤のように依存性の強いものまで、再犯を重ねるタレントなどがいると、その意志の弱さばかりが問題視され、治療を受けるべきだという話になかなかならない。

 精神科医の立場から言えば、人間の脳は、われわれが思う以上に脆い。ちょっと依存性の強いものに出会うと――例外はあるが――、かなりの確率で依存症に陥ってしまう。それがないと精神的安定が保てない、最悪仕事ができず、社会生活が営めないという状態に陥りかねない。

 厚生労働省などの発表によれば、現在、日本ではアルコール依存症が約230万人、パチンコなどのギャンブル依存症が約560万人、インターネット依存が約270万人とされ、ニコチン依存症にいたっては約1534万人に及ぶと推計されている。

 依存症は、ある種の薬物によって脳の神経伝達物質の異常分泌や機能変化が起こり、それより以前と同じ摂取量ではその物質によって得られるメリットが少なくなるので、その物質をさらにほしくなる、あるいは、それがない状態では、ひどい不快感が生ずる状態と考えられている。物質によって依存症を誘発する程度はさまざまだが、全米科学アカデミー医学研究所の推計では、使用人口に対し依存症になった人の割合は、ヘロイン23%、コカイン17%で、タバコは32%、アルコールは15%の人を依存症にするという数字が出ている。最近では、物質依存でなくギャンブルやインターネットのような「行為」に対する依存症も問題になっている。

 これは、たとえばギャンブルで勝ったときの快感によって大量にドパミンのような神経伝達物質が出るので、前記と同じような脳のメカニズムが働くという説があるが、脳のソフトが書きかえられてしまうという説もある。人間は、躾や教育によって「我慢」を覚える。たとえば、ここで我慢して勉強を続けたら後で成果が出るというふうに今を我慢することで、未来を得るというプログラムが書きこまれる。

 ところが、行為に対する依存症が生じてしまうと、そのプログラムが壊されてしまうのだ。要するに、目の前の快楽を我慢することができなくなり、それによって結果的に失うものが大きくなっても、後先が考えられなくなる。意志の力で我慢すればいいではないかといっても、意志そのものを壊されてしまう病気なのだ。実際、タバコにしても意志の力だけでやめられる人はそう多くないが、禁煙外来の力を借りればやめられるという例は少なくない。

 依存症になると、きちんとした治療を受けない限り、なかなか治らない。現状の日本では治療施設が少なく、依存症が進行してからでは人生で失うものが想像以上に大きいという国民の認識も薄い。そこで依存症の予防が大切になる。依存症になりやすいものの危険性を啓蒙すること、依存症になりやすいものになるべく接触できないようにすることが必要なのである。

 WHO(世界保健機関)はタバコに続いてアルコールへの規制を呼び掛けている。アルコールメーカーに対する広告量規制、若者への販売制限もしくは禁止、公的機関などによるアルコール広告の監視システムの開発などである。広告を契機に若者が飲酒を始めると、将来的に1~2割がアルコール依存になることの告知や、アルコール依存症の人が治療によってせっかく禁酒しているのに、それを阻害するようなCMは許さないという対応で、医師の立場からすればまっとうなものと言える。

 日本の民放のCMは、WHOの呼びかけを無視するに近い状態だが、広告料収入に頼らないと経営が成り立たないことに多少の斟酌はできる(それでも公共の電波を安価で利用しているのだから、本来は規制されるべきだと考えるが)。しかし、スポンサータブーのない公共放送であるNHKが、こうした啓蒙活動に積極的でないのはなぜだろう。

 ギャンブル依存に対しても同様である。ギャンブルは、接した際の依存性の強さは昔から認識されている。そのため世界の多くの国でギャンブル営業は禁止か、厳しい制限を受けている。勝手にギャンブル営業をさせると、国中がギャンブル依存症であふれ、阿片戦争前の中国のようになりかねないという懸念はけっして荒唐無稽ではない。ギャンブルは麻薬や覚醒剤と同じくらい人間にとって真っ当な人生を歩む上で大きな危険性を孕んでいる。個人の嗜好の問題である、という論点は承知しているが、それでも依存症に陥らせない対策は必要なのである。

