光秀の内面から読み解く本能寺の変


 信長を語る上で避けて通れない出来事といえば、やっぱり本能寺の変だと思います。日本史最大のミステリーといわれるだけあって、光秀の動機は研究者の間でも諸説分かれるぐらい謎に包まれています。僕はまず前提として「黒幕説」っていうのは、あまり信じていない。誰かがちょっとそそのかしたとか、その程度を黒幕とは思いたくない。本当に黒幕がいるのなら、信長がいなくてもよっぽど後ろ盾になるぐらいの力がないと。ちょっと秀吉とか義昭とかがそそのかしたぐらいで黒幕って言うのはどうなのかなと。
(C)宮下英樹/講談社
 仮にそそのかした事実があったとしても黒幕というのは、信長がいない後の権力をつかむほどの力がなければ現実的ではない。むしろ、光秀が嫌っている人物を殺させるぐらいの力がないと黒幕にはなりえないと思う。

 もう一つ、歴史科学をどう使おうか、というのもありました。本来『センゴク』は文献に当たったりして歴史科学を重要視してますけど、歴史科学はどんどん更新されるじゃないですか。最近もね、本能寺の黒幕について斎藤利三説というものが出てますけど。僕の中ではあれもけっこう納得できる説ではあるんですが、もっと普遍的なものにできないかと思って、まず光秀の内面に迫ることを前提で描きました。

 光秀は長い放浪の中でかなり「自明性」から外れた人になった設定にしたんです。「武士ってかくあるべし」という常識とは違う目線というか、そういう人ってのは「世の中がすべて作りごと」に見えてくるんですよね。例えば戦国時代は場合によっては、人を殺しても許されるじゃないですか。なんか曖昧なルールの中で生きているわけですよね。こういう挨拶をしなければならないとか、こういうしきたりがあるとか、こういう序列でとか。そこから外れて、当時の一般社会のルールから外れた目線を持ってるという意味でも、ある種の異能者なんです。もう一つの目を持ってるという描写はそういった意味で表現しました。

 いま僕たちもこうやって会話を交わしているけど、でも社会のルールには則っているわけじゃないですか。どこか心の奥底では「馬鹿馬鹿しいやりとりしてるな」って思うことも、時にはある。腹が立ったら殴り合えばいいし、ここでお互いに唾を吐きかけてもいいはずなのに、それをせずになんか一定のルールを守っている自分と、どっかで「このくだらないやりとりは何?」って冷めた目を持っている自分がいる。
織田信長(右)と明智光秀=「センゴク一統記」3巻
(C)宮下英樹/講談社

 それを光秀に当てはめてみると、信長に仕える前は幕府に仕えていましたが、意味があるのかないのかよく分かんないしきたりの中で生きてるんですよね。その最中に信長と出会ってなんとなく絶対的なものを見るというか、拠りどころとしてというか、「この人はなんか曖昧なルールの世の中で絶対的な頼るべきものを持ってる」という風に信奉していく。自分の中で「神」のような存在にしていくわけですよね。キリストの下にいた伝道師みたいなものですよね。何を置いてもまずはキリストを絶対と立てて、その中の善悪の中で生きていくというか。光秀にとっては信長ってそういう存在で、善悪の規範だったり、世の中にある曖昧なことをかっちり変えてくれる人なんです。

 でも、自分の中で絶対神であったのが、時間の経過とともにちょっとずつそれが崩れていく。人は神様がいないって思った瞬間、パニックになるんですよね。神様がいないとしたら、じゃあ我々はどういう善悪基準で生きていけばいいんだって。誰もがうろたえるはずなんですけど、光秀もそういう状態に陥っていくっていう感じなのかな。

 信長にしても、さっき言った拡大路線の中で限界が出てくる。領土拡大の限界とか、経済的限界とか、統治の限界とか。拡大したところでこれは終わらないし、いずれ自転車操業になる。光秀にしてみれば、自分の肉体的限界も迫り、近い将来、絶対的な信長がいなくなったら、自分はどう生きていけばいいのか。彼の中でパニックを起こす心理状態になる。

 そして、その先に見たのはキリストと一緒で、死ぬことで絶対になるという発想です。きっと光秀もそういう答えにたどり着いたんだと思う。信長は死してこそ絶対神になるみたいな。よく言われますけど、ゲバラも死ぬことで神格化されちゃうから、実はなるべく殺害したくなかったとか。うまい例えが見つからないけど、光秀の中で本当は一番恐れていたはずの信長の死を、ある時を境にそこから急に死によって絶対視しようって考えるようになった。もちろん、信長を絶対視した政権をつくろうという光秀の内面は僕の勝手な妄想ですけど、漫画的な流れでみてもそういう流れの方がおもしろいですしね。