新井克弥(関東学院大学文学部教授)


巧妙なISISのメディア戦略


 ISIS(あるいはIS、ISIL、イスラム国)って、いったい何なんだろう?テロリスト集団?それにしては、規模が大きいような、支持層も多いような。そしてメディアを賑わしている。もはや日本のメディアがしばし表記するように”イスラム「国」”つまり国家なんじゃないんだろうか?

 こんなふうに思わせるほどISISのメディア戦略は巧妙だ。

 たとえばISISの機関誌”DABIQ”。パッと見ですぐにわかるのは表紙に掲載されている写真の洗練具合だ。はっきりいって「よくできている」。これは中身のデザインやレイアウトを見ても一目瞭然で、観光ガイドかと思わせる出来だ。一般にテロリストと言えば、こういったことにはあまり頓着しないので、いかにもインディーズっぽい雑な編集になる(そして、それが「ならず者」のイメージを助長する)のだが、これは全く異なっている。

 映像についても同様で、処刑映像についてもキチッと所定の位置にISISのロゴが付けられている周到さ。人質のイギリス人ジャーナリス、ジョン・キャントリー氏にやらせている「現地レポート」もBBCやCNNのそれにすら見える(実際、CNNでこのレポートの様子が流された時には、ナレーションがなければCNNの特派員による報告を彷彿とさせるものだった)。そして、この洗練されたメディアを使いながら「処刑」というセンセーショナルな映像をネットを使って世界配信してしまうのだ。すると、この残忍な映像も、なにやらあやしげな説得力=必然性を帯びているようにすら思えてしまうのだ。
「イスラム国」とみられるグループがインターネット上で発表した
「ジハーディ・ジョン」とみられる男の映像(動画投稿サイト「ユーチューブ」より)

 もちろん、これは演出、もう少し悪意を込めて表現すればトリックだ。ただし、ISISの「メディアの魔術師」としての能力を侮ってはいけない。こういったテイスト、テクスチャーは、翻って実際の組織以上にISISを大きく見せることに成功しているのだから。世界を相手に堂々と渡り合う方法をこういったメディア戦略で達成しているのだから。そして、世界各国の過激派がISISに賛同の意を示しているのだから。今やISISを巡って世界中が引っかき回されている、そんな印象をわれわれは受けてしまうのだ(少なくともメディア上では、この”引っかき回し”は紛れもない「事実」だ。そして、このメディア戦略で日本政府も見事に「引っかき回された」わけで)。こういったメディアの用い方が結果として、本ブログの冒頭に提示したISISのイメージを形成している。

 現在、ISISの外国人戦闘員は1万5000人とも2万人とも言われている。もちろん、これもメディア操作による数値であるという可能性を踏まえなければいけないが、相当数に及ぶことは間違いないだろう。じゃあ、なんで、こんな過激な組織に世界中のあちこちの若者たちが集結するのか。ちなみにアルカイダの国際性はそれほどでもなかったこと(外国人部隊がISISばりに存在したという事実はない)を踏まえれば、これはきわめて不思議な現象だ。だが、これがメディア性、つまりこの10年間あまりのインターネットを軸とするメディア・テクノロジーの発達と、ISISのその巧妙なメディアの用い方に基づくと考えれば、案外納得がいくのではなかろうか。

オタク的志向を充足させるインターネット。
それがテロという「嗜好」に向かうと……


 そのメディア性は二つ。一つはすでに展開しておいたISISのメディアの魔術師としてのメディア性だ。だが、そういった「洗練された」メディア戦略をやったところで、その思想が人々にリーチするということには必ずしもならない。つまりISISがプッシュするという必要条件の他に、このメディアを受け取ろうとする側のプル条件=これにアクセスしたくなる条件がなければならないからだ。その際、そこに大きく介在してくるのがインターネットだ。ISISはネット活動をするだけでなくYouTube、Twitter、facebookなどを巧妙に活用し、インターネットユーザーの若者たちがISISの情報にアクセスしたくなるようなインフラを構築している(例えばワールドカップ時にTwitterの検索窓に”#WC2014”とハッシュタグを打ち込むとISISの広告が出てくる、といった細かいことまでやっている)。

 もちろん、こういったインフラを利用したところで、そう易々とISISに参加しようとする人間が登場するわけではない。ほとんどの若者はスルーするはずだ(実際、そうしている)。しかし、ごく一部の者がこの網に引っかかる。それはインターネットというメディアが備える特性に由来する。