 たとえば毎日やっていると依存症に陥りやすいので、毎日はできないようにする。競馬や競輪が原則週末のみの開催になっているのはそのためだろう。外国でもカジノ営業を認める場合は大都市や首都圏から離れた地域でしか認めない。ラスベガスもマカオもモナコもみなそうだ。

 日本でパチンコをギャンブルと思わない人はいないだろう。少なくとも換金した時点でギャンブルに当たるはずだ。パチンコ依存症の怖さは想像以上である。約1100万人のパチンコ人口で売り上げが19兆円(レジャー白書2013年度版)という巨大な規模は、約200万人の依存症が年間400万円以上を注ぎこむことでもたらされる数字だ。

 パチンコが依存症になりやすいのは毎日営業し、都市部でも地方でもどこでもフリーアクセスだからだろう。精神科医で作家の帚木蓬生氏によるとギャンブル依存症の九五%がパチンコかパチスロがらみのものだそうだ。

 もちろん、この危険はすでに認識され、隣国台湾では、首都台北市においてパチンコ禁止となり、韓国でも2006年にパチンコの換金を禁止している。それに引き換え、我が国ではパチンコ規制の世論は小さく、民放はパチンコの広告を垂れ流し、NHKも看板番組のひとつ「クローズアップ現代」でパチンコ依存症を取り上げながらも、依存症の危険性に対する認識は薄く、たとえば裁判員裁判が始まる際には、辞退を認めるアンケート調査結果のイラスト入り解説のたった三例の一つに、新台入れ替え時のパチンコ屋の店員を取り上げるというチグハグさである。

 民放が不況のあおりを受け、多くの国民を依存症に陥れかねない広告に「依存」しているのであれば、公共放送たるNHKこそが、その危険を食い止める防波堤になってもらいたいと、一人の精神科医として私は強く願う。

 私は、このような精神障害レベルの依存症の誘発だけが問題だとは思っていない。ご参照願えれば幸いだが、拙著『依存症社会』(祥伝社新書)で問題にしたのは、国の活力の衰退ということである。不況が長引き、国の債務が増えて将来への不安が高まると、国民は健全な消費を控え、貯蓄性向が高まる。すると、国民の消費の中で依存性の高いものの割合が増える。ワーキングプア状態の若者が、定額料金の施行前に携帯電話に月に10万円も使うとか、ネットゲームやアバターのようなものに月に10万円も使うなどがその例だ。

 そうなると、テレビの広告においても、アルコールやタバコ、ギャンブルのような明確に依存症を生じさせるもののほかにも、携帯電話やネットゲームのような依存性の高いものの割合が高まっていく。しかし、そうした消費が増えても、健全な消費の割合は落ち込み、家電製品や自動車産業などの内需が落ち込んで海外依存が高まってしまう(これが間接的に中国などへの過剰な配慮の原因になり得る)。そして、健全な消費への広告出稿が減り、依存性の高いものの広告の割合が増えるという悪循環が生じる。その意味で、依存性への警告は国家経済にとって急務なのであり、スポンサータブーのないNHKこそが啓蒙の先頭に立たねばならない。

学力低下とNHK


 今でこそ、「ゆとり教育」は、前時代の遺物というふうに思われるようになったが、負の遺産は大きい。最近発表されたOECD(経済協力開発機構)の国際成人(学)力調査(PIAAC調査)でも、35歳以上の日本人の学力はトップを誇ったが、25歳から34歳では、フィンランドに抜かれ、16歳から24歳に関しては、数的思考力(おおむね数学力)の分野で、3位に順位を落とし、韓国に肉薄されている。

 この調査は、大学の卒業が難しい国や生涯学習に力を入れている国の順位がふるわず、子供時代の教育が、大人になってからの学力に大きな影響を及ぼすことを予想以上に明らかにした結果だった。今後日本はさらに順位を下げるかも知れない。ゆとり教育の後遺症が将来に影を落とす可能性を示唆している。

