裏切りの耐性が強権につながった


 信長という人物像を考えるとき、まず思うのは、彼が「裏切り」に関する耐性が強いってところです。尾張の時代から裏切りにいっぱい遭ってきているし、その経験から事前察知というか、裏切りに対してあまり怖がらなくなったのは大きいですよね。ふつう1、2回裏切りに遭えば、次は慎重になっていくものなんですが、信長ってこの部分だけは全然慎重じゃない。裏切りにはさらに大きな裏切りで返すっていう耐性がある。

 佐久間(信盛)に出した折檻状を読むと、信長はかなり起業家的な考え方があって、とにかくお金回り優先の家臣遣いだった。例えば、佐久間を責めた理由の一つは、褒美とかを貯め込んで家臣に分け与えないことだった。つまり家臣が内部留保を貯め込むみたいなことをとにかく嫌う。褒美を与えられたら与えられた分、すぐに部下に分け与えることを好む。あと寄騎って、企業にとっての派遣社員みたいなものなんですが、寄騎の武将を酷使するなとか、本当は使い勝手がいいはずなんだけど、それを酷使することも嫌う。ちゃんと自分の育てた家臣を前線に立たせて、そのサブとして寄騎を使えとか。それと、失敗した家臣もすぐに首にするんじゃなくて、ちゃんと挽回しろっていう、すごい合理的な起業家精神を持っている。

『佐久間折檻状』

 天正8(1580)年、信長が古参重臣の佐久間信盛に送った書状。19箇条からなる書状には、他の重臣に比べての武功不足や保守的な戦略など無為をあげつらわれ、信盛は高野山に追放された。


織田・徳川討伐に動き始める武田信玄
=「センゴク」8巻(C)宮下英樹/講談社
 これも謎なんですが、当時の一般的な考え方として「家を残す」という思想があったはずなんですけど、信長はこの思想から部下を切り離すことに成功した。本来、大名というのは、いかに家中の感情をなだめていくのかが非常に重要な仕事でもある。(武田)信玄とかも、ちゃんと法律をつくって徹底的に順守させた。他にも、結城家っていうところも、やっぱり家臣が自分の家を守るためには裁判で黒を白にしちゃうぐらい極端なことをやっている。家臣の非を責めてすぐに切腹されたら困るし、だからこそ多くの大名が独自の法律をつくって、ちゃんと家臣をなだめたりしてたんですけど、信長は最期までそれやらずに済んだ。やっぱり家の思想から切り離したことが大きいんだと思うんですけど、それができたのは金銭力、つまり経済力があったからなんでしょうね。でも、根本的にはちょっと謎ですね。なんで信長だけ家臣の感情を無視しながら、あれだけ領土を拡げることができたのか。

 それと当時は、武士がお金を扱うことを忌み嫌う風潮があった。だから銭勘定は商人にやらせたし、しかも経済学なんて学問もないからリテラシーだってほとんどない。でも信長は違った。他の大名と比べても、お金の扱い方は圧倒的に優れていた。歴史をひもとけば、鎌倉時代とかの荘官でも凄い羽振りのいい人って、その金回りが謎だったらしくて、結局は周りの人に妬まれて潰されるんですけど、荘官程度でもお金の扱い方次第で大名クラスの生活ができたというから、信長の時代もお金の扱い方一つでものすごい差がついたのだと思う。お金を使えるか使えないか、単に得意っていうだけで、信長は他の大名よりもすごく優位に立っていたはずです。

 織田家は代々、荘官の家柄だった。商業地である尾張の津島で、しかも民間人と付き合っていたというのが大きかった。家老の子なのに庶民と付き合って、卑しいと思われていたお金の扱いを学んでいたなんて、当時の感覚では有り得ない。これは想像なんですけど、信長は荘官の時代からお金のリテラシーをどんどん学んでいったんだと思う。

信長は室町オタクだった


 関西の研究者の先生と話したりすると、もうちょっと関西の事情を考慮すべきだって教わることがあります。考えてみれば、尾張から来た信長が当時の都である京の秩序をいきなりは壊せない。ちょっとニュアンスが難しいですけど「自明性」というやつですよね。世の中はこんな風に成り立ってるという、あれです。この社会がどのように運営されているのか、というシステム。実はこのシステムを壊すのが一番難しい。

安土に伺候する徳川家康への饗応に関して
相談する織田信長(上段左)と明智光秀(同右)
=センゴク一統記1巻(C)宮下英樹/講談社
 さっきも言いましたが、信長は極めて慎重にやっていて、信長以前の歴史上の権力者がいずれも朝廷に取り込まれてきたということもよく知っていた。信長は朝廷に対し暦の改訂を求めていますが、これも自明性の一番大きなものですよね。日付を決めるというのは日常を支配することですから。ちょっとずつちょっとずつ朝廷ありきの社会の自明性を、取り込まれないように、あんまり入り込まないように変えていこうとした。

 僕は、信長が京都に住まなかったのもその一つだと思うんです。信長はむしろ怖いぐらいに朝廷を見ていたと思うんです。将軍を追放しても何とか成り立つというか、京都の秩序を維持することができたけど、朝廷を壊したらもっと大きな問題が起きるんじゃないかって恐れを感じながら、でもどこかで壊そうとしてるっていうのはすごく感じますよね。だけどちょっとずつ、何を壊したいとか、朝廷権力というより、秩序の中心に成り立ってる社会の自明性を壊すことを極度に恐れていた気がします。

 ただ、それでいて単なる欲望と言うか、損得によって邪魔なものを壊すのが信長の考え方だったから、朝廷が表立って邪魔しない限りはそんなに急いで壊そうとも思っていなかった。それが、いつの頃からか朝廷に対して感情的にキレてしまう。信長にしてみれば、「もう、こいつは要らねえな」と思った時は、いつでもすぐに壊せるだけの準備はしていたと思います。

 もう一つ、僕のイメージなんですけど、信長は「室町オタク」だったと思うんです。これは以前、黒嶋(敏・東大史料編纂所助教)先生に聞いた話なんですが、信長が南蛮船を見に行った時に、細川京兆家の人と一色家の人を連れていっています。実は、かつて足利義満(室町幕府3代将軍)が外国船を見に行った時も、同じく細川京兆家と一色家の人を連れて出かけている。おそらく信長は義満にあやかって、同じようなメンバーで南蛮船を見に行ったんではないかと。

 あと、安土城の絵画とかも、義満の趣味にあやかったりしています。信長は懐古主義だからこそ、ちゃんと理解した上で古いものを壊そうとしていた。僕にとってはむしろ、そっちの方がよっぽど超人的に見えちゃったりするんですよね。何も考えなしに壊す方がよっぽど馬鹿っぽくて、分かって壊すって方が悪魔的な感じがして、ちょっと過大評価かもしれないですけど(笑)。