【消えた日本人 再発見の旅】

「雪風」艦上、尻を一発

 世界最強と言われた戦艦「大和」が沖縄へ向かう途中、米軍航空機部隊の攻撃により、東シナ海に沈んでから六十年が経った。3330人余の乗員中、生存者は270人余。すでに鬼籍に入った人々も多い。最後の「出港ラッパ」、「対空戦闘用意ラッパ」を吹き鳴らし、「総員退艦」を叫んだ信号兵は今も健在だ。その体験を紹介する。鎮魂と平和への願いを込めて…。

遺書は書かず 古里へ別れも告げず

 昭和20年4月6日夕、日本帝国海軍第二艦隊旗艦、戦艦「大和」は山口・徳山沖を出航した。巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「霞」「初霜」と共に最後方から。前日、沖縄への出撃命令「天一号作戦」が下っていた。任務は「水上特別攻撃隊として沖縄の敵泊地に突入し、所在の敵輸送船団を攻撃撃滅せよ」と明快である。

 ♪タンタンカ ターン

 「出港ラッパ」は高地(たかぢ)俊次さん(80)が吹いた。当時20歳。大和の中枢部「第一艦橋左舷」。航海科信号幹部付。航法の補助を行う「艦位測定補助員」で、航泊日誌を付けていた。ある元海軍兵士は証言する。「出港ラッパも入港ラッパも全く同じメロディーや。けど、聴かされる方は違うんやナ。エッ? そりゃもちろん、出港で泣き、入港ラッパで勇み立つわけや」。

 まして制空権どころか、日本近海奥深く敵潜水艦が入り込む現状。事実上の特攻出撃だった。3330人以上の乗員は、何と聴いたろう。3月29日、大和は静かに呉を出港していた。先立って各分隊の可燃物は陸揚げされた。各自、身の回りを整理し、私物を格納した。

 4月5日夜、皆、酒保から酒を持ち出し、大いに飲んだ。この夜から翌6日、最後の郵便物が出るまで、乗員たちは遺書をしたためることに追われた。海軍少尉、吉田満氏は『戦艦大和ノ最期』(講談社文芸文庫)で「遺書ノ筆ノ進ミ難キヨ サレドワガ書ク一文字ヲモ待チ給ウ人ノ心ニ」と描写している。「頭髪、爪を切って同封する人も多かったですよ」と話す高地さんだが、遺書は書かなかった。

 「わしゃ次男やし、恋人もおらんしネ。それに不沈艦だとはさすがに思わなかったけど三千人が乗っとる。『町がそのまま動いている』わけで、これだけ多人数だと、沈むという感覚はなかなか得られません」



 大和のプラモデルをなでながら、高地さんは淡々と振り返った。和歌山県田辺市の山中(旧・西牟婁郡三栖(みす)村)。書斎前には紀州名産「南高梅」の巨木が何本も広がっている。実が黄ばみ、今や収穫で大忙し。専業農家で3人の子供を育て上げた。スヱ子夫人と共に今でも、農作業用の軽トラックで走り回る。
戦艦大和の模型を前に沈没を語る高地俊次さん

 農家の次男に生まれ、大阪・船場の綿布商店に勤めた。昭和17年、徴用。堺市の金属会社で100キロ爆弾の弾頭を製作した。海軍に志願し18年4月、大竹海兵団に入団。信号員募集に応募した。「当時は徴用された後、志願するケースが多かったですネ」。普通科統制信号術練習生候補として3カ月、新兵教育。同年兵より一月早く一水に進級し、「横須賀航海学校」へ「第十一期普通科信号術練習生」として入校した。

 訓練期間は7月1日から半年間。手旗信号、発光信号、旗●(きりゅう)信号、海軍ラッパ、見張りなどの教育を受けた。「横須賀は初冬、乾燥がきつい。砂埃(ぼこり)で信号の視認など涙交じりやった」。12月、戦艦大和が横須賀港に入港してきた。陸軍将兵、諸物件を搭載、トラック島に向け出航した。高地さんら6人が繰り上げ卒業し、在校生に見送られて乗艦した。

 その夜、いきなり「技量査定」の試験があった。「満点を取りましたけど、海軍は本当に厳しいと思いました」。信号兵一人だけの船もあるが、大和は右舷、左舷共に約20人の大部隊だった。