 インターネットは、言うまでも無く膨大な情報を抱えた海。任意に様々な情報にアクセスが可能になる。それがマイノリティに属する情報であったとしても、だ。例えば僕の例を挙げてみよう。僕の趣味の一つはワインだが、最近ではポルトガル・ワイン、しかもヴィーニョ・ヴェルデという早摘み弱発泡性ワインに凝っている。で、これは白やロゼなら現在ではデパートのワイン・コーナーなどで入手可能だが、これが赤となると限りなく難しくなる。ところが、この入手困難なマイナーなワインであってもネットで探せば情報は出てくるし、ほんの数軒だが日本でもこれを輸入しているネット通販業者を見つけることができる。でも、こんなものに興味関心を抱いている人間など、ごく一部のオタク(つまり、筆者(笑))に過ぎない。しかし、日本中を探せば存在するのだ。このネット通販で購入可能なヴィーニョ・ヴェルデの赤というのが、実は日本におけるこのワインの需要を示している。そして、こういったど「どマイナー」な商品の取り扱いはネット通販だからこそ初めて成立する代物だ。つまり、ニーズが広大な領域に、さながらスキルス性胃ガンのがん細胞、あるいはアメーバのように点在するのだけれど、市場がネットという空間横断的な電脳空間に置き換えられることでビジネスとして成立するニーズへと置き換えることが出来るのだ。ネットは空間に縛られない分、広大なマーケットを獲得可能にする。言い換えれば、ネットというのはオタクの嗜好に対応するメディアなのだ。

 ISISも同じだ。こんな集団に興味を持つヤツなんか、実際のところはほとんどいないはずだ。ところが、ISISを知らしめるインターネットというインフラはワールドワイドだ(こういう連中を引きつけようと、ISISはちゃんと英語でプロパガンダしている)。だから、世界中のどこかでISISのテイスト、テクスチャーがツボに入ってしまう若者がいると存在することは十分に考えられる。

 もちろん、これは何もこういった人間=若者たちに「認められたい欲求」があり、それにISISが抵触したからなんてこともない。ただ単に「おっ、ISIS、カッコイイ!」ってな具合で先ずは入っていく。で、最初のうちは、この残酷性と洗練性のミスマッチがオモシロイみたいな具合で、いわば「形」から入っていくのだけれど、これが次第に「内容」そして「思想」、さらには「行動」へと変化する。かつて社会学者の中野収は1960年代末に学生運動に入れ込んでいった学生たちを次のように語っている「学生たちは思想があってヘルメットとゲバ棒を装着するのではない。むしろヘルメットとゲバ棒を装着すると思想が生まれる。順序は逆なのだ」。これと全く同じことがISISへの参加にも起こる。つまり「カッコイイ」から情報にアクセスし続けると、今度はそのカッコよさから次第にISISの思想が浸透していって、気がついたらISISへの参加へと向かっていったなんてことになる。

フィルター・バブルが助長するISISの勢力


 こうなってしまうのは情報化社会、とりわけネット社会が作り上げる現実感覚の多様性というインフラに基づく。ネットにはあらゆる価値観がばらまかれている。Aという考え方について、それを否定するBという考え方があり、さらにこれを否定するCという考え方があり、さらにそれを……という具合に、価値観は限りなく展開されて、「これ」といったスタンダードな基準がない。となると、ユーザーたちはこういった情報の海、価値観の海から親密性に基づき任意に価値観をチョイスし、その価値観を補強するかたちで、それに適合的なデータを収集し始める。そうすることで自分だけの価値観が構築されていく。こういった「嗜好だけで作り上げられる価値観が構築される現象」「自分ループ」「情報のパーソナライズ」をE.パリサーはフィルター・バブルと呼んでいるが、ISISに入れ込んだ若者は、このバブルを補強しようとどんどんISISの情報にアクセスするようになる。そして、挙げ句の果てにはマスメディアで取り上げられる派手な映像やメッセージは、彼らにとっては自らの価値観をさらに補強する「すばらしいもの」にすら映っていくのだ。

 もちろんこういった連中はスキルス性胃ガンのように世界中に点在しているので、それだけでは力は弱い。ところが、これはまさにスキルス性胃ガン。がん細胞ならぬISISオタクが、ネットを介して結集し、さらには外国人部隊としてISISに加わるような状態になっていけば、これは強力な力を発揮することになる。それが、現在のバカに出来ないISISという勢力を作り上げている。ガン細胞が胃を侵し、さらに生命までも駆逐していくということになりかねない。

テロリストに対する対応として、ISISはもはや国家、
そして戦争という対応の方が妥当?


 で、ひょっとしたら、これは新しい国家のあり方を提示しているのかもしれない。つまり「土地はないけど国家はある」。社会学では準拠集団という言葉を使うけれど、そして古くはユダヤ人コミュニティ、華僑、印僑が該当したが、これはそれのサイバー版。そうなるとISISは新カテゴリーとして「イスラム国」ということになってしまう。まあ、そんなことは認めたくはないが、ただし、対応の仕方として「ネオ国家」として考える必要、これだけはあるだろう。ただ単に「罪は償ってもらう」とか「テロリストは掃討すべき」といった次元では括ることの出来ない現状を理解するためにも(こういう言葉は、あくまで語っている側が「強者」、語られる側が「弱者」という前提があって初めて成立する。言い換えれば掃討可能という暗黙の前提の内に語ることが出来る「上から目線」。ところがISISについては、もはやそんなレベルではないことは、言うまでも無い)。

ISISは、こういったメディア論的視点からも捉えられるべきだろう。
(ブログ「勝手にメディア社会論」より)



あらい かつや メディア研究者。関東学院大学文学部教授。ブログ「勝手にメディア社会論」を展開中。メディア論、記号論、社会心理学の立場から、現代のさまざまな問題を分析。アップル、ディズニー、バックパッカー、若者文化についての情報も。