静岡大名誉教授 小和田哲男

 明智光秀が織田信長誅滅を断行した動機は、いまだに日本史上最大の謎の1つである。謎の解明が困難なのは、光秀関係の史料の多くが抹殺・改竄されてしまったためだ。それほど「主〈しゅう〉殺しの逆臣」という汚名は重いものであった。しかし、残された数少ない史料を読み解き状況証拠を考察することで、光秀の実像は近年徐々に鮮明になり、本能寺の変の動機も、かなり絞られつつある。

なぜ「絶好のチャンス」は生まれたのか


 天正10年(1582)6月1日、申〈さる〉の刻(午後3時から5時ごろ)、居城である丹波・亀山城にいた明智光秀は家臣たちに出陣を命じる。だが、その目的地は明かされない。軍勢が勢揃いした午後8時ごろ、はじめて重臣たちに重大な決意を告げる光秀。重臣たちは驚愕するが、しかし光秀の想いを汲み覚悟を固めた。兵たちには、今日よりして天下様になられる。出世は手柄次第だ。勇み悦べ!」と触れが出され(『川角太閤記』)、全軍京都へ向けて進軍を開始する。明けて6月2日未明、興奮の面持ちで「敵」を取り囲んだ軍勢に、一斉攻撃が下知される。「本能寺の変」の幕が切って落とされたのである。

 いったいなぜ、光秀は織田信長の誅減を断行したのか。日本の歴史を大きく変えたこの事件は、いまだに日本史における最大の謎の1つであり続けている。

 そもそも、明智光秀に関する文書は極めて少ない。長い間、「主殺しの逆臣」というレッテルが貼られてきたために、史料の多くは光秀との関係を隠匿するために抹殺されるか改竄されるかの運命を辿ったからだ。それゆえ現段階で謎を解くには、残された数少ない史料を読み解き、状況証拠を採っていくしか道がないのである。

 まず、「その日」の状況から確認しておこう。信長は博多の豪商・島井宗室を正客に、京都・本能寺で自慢の38種もの名物茶道具を披露した茶会を終えて、僅かな手勢とともに本能寺に滞在していた。一方の光秀は、中国攻めを行なっている羽柴秀吉の援軍を命じられて、およそ1万3千の兵とともに京都にほど近い亀山城(亀岡市)にいた。

 羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益などの織田重臣たちは、各々、京都から遠く離れた前線に張り付いている。徳川家康は同年3月の武田討伐を労う饗応で、安土へ招かれた後、わずかな近臣と堺見物の最中。信長の嫡男・織田信忠は、家康の接待役としてともに堺を見物する予定であったが、信長の上洛を聞いて、当初の予定を変えて数百の手勢とともに京都に滞在していた。

 光秀にとってこれは、信長、信忠父子を一挙に討ち取る絶好のチャンスといってもいい。この状況が生まれたのは、単なる偶然だったのか。それとも誰かが巧妙に仕組んだのか。仕組んだとすれば、誰が、いかなる動機で……。まさに謎が謎を呼ぶのである。

信長時代の本能寺があった場所に置かれた石碑(京都市中京区)



残された史料が語るもの


 残された史料は何を語るのか。かつては「光秀は、積み重なった怨みを晴らすべくしい逆に及んだ」とする「怨恨説」がもっぱら主流であった。まず、それを覆したのが高柳光壽氏である。氏の『明智光秀』(吉川弘文館「人物叢書」1958)は、まさに光秀研究の端緒ともいえるものだった。高柳氏によって光秀に関するある程度確かな史料が集められ、それまでとは異なる光秀像が提示された。そして高柳氏は、それまで有力視されていた怨恨説を1つひとつ否定し、「光秀は天下を狙った」とする「野望説」を唱えたのである。

 この説は大きな反響を呼び、光秀像が塗り替えられていく。しかしその反面、天下を狙ったにしては、本能寺の変後の光秀の行動があまりに無計画ではないか、という意見も出されるようになった。そこで、「光秀は、いまが信長を討つ絶好のチャンスだと知って、突発的に謀反に及んだのではないか」とする「突発説」も唱えられ始める。

