秀吉の不安、官兵衛の不信


 信長横死――。関与の有無は別にせよ、その報せを聞いた時、秀吉はどんな感情を抱いただろうか。私は、2つの想いが交錯していたと推測する。ひとつは、織田信長という絶対的な存在を失ったことへの不安感だ。信長に見出され、信長に頼って生きてきた秀吉にすれば、これからどう生きていけばいいのか、大きな戸惑いがあったのは間違いない。

 しかし一方で、半分以上は「喜び」が心中を占めていただろう。それは、絶対君主・信長に対する、尋常ならざる恐怖心からの解放によるものだ。

 信長といえば、出自や家格を無視して能力本位で人物の登用をしたと語られる。しかし本能寺の変が起きる天正10年頃になると、一族重用の傾向が明らかになっていた。甲斐の武田氏討滅戦の総大将には嫡男の信忠を任じ、三男の神戸信孝には四国征伐を命じている。また、その他の息子たちにも大事な役目を任せている。

 こうした信長の動きを純粋に「お館様もご一族に真っ当な愛情を示されるようになられた」と捉える向きもあったろう。しかし、それは柴田勝家や丹羽長秀といった織田家譜代のごく限られた重臣だけであったはずだ。というのも、それまで信長が好んで激戦地に送り込んだのは、「中途採用者」であった。言わば使い勝手の良い存在であり、その代表例が明智光秀であり、滝川一益であり、中国攻めを任せられた羽柴秀吉であった。

 「信長様は、我々を使い捨てになさるおつもりでは…」

 今は城や恩賞を充分に与えられていても、それが今後も続くのかは、信長の性格からすれば分からない…。一族重用の動きを見て、聡い秀吉が恐怖心を抱いたのは当然であった。

 また秀吉にとって、信長の恐怖政治は疑問が多かったのではないか。「人たらし」秀吉のマネージメントは下意上達を主とし、部下は自ずと動いた。そんな秀吉からすれば、威圧的に無理やり部下を動かす信長の統治体制は、極めて危うく見えたはずだ。特に本能寺の変直前の信長は、安土城の中に摠見寺という寺を建立し、石ころ(盆山)を信長に見立てて崇めるよう厳命したという逸話も残り、明らかに常軌を逸していた。「俺なら、もっと上手く軍団をまとめられる」。そんな思いを、秀吉は密かに抱いていたかもしれない。

 もちろん秀吉に関しては、光秀が信長に打擲されたというような「不仲」を示す決定的な逸話は残らない。しかし、不満を表に出さず、面従腹背を貫くのもまた、秀吉一流の“したたかさ”であろう。ともあれ、信長・秀吉主従が見かけ以上に不安定な関係だったことは間違いない。

 では、秀吉の軍師を務める官兵衛は、信長をどう見ていたか。実は、官兵衛も秀吉と同じく、いや秀吉以上に、信長の人間性については信用を置いていなかった。

 天正6年(1578)、官兵衛は信長に叛逆した荒木村重を翻意させるべく、単身で有岡城に乗り込んだ。しかし、決死の説得も虚しく土牢に閉じ込められる。幸い1年後に救出されるが、この間、「官兵衛戻らず」の報せを受けた信長は、官兵衛が村重と通じて裏切ったと断じ、人質にとっていた官兵衛の嫡男・松寿丸(後の長政)を殺すよう秀吉に命じた。竹中半兵衛の計らいにより松寿丸の命は助かったものの、救出後に事の顛末を聞いた官兵衛が、涙ながらに半兵衛(官兵衛が囚われている間に病没)に感謝するとともに、信長に対する不信感を大いに募らせたことは言うまでもない。

 そもそも官兵衛は、信長に直接引き立てられた訳ではない。恩義を感じ、忠誠を誓う相手はあくまで秀吉だ。そんな秀吉が、自身も信用を置かない信長を取り除こうと考えたならば…。秀吉に天下を取らせるべく、官兵衛が様々な策を講じた可能性はありえる。