 ゆとり教育の前提となったのは、識者(多くは左翼的価値観の識者だが、厄介だったのは保守論壇の人でも、多くは受験競争や詰め込み教育に批判的だったことである)による受験競争や詰め込み教育への批判があり、それに世論が誘導され、むしろゆとり教育を歓迎する雰囲気が醸成されていったことである。

 その大きな節目となった、あるいは、この手の批判にお墨付きを与えたのが、1983(昭和58)年にNHKで放映された『日本の条件─教育』という特集番組だという説がある。第1回放送は同年2月14日で、「何が荒廃しているのか 偏差値が日本の未来を支配する」というものだった。そこには、当時問題になっていた校内暴力をはじめ子供たちの諸問題、思いやりのなさなどが、すべて「偏差値教育」「学力・点数一辺倒主義」によるものと思わせるつくりがあった。

 天下のNHKが、「大型番組」(NHK自らがそう名乗った)で、あたかも客観的事実のように、偏差値教育、詰め込み教育に弊害があると論じたのであるから、それを一般国民が素直に信じたのは想像に難くない。実際には、少子化のために受験競争が緩和されたり、ゆとり教育によって、子供の詰め込みの負担が減ったりしても、いじめ問題を含め、子供の心理的な問題が解決に向かったとはとても思えない。残ったのは深刻な学力低下と意欲のない若者の激増ではないのか。

 さらに言えば、点数至上主義を廃すべく、1989年制定・92年施行の学習指導要領から観点別評価というものが導入され、ペーパーテスト学力が内申点の最低25%まで圧縮され、意欲・態度など教師による主観点が高いウエイトを占めるようになった。これは現在も続く評価方法である。

 結論的に言うと、この時期と同時に、とくに中学校での校内暴力、生徒間暴力、不登校が激増した。客観的評価であり、努力によってある程度確保されるペーパーテスト学力と違い、教師の目で評価が決まるシステムはむしろ子供たちの心を蝕んだのである。

 最近のNHKは、ゆとり教育批判のような番組を作ることもあるし、『テストの花道』のような受験学力を高めるバラエティ番組の制作も行っているが、かつては詰め込み教育や受験が人間性や創造性を歪めるという世論誘導に大きな一役を買ったことは猛省を促したい。

 ついでに言うと、民放サイドの受験批判、優等生批判は、スポンサーの意向もあったのではないかと私は見ている。このような批判は70年代後半から急激に高まった。企業経営者の多くが、点取り秀才が創造性や人間性に欠けると批判を始めた。ところが、実際の採用では、東大卒をはじめとする偏差値秀才を優遇するという明らかなダブル・スタンダードが存在した。

 ちなみにこの時代は、戦後の新興企業の創業者が息子に跡を継がせる時期と一致する。日本では、とくに中小企業では所有と経営が分離されていないために、創業者が自分の直系の子弟に経営を引き継がせることが多いが、多忙からか教育に十分な時間が割けないために子供に高学歴を与えてやれないというケースが少なくない。また、欧米ではあり得ない、その国を代表する有名私立大学に付属の小学校などがあるため、まったく受験競争を経験せずに、私大に進学するケースも少なくない。このような子弟の経営の引き継ぎを正当化するために、経営者が偏差値秀才批判の方棒を担いだというのは私の僻みだろうか。もし私の疑念が事実であったとすれば、民放は当然、スポンサーの顔色を窺い、受験競争や受験秀才の批判の片棒をかつぐことになる。ここでも、防波堤にならなければいけないNHKがそうならなかったことは、とても残念なことであった。

超高齢社会とNHK


 私の本業は、高齢者を専門とする精神科医であるが、NHK問題の大きな一つに、超高齢社会への視点、対応が欠けているということがある。もちろん、高齢者福祉や年金問題、あるいは、認知症の最新治療などに意欲的な番組を作ってはいる。ただ同時に、NHKの取材不足と権威主義が、日本の旧態依然とした医療システムにお墨付きを与えているという感も拭えない。