 もう1つ、史料研究で画期となったのは、当時、朝廷の周辺にいた人物たちが書いた日記などの分析であった。東大史料編纂所にいた岩沢愿彦 〈よしひこ〉 氏が昭和43年(1968)に「本能寺の変拾遺 ―『日々記』所収天正十年夏記について」という論文を『歴史地理』(吉川弘文館)に発表。勧修寺晴豊の『日々記』がはじめて活字に翻刻された。勧修寺晴豊は、武家を朝廷に取り次ぐ武家伝奏を務めていた公卿で、本能寺の変の前後にも信長や光秀と交流していた人物である。これを契機に『日々記』は多くの人によって読み直されるようになる。

 さらに吉田神道の当主で、朝廷と光秀の取り次ぎ役も務めていた吉田兼見(兼和)の『兼見卿記』の本能寺の変の前後の記録が改竄されていた(追及を恐れて書き直したものと、実際の日記の両方が残っている)ことも広く知られるようになった。これらの史料などから、「公家たちが裏で暗躍していたのでは」という推論がなされるようになっていく。

 碓かに当時、朝廷と信長の間にはさまざまな軋轢があり、信長が朝廷をないがしろにする考えをもっていた可能性がある(これについては、本特集内の別稿で触れる)。ここに注目した議論が「朝廷黒幕(関与)説」である。

 この「朝廷黒幕説」をはじめ、現在ではさまざまな黒幕説が唱えられている。足利義昭が裏で糸を引いていたのではないかとする「足利義昭黒幕説」もある。本能寺の変が起きる直前の5月に、朝廷は信長に対し、征夷大将軍、関白、太政大臣の三職のいずれかに就任してはどうかと持ちかけている(「三職推任」)。信長が征夷大将軍に任ぜられれば、足利義昭の将軍位は名実ともに剥奪されることになる。
 
 それを恐れた義昭が、かつて家臣であった光秀に誘いをかけたのではないかとする見方である。もっとも私自身は、当時の光秀は、義昭から指令を受けて動くような関係ではなかったと思うが……。また、本能寺の変の「受益者」ともいえる、徳川家康や羽柴秀吉を黒幕とする説も根強い。
天王山中腹から古戦場を望む



光秀自身の「動機」の数々とは


 このような「黒幕説」以外に、「光秀単独犯行説」でも、さまざまな要因が挙げられている。最近、注目されることが多いのが、明智光秀と長宗我部元親との関係である。石山合戦が続いていた時期、織田と長宗我部は同盟関係にあった。織田からすれば、石山本願寺を挟み撃ちできる地理関係にある四国の長宗我部との同盟は、有用なものだったのだ。この織田・長宗我部同盟を取り次いでいたのが光秀であった。しかし、本願寺が織田に降伏した翌年に、信長は長宗我部との同盟関係を覆す。阿波を巡って長宗我部と対立していた三好康長に肩入れし、三好の阿波平定を支援する立場に回ったのである。信長は、長宗我部の支配を認めるのは土佐と阿波の一部のみと通告。これに怒った長宗我部元親は織田と断交し、信長は三男の神戸〈かんべ〉信孝(この後、三好康長の養子となる話も進んでいたといわれる)や丹羽長秀らに四国征伐を命じている。光秀の面目は丸つぶれである。

 しかも、三好康長を支援するよう働きかけたのは羽柴秀吉であった。秀吉は甥の秀次を三好康長の養子としていたのである。秀吉とのライバル争いにしのぎを削ってきた光秀としては、到底認められない政策変更だった。この屈辱ゆえに、光秀は謀反に及んだのではないか、と考えられるのだ。

 また、先ほど紹介した「三職推任」で、もし信長が征夷大将軍を受けたら、史上初の「平姓将軍」が誕生することとなる。これは美濃源氏の名門・土岐氏の流れをくむ光秀には到底許せないことだったのではないか、という見方もできる。

