渡辺武達(同志社大学社会学部教授)


メディアと社会


 ほんの少し前までメディアは、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」による日本人人質2人の惨殺で大騒ぎだったが、今は川崎市の中学生1年生殺害事件一色だ。メディアが「現在」を伝えるのは当然だが、それだけではジャーナリズムとしての社会的存在価値は半減してしまいかねない。加えて、オーディエンス(読者・視聴者)は、こうした悲惨な事件が連続して報道されると、生物としての受容・処理容量を超えてしまい、「情報不感症」となり、自己保全のため、深く考える内的回路を閉ざさざるを得なくなる。

 その結果、多くの人が「またか…」という感慨だけを持ち、逆に現実から目をそらし、根本の問題を見失い、報道が逆効果にさえなりやすい。


民主性維持のために


 日本人人質事件では、戦場取材を行うジャーナリストと政府の国民保護の問題は民主制の維持に欠かせないアジェンダ(社会的検討項目)であるにもかかわらず、そのまま電光掲示板のように目の前を流れていってしまった。そのことは、マスメディアとリンクするネットにおいても同様である。

 だからこそ、今回は社会情報環境の大きな問題の一つである、戦場ジャーナリストの自己責任とその支援体制の重大さを考えたい。

 何よりも大事なのは、この検討は3つのことを前提にしなければ前に進めないということである。第1は、誰しも自分が直接経験するか、経験者から聞かされる以外のことは、メディアを通して知るしかないということ。第2は、権力を持つ者や国民・市民の付託を受けて仕事をする者には、付託者に対するアカウンタビリティー(社会的役割の自覚とその実行責任)があること。第3は、権力はチェックしなければ腐敗し、国民を軽視した行動を取りやすいという歴史的教訓を忘れてはいけないということである。

「自己責任」に甘えず


 この大前提を認識して動くメディアとジャーナリストがしっかりと機能していれば、社会問題は致命傷になる前に修正できる。ところが、現在の社会情報環境では世俗受けするコメントが一人歩きしやすく、メディアも人々もそれを受け入れやすい。例えば、先のフリージャーナリスト、後藤健二さんのケースでいえば、自民党の高村(こうむら)正彦副総裁が2月4日に記者団に、「どんなに使命感が高くても、真の勇気ではなく蛮勇と言わざるを得ない」と語った発言だ。筆者の務め先の同志社大学の創立者、新島襄(にいじま・じょう)は国禁を犯して海外へ渡航して教育面から日本を変えようとした。坂本龍馬もやはり当時の「常識破り」の活動をした。誰もそうした行動をできるわけではない。
シリア北部アレッポで取材活動中の後藤健二さん(中央)(インデペンデント・プレス提供)

 確かに、後藤氏も「すべて自己責任」というメッセージを残したが、それに私たちは甘えてはいけない。メディアの報道と倫理についての古典的報告書で、1946年に出された『自由で責任あるメディア』(和訳・論創社刊)には、「日々の出来ごとの意味について、他の事象との関連のなかで理解できるように、事実に忠実で総合的かつ理知的に説明すること」とある。

 高村氏の発言時にその場にいた知人記者によれば、高村氏は「後藤さんは優しく使命感が高く、勇気のある人だった」と強調したそうだが、どのような状況であっても、国家は国民を守ることに最善を尽くすべきである。ましてや政治家といえども、メディアやジャーナリストによって、多くのことを知ることができるのだから、軽々にジャーナリストを「軽率」と決めつけ、おとしめてはならない。

(わたなべ・たけさと)