 さらに言えば、当時の秀吉にとって出世争いのライバルともいえる存在が、明智光秀だった。織田家の中で、最初に「一国一城の主」となったのは、坂本城などを拝領した光秀であり、2番目が秀吉であった。2人は境遇も似ており、光秀も秀吉同様「途中入社の外様」でありながら、その才を遺憾なく発揮して家中でのし上がっている。この事実を踏まえると、こうも考えられる。巧妙に光秀に謀叛をけしかければ、成功すれば天下への道が開け、たとえ失敗してもライバルである光秀を蹴落とせる…。切れ者の官兵衛が、そこまで考えを巡らせていなかったと断言できようか。秀吉、そして官兵衛にとって、「事」を起こす動機は十分にあったのだ。
羽柴秀吉の中国大返し



たとえ事変が起きていなくとも…


 ここまで、秀吉・官兵衛主従の「動機」について考察してきた。では、実際に2人が光秀に謀叛を唆した「本能寺の変の黒幕」であった可能性はどれだけあるのか――。史実を突き詰めていけば、物的証拠は皆無であり、「考えにくい」と言わざるをえない。

 一番のネックは、羽柴軍が天正10年3月より備中に出陣している点だ。謀叛という決死の行動を起こす以上、秀吉、官兵衛が光秀と直接綿密に話し合う必要がある。しかし、毛利軍との戦いに忙殺されていた秀吉は、光秀と連携をとれる状況にはなかった。同年正月に安土城で秀吉、光秀ともに信長に呼び集められているが、当時の織田家の焦点は武田氏攻めであり、何よりも信長の膝元で謀叛の話し合いができるとは思えない。書状などで意見を交わした可能性も排除できないが、情報漏洩の危険性などを考えると、そう易々とはやり取りできないだろう。備中高松と京都――現代のように簡単に連絡を取り合えない距離が持つ意味は、極めて大きい。

 しかし、一方で留意しなくてはならないのは、万一、秀吉・官兵衛主従が裏で糸を引いていたとすれば、彼らは物的証拠を残すような間抜けではないという点だ。超一流の忍者は、存在すら相手に知られてはならず、その名は後世に残らない。同様に、秀吉・官兵衛という稀代の主従が一世一代の策を打ったのならば、証拠を残さぬよう徹底的にシミュレーションをしたに違いない。特に、情報通で知られる官兵衛が、後世の我々に簡単に突きとめられるような“ヘマ”をするはずがないだろう。

 また、私かふと夢想してしまうのは、秀吉と官兵衛が本能寺の変の黒幕でなかったとしても、2人はいずれ同じような「凶行」に及んだのではないか、ということだ。

 秀吉と官兵衛にとって信長の存在は日に日に重く、目障りなものとなってきていた。その意味では、たまたま光秀の方が衝突までの「限界点」を早く迎えただけであり、順番が入れ替わっていてもおかしくなかった。

 そして、もし本能寺の変が起きていなければ、ないしは幸運にも信長が難を逃れていれば――私は姫路城が次なる「本能寺の変」の舞台になったのではないか、と想像する。

 中国攻めにあたっていた秀吉は、本能寺の変前に信長に援けを求めており、信長は自ら出陣して総指揮を執ると答えている。本拠を置くとすれば、姫路城の他にない。ここで信長が、例の如く非道ぶりを発揮する可能性は高い。「高松城の城兵を皆殺しにする」「毛利の領土のほとんどを没収する」「従順な対応を見せる小早川隆景は助命しても、反抗的な毛利輝元や吉川元春は処刑する」…。このような非情な「無理難題」は、毛利との間に入る秀吉・官兵衛の立場を無視するものだ。ここに2人が「限界点」を迎えて、何がしかの決意を固める可能性はあっただろう。播磨周辺には、旧荒木家残党、旧別所家残党、旧波多野家残党など信長に恨みを持つ人間が無数にいる。官兵衛が姫路城で好機を見計らい、彼らに強襲するように唆せば…。実行は容易だったはずだ。もちろんその場合は、事変を起こす前に、官兵衛自身が秀吉に「次期天下人」になる覚悟があるか、膝を突き合わせて確認した上でのことであろう。

 誰もが羨むサクセスストーリーを歩んだ秀吉と、それを支えた官兵衛。主君・信長の死までも、その筋書きに入っていたら…。そうした想像の愉しさを与えてくれるのも、また本能寺の変の面白みのひとつかもしれない。

 19276079
著者紹介:童門冬二(どうもん・ふゆじ)、作家。 1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。