石井孝明(ジャーナリスト)

敵は恐怖による“精神的悪影響” 


 1986年に旧ソ連のウクライナで発生し、世界を震撼(しんかん)させたチェルノブイリ原発事故。筆者は昨年11月、作家の東浩紀氏が経営する出版社「ゲンロン」が主催したツアーを利用して現場を取材した。残念ながら、福島第1原発事故を起こした日本で、チェルノブイリでの失敗が似たような形で繰り返されていた。

 インターネットで「チェルノブイリ」という単語を検索してみよう。「生命が死に絶えた」「子供に障害が増えた」「5万人以上が死亡した」など、恐ろしい情報があふれる。

 ところが、現地に行くと拍子抜けした。危険は誇張されていたのだ。

 原発から10キロ近くまでの放射線量は毎時0・1マイクロシーベルト前後と、日本よりは高いが、パリや北京、ロサンゼルスなど、世界の主要都市と同じ程度だ。さすがに、事故を起こした原子炉4号機から壁を隔てた場所では毎時30~40マイクロシーベルトと高いものの、即座に健康被害の出る状況ではなかった。事故は拡大を押さえ込まれていた。

 周辺地域は避難指示の出たまま放置された。住民の帰還作業が大変だったためのようだ。しかし、勝手に帰った人々がいる。ウクライナでその数は約1000人。大半が高齢者で亡くなったり、再移住しており、現在では100人程度に減っていた。

 帰還者の77歳の男性に話を聞いた。

 「村にいた同世代の人の多くは亡くなった。移住先でのストレスのせいだろう。私は故郷で暮らせて幸せで元気だ」

 この人は兵役で放射線防護部隊にいたために知識があり、自分の村は汚染されていないことが分かって、安心して暮らしているという。

 国連の調査(2011年公表)では、原発事故直後に、作業員や消防士138人が急性放射線障害になり、28人が亡くなり、2000年までに19人が死亡した。また、放射性物質をかぶった牧草を食べた乳牛のミルクが流通し、約4000人が甲状腺がんになり10人が亡くなった。だが、それ以外に健康被害は確認されていない。

 筆者はチェルノブイリ事故の被害を矮小(わいしょう)化する意図はないが、世界に広がったイメージとは異なり、現地の状況は破滅的なものではなかった。

 同地を調査したロンドン王立大学のジェラルディン・アン・トーマス教授(分子病理学)に、福島で取材したことがある。彼女は「チェルノブイリでは、低線量被ばくによる健康被害は確認できない。それよりも恐怖や誤った情報による精神面の悪影響が大きかった。福島でも心の問題が起こることを懸念している」と語っていた。

 チェルノブイリ近郊は森と湖に囲まれた、美しい場所だった。前出の帰還男性は「使わないのはもったいない」と語った。美しい福島が原発事故後の復興が進まないことに、筆者も同じような悲しみを抱いている。

 科学的な検証によって不必要な恐怖をなくし、原発事故の悪いイメージを福島でなくす必要がある。このままではチェルノブイリの失敗が繰り返されてしまう。