 拙著『医学部の大罪』(ディスカバー携書)は、現代の大学医学部の問題点を批判的に考察した。いちばんの問題点は相変わらずの臨床軽視、教育軽視、研究志向であり、その考えに基盤をおく臓器別診療型の専門分化医学である。実際に大学病院に行くと、内科や外科という科は存在しない。あるのは、循環器内科、消化器内科、呼吸器内科、心臓外科といった臓器に特化した専門分化した診療科である。

 人口構成において若者が多い時代にはこれは有効に機能した。若者であれば、一人の人間が複数の病気を抱えることが少ないから、一つの臓器の病気を専門的に診る専門医の存在はありがたかった。しかし、高齢者が人口の4分の1を超える現代ではそれが前時代的なものとなりつつある。一人でいくつもの病気を抱える高齢者の場合は、このような専門分化型の医療を受けると、複数科にかからなければならない。それぞれの科で検査を受け、薬物治療を受けるとなると、相当量の薬を飲むことになる。多剤併用は副作用が増えることは医学の常識である。また高齢になるほど薬の副作用が生じやすいことは高齢者を専門にする医師ならだれでもが感じることのはずだ。

 だから、高齢者には一人の医師がすべての臓器を診て、薬も必要なものから五つくらいまでを選ぶことができる総合診療医のニーズが高い。実際、地域医療の盛んな長野県は、男性・女性とも平均寿命が全国1位であるが、一人当たりの老人医療費は日本最低で済ませている。

 もちろん大学病院にも老人科はあるが、臓器別診療の発想が抜けないうえ、患者の平均年齢がせいぜい70歳代であり、往診もしたことのないような医師が教授を務めるところばかりだ。製薬会社との悪い噂も絶えない。そのため、老年医学会の専門医が少ない長野県は長寿で、老人医療費も安いのに、専門医が多い県は、短命で老人医療費が多いというパラドックスが現実に生じている。

 こうした現実があるにも拘わらず、NHKは権威主義のためか、いろいろな番組で論文数の多さで選ばれたとしか思えない医学部教授を重用し、臨床の名医を無視している。この点では民放の人選のほうがはるかにましだ。人口の高齢社会化と逆行する医学部教授の重用は、NHKの権威主義を象徴するとともに、超高齢社会への認識の薄さ、その報道の悪影響は大きい。

 もう一つ、NHKの編成が超高齢社会に逆行し、高齢者の老化を進めているという懸念もある。人口構成がこれだけ変わったのに、民放がスポンサーへの〝配慮〟から若者迎合が過剰なのは、コマーシャリズムの観点からはまだ斟酌できる。しかし、NHKまでが同様の編成をする必然性はない。まじめに受信料を払っている高齢者が、たとえば深夜帯に見る番組がないという憂き目にあっているのは承服しがたい。

 職業人口も大きな変化を遂げている。農林水産業に従事した高齢者は少なくなり、現在は高齢者の多くがスーツを着て会社に行き、残業を重ね、接待や麻雀で「午前様」が当たり前の生活を送ってきた層になりつつある。これは首都圏や京阪神だけでなく地方都市でも似たり寄ったりだろう。要するに、高齢者が早寝早起きというのは一面的な捉え方で、宵っ張りの高齢者が増えているのだ。高聴取率を誇る「ラジオ深夜便」を放送するNHKがそれを知らないわけはない。

 にもかかわらず、テレビでは深夜帯も若者に媚びた編成を続けている。独居高齢者、あるいはパソコン操作に馴染みのない高齢者には、テレビは今も社会とつながる生命線と言える。脳の老化予防のためにも、鬱の予防のためにも、高齢者に向けた健全な娯楽番組や教養番組を放映するのは、やはり民放にはできない、NHKの重要な責務である。

 以上、NHKがしっかりすれば、今後の日本国の活力を少しでも高め(あるいは衰退から救い)、日本国民の幸福に寄与すると考えられる点を精神科医の立場から簡潔に列挙してみた。NHKは無視するだろうが、読者諸賢の一考に供し、少しでも共感が得られれば幸いである。


 わだ・ひでき 昭和35(1960)年、大阪府出身。東京大学卒。精神科医。受験アドバイザー、映画監督等多彩な顔を持つ。初監督作の「受験のシンデレラ」はモナコ国際映画祭4冠。


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