伊東潤(作家)
昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。

 明智光秀というのは、どうにも捉えどころのない人物である。残された記録が、両極端な人物像を示しているからだ。

 日本人の書いた種々の記録では、光秀は穏やかな性格で民に優しく、信心深い上に詩歌文学にも通じた教養人であり、礼儀正しく謹厳実直ということになる。これが、いわゆる白光秀である。

 一方、宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にある光秀像こそ、黒光秀の典型だろう。

「徳川家康公フィギュア」
 「(光秀は)裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」

 慈悲深い仏のような白光秀では、いかに吏僚(りりょう)として優れていても、信長家臣団の首座を獲得するのは難しい。つまりフロイスの描く黒光秀は、かなり実像に近いと思われる。だとすると、ほかの記録との辻褄(つじつま)が合わない。

 おそらく「己を偽装するのに抜け目がない」という一節に、光秀の二面性ないしは多面性が示されているのだろう。

 さて本能寺の変にまつわる諸説は、大別すると野望説・突発衝動説・怨恨(えんこん)説・黒幕説に分けられる。野望説については、黒光秀の観点からは最も妥当なように思える。しかし、本能寺の変成功後の無計画さから、常に疑問が呈されている。

 最近では、怨恨説の一種である四国問題説というものが注目を集めている。すなわち信長が、「四国の儀は元親(もとちか)手柄次第に切り取り候へ」(『元親記』)という約束を反故(ほご)にし、四国進攻作戦を行おうとしたことで、光秀が恨みを抱いたというものである。しかし面子(めんつ)をつぶされたくらいで、謀反に及ぶだろうか。

 天正10(1582)年3月11日、信長は武田勝頼を滅ぼし、天下統一まで、もう一歩となった。この時、信濃国の諏訪で行われた祝宴の席上で、「われらも長年にわたって骨を折ってきたかいがあった」という光秀の言葉を聞きつけた信長が、「お前がどれほどのことをしてきたのか」と怒り、光秀の頭を欄干に叩(たた)きつけたという逸話がある(『祖父物語』)。

 この話は、史実としての信憑(しんぴょう)性が低いとされるが、常識では考えられない異常な行動だからこそ、真実ではなかったか。武田家を滅ぼした信長の自己肥大化は、この頃、急速に進んでいたからである。

 いずれにせよ武田家の遺領は、功を挙げた者たちに分け与えられることになった。この時、徳川家康は駿河一国を拝領する。

 甲斐国からの帰途、徳川領を通った信長は、家康を安土城に招いた。駿河一国拝領の御礼もあり、家康は、その誘いを断ることができない。ちなみに武田家が滅亡することで、信長にとって、家康は不要な存在になっていた。

 かくして5月15日、家康は安土に伺候(しこう)する。この時、家康の饗応(きょうおう)役に指名されたのが光秀である。しかし饗応方法をめぐって信長と意見の対立があり、激しい折檻(せっかん)を受けたという。

 これは仮説だが、この時、自己肥大化の極にあった信長は、安土で家康を殺せ、と光秀に命じたのではないか。しかし光秀は拒否した。それで信長は切れて折檻に及んだ-。

 この時、光秀が代替え案を提示したことで、信長は矛を収め、光秀に備中高松城行きを命じる。むろん、信長が合意した秘策があってのことである。

 実はこの頃、秀吉が高松城を攻撃しており、苦戦を強いられていた。その救援要請が安土に届いたのは、家康が安土に到着したと同じ15日である。

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