伊東潤(作家)
昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。

 それでは、本能寺の変に至るまでの明智光秀の軌跡を整理してみよう。

 天正10(1582)年5月17日=備中への援軍を命じられ、安土から坂本城へ▽同26日=坂本城を発し、丹波亀山城へ▽同27日=愛宕山に参詣し、一晩籠もる▽同28日=連歌を興行し、発句を詠む。その後、亀山に帰る(天正10年5月は「小の月」なので29日まで)▽6月1日=亀山城を出陣、山陰道を進む▽同2日=未明に桂川を渡り、本能寺を襲撃

 一方、織田信長の関心は、少ない供回りで安土にやってきた徳川家康を、どこで殺すかである。忠実な同盟者を安土で殺してしまっては、天下の威信を失う。光秀は、この点を指摘したのではないだろうか。

本能寺跡を示す石碑
 信長は、出陣支度で大わらわの安土では、饗応(きょうおう)が十分に尽くせないことを理由に、家康に京都行きを勧める。この話を家康は断り切れない。

 この頃の家康の行動を整理すると、以下のようになる。

 5月15日=安土入り▽同17日=安土での饗応▽同19日=安土そう見寺(そうけんじ)で能興行▽同21日=京都入り▽同22~27日=京都見物▽同28日=京都出発、その日のうちに大坂入り▽同29日=大坂出発、堺入り▽6月1日=堺で1日3回の茶会▽同2日=信長の命により京都に向けて出発

 家康は、信長の命によって畿内を行き来させられた。しかもこの日程は、信長の指示によって頻繁に変えられた。おそらく光秀は、野盗か野伏(のぶせり)を装って家康を襲撃し、信長の信用を落とさないようにして家康を葬り去ろうと、信長に提案していたのだろう。

 しかし家康は隙を見せない。しかも家康には、茶屋四郎次郎という諜報機関があり、信長の行動は逐一、入っていた。それゆえ光秀はそれを逆手に取り、信長本人を囮(おとり)として家康をおびき出そうとした。

 5月29日、信長は備中への後詰めのために入洛する。しかし供回りはわずかで、馬廻(うままわり)衆をはじめとした主力部隊は安土にとどまっている。15日に救援要請が入ったのだから、16日には陣触れを出しているはずで、兵農分離が進んでいる織田軍団としては、あまりに遅い。つまり信長から馬廻衆に、安土にとどまるようにという指示が出ていたとしか思えない。

 京都に来るよう信長から命じられた家康は、6月2日の朝、堺を出発した。むろん茶屋四郎次郎からの情報により、織田軍主力が安土にとどまっていると知って、安心して上洛の途に就いたはずである。

 危ういのはその途次である。家康は先触れを出して慎重に進んだ。しかし信長は、家康を本能寺に招き入れ、自分が抜け出した後に、野盗を装った明智勢に襲わせようとしていた。しかし、そこで手違いが生じた。ないしは信長がいると知っていながら、光秀は本能寺を襲った。

 『信長公記』によると、襲撃前日の6月1日に重臣たちに決意を語っているので、“確信犯”の可能性が高い。だとすると黒光秀の面目躍如である。しかし、変後の準備不足を考慮すると、手違いが生じて信長を殺してしまったという線も捨てきれない。

 さて、これが私の考える本能寺の変である。もちろん、状況証拠を積み上げた末の仮説にすぎないことは断っておく。

 黒光秀なら、家康を討つと言っておきながら、信長をだまし討ちにした可能性は十分にある。問題は、本能寺の変を成功させた後である。これまで用意周到だった光秀が、人が変わったように後手に回り、勝者から敗者へと転落している。とくに味方を増やせないまま、秀吉と戦い、無残な敗北を喫するのは、いかにもおかしい。

 こうなると光秀という人物の本質がどこにあったのか、本当に分からなくなる。手違い説だと、うまく説明できるのだが、それ以外、変後の計画性がないことを説明できない。

 本能寺の変は謎のベールに包まれている。その理由の一つは、光秀という人物の「己を偽装するのに抜け目がない」と言われるほどの捉えどころのなさに起因している。黒か白か、または二面性を有していたのか。人というのは実に謎に満ちている。完璧な作戦で勝者となったにもかかわらず、その後の計画性がなく、光秀は敗者に転落した。そこには、何か大きな謎が介在していたとしか思えない。

【注】そう見寺の「そう」は手へんに頭にノを付けた口の中に夕、下に心

※産経新聞の連載「敗者烈伝」の完全版は月刊「J-novel」(実業之日本社)で連載中です。