戸高一成(呉市海事歴史科学館館長)/上島嘉郎


使われなかった世界一の名刀

 上島 大和ミュージアム(呉市海事科学歴史館)が開館して9年目を迎え、来館者は900万人近いそうですね。地方の都市が運営する博物館としては驚異的な数字です。戦艦大和の10分の1模型が来館者のお目当てだと思いますが、なぜこんなにも「大和」は人気があるのか。百田尚樹さんの『永遠の0』がミリオンセラーになって、映画も大ヒットしましたが、零戦には実際に米軍機を圧倒した輝かしい戦果、栄光があります。坂井三郎、岩本徹三といったエースパイロットの活躍もあった。

 ところが、大和は世界最大最強の戦艦といわれながら、赫々たる戦果はありません。昭和19年10月のレイテ沖海戦でサマール島沖の米護衛空母群に主砲を発射し、それなりの損害を与えたとも言われていますが、これが水上艦船に対する最初で最後の大和の主砲攻撃です。そして翌20年4月、沖縄に向け航空護衛のない海上特攻をして沈められてしまう。零戦と比べて活躍の機会がなかったにもかかわらず、沈没から70年近く経ってもなお、日本人はなぜ大和に強く惹かれるのか。

 戸高 大和には、世界一の名刀なのに有効に使われなかったという可能性への郷愁があるのだと思います。日本人の判官贔屓の心情に合う。判官贔屓の原則は決まっていて、能力のある者がそれを発揮できず悲劇的な末路をたどる、こういう姿に日本人は深い共感と同情心を抱いてきた。歴史上では源義経がそうですね。大変な能力を持ちながらそれを存分に発揮できず悲劇的な最期を遂げた大和もまさにそうです。

 それからもう一つ考えられるのが「大和」という艦名です。軍艦の命名には艦種ごとに基準があって、戦艦は原則として旧国名をつけることになっていました。大和、武蔵、長門、陸奥…。金剛、霧島、榛名といった山岳名の戦艦は、当初巡洋艦として計画された艦なので巡洋艦は山岳名という基準にしたがっています。大和はいまの奈良地方ですが、同時に日本国の総称でもある。武蔵だと関東のローカル名という感じですが、大和になると誰もが「ああ、日本の船」だと感じる。そんな違いもあるでしょう。

 上島 私は、戦艦大和最後の艦長・有賀幸作と同郷(現在の長野県辰野町。有賀は旧朝日村出身)なんです。墓のある見宗寺にお参りしたこともあります。戦後の生まれですから生前の有賀幸作を知っているわけではありませんが、少年時代、有賀も私も通った母校の先生から、郷土の先輩として、責任を全うした立派な軍人というふうに有賀のことを教えられて、その頃から格別な思いを抱いていました。

 有賀は大和の艦長を拝命したときから「戦死」を覚悟していました。沖縄への海上特攻は、護衛戦闘機なしで進撃し、米航空兵力を吸収して味方航空部隊の米艦船攻撃を支援、さらに沖縄西方海面に突入せよ、という命令でした。有賀は、死に場所を得た思いだったでしょう。「一億総特攻のさきがけ」を受け容れて出撃したのですが、大東亜戦争の・決戦兵器・として建造されたはずの大和は、なぜそのとおりに使われなかったのか。これをしっかり考えないと日本海軍失敗の教訓は得られない。
高知県沖で就航前のテスト航行をする戦艦大和=昭和16年10月30日(呉市海事歴史科学館図録から)
 戸高 明治開国以後、日本は帝国主義の荒波に乗り出して行きました。欧米列強と対峙し国の独立を守るためにはどうしても近代的な陸海軍が必要だった。弱小国は強国に蹂躙されても仕方のない時代でした。良い悪いの話ではなく現実がそうだった。西欧近代と遭遇してから、日本は必死でその文明を摂取した。夷を以て夷を制す、ということです。物真似と言われようが紛い物と言われようが、西欧が産み出した文明の利器と同じ物をつくり出す必要があった。そしてそれをやれたアジアの国は日本だけ、有色人種の国の中でも日本しかなかった。

 戦艦大和の建造が極秘理に開始されたのは昭和12年11月です。大正11年のワシントン海軍軍縮条約で対米英六割の戦艦保有に制限された日本海軍は、条約期限切れの昭和12年からその劣勢を挽回するために、まず2隻の巨大戦艦の建造に踏み切り、その一番艦が大和、二番艦が武蔵、次いで三隻目が計画変更され世界最大の空母になった信濃です。設計が開始されたのは起工から3、4年前だから、明治維新から70数年で世界最大最強の戦艦を建造したことになる。これは驚き以外の何ものでもない。

 上島 ペリーの来航が嘉永6年(1853)で、それからほぼ3年後には、日本人は初めて見た文明の利器である蒸気船を外国人の助けを借りずにつくっています。島津斉彬の薩摩藩、鍋島直正の佐賀藩、伊達宗城の伊予宇和島藩の三藩です。

 戸高 先の敗戦までアジアで戦艦を建造できたのは日本だけです。いや現在に至るもオリジナルの戦艦や戦闘機、その時代における第一級の戦艦や戦闘機を全部自前でつくれたのはアジアでは日本だけです。戦前はもちろん戦後の中国にしても、初期はほとんどがソビエトロシアからのライセンス生産です。技術はそれを吸収する側の水準によってその後の展開が決まってくる。それが幕末明治の日本のダイナミズム、面白さのポイントです。戦艦大和も零戦もその延長線上にある。ただそのダイナミズムも、日露戦争に勝って明治末年になると官僚国家の体裁が整ったことが裏目に出るようになります。

 その後の日本海軍は人事と艦隊運用に失敗してしまう。明治時代は目前の困難を乗り切らなければならない状況で、ハードウェアとしての軍艦を導入することに汲々とせざるを得なかった。それは仕方なかったけれど、日露戦争後には艦隊運用のソフトウェアを考えるべきでした。戦闘機や戦艦の「能力」は、カタログデータ(仕様書)のことではない。それを人間が使いこなせること、オペレーションができて初めて能力と呼べる。そのためにソフト面が不可欠ですが、海軍はそれに真剣に取り組むことなく大東亜戦争に突入してしまった。ヨーロッパの海軍が持っていた軍艦を「抑止力」として使うという考え方も薄かった。日露戦争時の秋山真之参謀が上策として語ったのが「戦わずして勝つ」ですが、そのための戦略や外交感覚も身につかず、勝てなくとも負けることもないという「戦争設計」ができなかった。

 上島 大和や武蔵はその存在は秘匿されましたが、時代はまだ大艦巨砲主義でしたから、むしろ世界に公開し、その超絶的な能力を抑止力として使う手はありました。巨大戦艦が時代遅れの「無用の長物」とされるのは、日本軍がマレー沖海戦やインド洋海戦でイギリス艦隊を撃破してからの流れですから、昭和16年なら大和の威力は世界を驚かせるに充分だった。「こんな戦艦と戦うのか」という出血を相手に思わせるだけでも、時間稼ぎや戦意を削ぐことはできたと思います。アメリカも新造艦として戦艦ワシントンが1941年5月、続いてサウスダコタが42年3月、ミズーリが44年6月に戦場に投入されています。日本海軍の戦艦が活躍していないので、戦艦は「無用の長物」とされるけれども、日本の場合は運用が下手だっただけではないかと言える。