鹿間孝一(産経新聞特別記者兼論説委員)

 ラグビーのワールドカップ(W杯)と言えば、クリント・イーストウッド監督の映画「インビクタス 負けざる者たち」を思い出す。

 1995(平成7)年の南アフリカ大会。反アパルトヘイト活動家として27年間に及ぶ獄中生活を送り、ノーベル平和賞を受賞したネルソン・マンデラ(1918~2013年)が前年、初の黒人大統領に就任した。

 マンデラ大統領はこの大会を、黒人と白人の和解と団結の機会にしたいと考えた。

 当時、黒人たちに人気があったのはサッカーで、ラグビーは富裕層の白人が行うスポーツだった。代表チームに黒人選手は1人しかおらず、長く国際大会から締め出されていたこともあって、W杯でも期待されなかった。

 南アフリカ代表チームは予想外の快進撃で決勝に進出する。そっぽを向いていた黒人も応援するようになる。

 決勝の相手は、優勝確実とみられたニュージーランドだったが、南アフリカは互角の戦いで延長にもつれ込み、終了間際の劇的なドロップゴールで勝った。

 できすぎたストーリーだが、実話である。

 つけ加えると、力と力がぶつかり合うラグビーは番狂わせがほとんどない。この大会に出場した日本は、ニュージーランドに17-145という記録的な大敗を喫している。

「スポーツの宮様」のお言葉


W杯日本大会の開催地に選ばれた東大阪市の花園ラグビー場 (本社ヘリから)
 2019(平成31)年のラグビーW杯が日本で開催される。全国12の開催地に大阪府東大阪市の花園ラグビー場が選ばれた。

 高校野球の聖地が甲子園なら、ラグビーは花園である。楕円(だえん)形のボールに青春を燃焼した高校生ラガーマンの汗と涙がグラウンドにしみこんでいる。

 その舞台に世界の強豪を迎える。今からワクワクする。

 花園ラグビー場の誕生には、「スポーツの宮様」として親しまれた秩父宮殿下(1902~53年)が大きな役割を果たされた。

 英国に留学された秩父宮殿下はラグビーに関心をお持ちだった。

 昭和3(1928)年、甲子園球場で第1回東西対抗が行われた。臨席された殿下は試合の前日、大阪電気軌道(現近畿日本鉄道=近鉄)で橿原神宮に参拝され、車窓をながめながら「沿線にはずいぶん空き地が多い。ここにラグビー専用競技場を作ったらどうか。乗客が増えて、会社も利益を得るのではないか」とおっしゃった。

 随行した大軌の幹部は受け流したが、まもなく再度のご乗車で「まだグラウンドはできないのか」と尋ねられてあわてた。すぐさま重役会を開いてラグビー場建設を決議した。

 しかし、日本にはまだラグビーの専用競技場はない。英国のトゥイッケナム・ラグビー場を参考に、グラウンドは全面には高麗芝、大鉄傘付きのメーンスタンドなど1万2000人収容の堂々たるラグビー場が翌4年11月に完成した。

 計画からわずか1年足らずの突貫工事だった。

選手たちの魂がぶつかり合う


全国高校ラグビー大阪大会で、優勝を決め府代表となった府立北野高校フィフティーン。賞状を手に喜ぶ選手は、現大阪市長の橋下徹氏(手前中央)=昭和62(1987)年11月、大阪府東大阪市の近鉄花園ラグビー場
 昭和38(1963)年から全国高校ラグビー大会の会場になった。近鉄が所有していたが、今年7月に東大阪市に譲渡された。

 W杯のために、3万人収容のスタンドを4万人に改修し、ナイター設備や大型ビジョンを設置するという。

 大会後の維持・管理が問題になるが、心配はあるまい。東大阪市は、夏には市職員がクールビズでラガーシャツを着用し、バイクのナンバープレートはラグビーボール形にするなど「ラグビーのまち」をアピールしており、全国的な知名度も高い。

 むしろ心配なのはW杯の盛り上がりだ。

 ラグビーを観戦したことのない人は、学生の試合でも社会人大会でも、一度、花園に足を運んでほしい。間近に選手たちの息づかいが聞こえ、魂がぶつかり合う音に驚くはずだ。

 W杯ではきっと映画になるようなドラマが生まれる。