 さらに、秀吉とのライバル争いに疲れたのではないかとも考えられる。信長家臣団の中で、最初に「一国一城の主」になったのは、坂本城とその周辺の滋賀郡をもらった光秀であり、2番目が秀吉であった。以後も両者は出世競争のデッドヒートを繰り広げていた。

 天正9年(1581)2月に、信長は京都で織田軍団を総動員した大規模な馬揃え(軍事パレード)を行なうが、この責任者として指名されたのが光秀であった。大軍を差配できる立場に立った光秀は、得意の絶頂だったはずである。しかしその後の四国政策の転換や、秀吉の中国攻めへの援軍命令は、一度は「秀吉に勝った」と思っていた光秀に、深い失望感を味わわせることになる。これが謀反の1つの引き金になったとする見方だ。

本能寺と光秀の謎を解く鍵


 もちろん、原因は複合的に絡まりあっているはずだ。いままで紹介してきたもの以外にも、理由はさまざま考えられよう。だが、そのうち、明らかに実像からかけ離れるものもあるはずだ。それを突き止めるためには、明智光秀の人となりを知らねばならない。冒頭で述べたとおり、長らく「謀反人」とされてきた光秀の史料は極めて少ないが、それでも少しずつ見えてきた部分はある。

 まず光秀の出生である。これも霧の中だが、しかし、京都で禁裏御倉職を務めていた立入、<たてり>宗継が残した「立入左京亮入道隆佐記」(「立入宗継記」)という史料に、明智光秀は「美濃国住人とき(土岐)の随分衆なり」という記述が見られ、やはり美濃源氏の土岐氏の流れをくむ人間だと考えるべきであろう。

 私は、光秀は岐阜県可児市広見・瀬間の明智城(別名・長山<おさやま>城)に生まれたのではないかと考える。美濃の守護の土岐頼芸<ときよりなり>は斎藤道三によって追放されるが、明智光秀につながる家系は道三側に付いたと思われる。史料の信憑性を精査する必要はあるものの、「明智氏一族宮城家相伝系図書」という家系図には、光秀の叔母にあたる女性が斎藤道三に嫁いだという記述がある。その縁もあって道三側に付き従った明智家は、道三と対立した斎藤義龍に攻められ、明智城は落城し、光秀も美濃を追われることになったのではないか。

 このような出自の光秀は、おそらく禅僧の教えなどを小さい頃から受けて、教養を高めていったのだろう。じつは、有名な禅僧である快川紹喜<かいせんじょうき>(妙心寺43世に就任し、のちに武田信玄に招かれて恵林寺に入寺)は、明智一族の出身ともいわれる。

 さらに光秀は各地を転々としながら武者修行を重ね、越前一乗谷の朝倉家への任官に成功したと思われる。そしてこの越前で、その後、朝倉家を頼って落ち延びてきた足利義昭や細川藤孝と懇意になるのである。ここで光秀は、朝倉義景に覇気がないことから朝倉家を見限り、当時、日の出の勢いであった織田信長のもとに足利義昭を連れて行ったのであろう。光秀は美濃出身であるし、先の系図が正しければ、信長の正室の濃姫とはいとこの関係になるので、当然、信長についての情報は入っていたと思われるからである。

 信長は早速、足利義昭を奉じて上洛する。その後すぐ、光秀は京都奉行の役割を担い、これを見事に勤め上げているから、やはりかなり高い教養と実力を身に付けていたものと思われる。さらに吉田兼見や、勧修寺晴豊などの公家との接触の中で、朝廷サイドの情報は光秀には随分入っていただろう。

 謀反人とされた光秀の業績はいくつも消されているが、秀吉の大手柄として名高い「金ヶ崎退き口」もその1つである。じつは光秀も秀吉とともに殿軍<しんがり>を務めていたとする記録が残る(波多野秀治宛一色藤長書状)。また、従来説とは異なり、「叡山焼き討ち」でむしろ主導的な役割を演じていたことも明らかになっている。光秀が坂本城を賜ったのは、この功績によってのことであった。

 さらに光秀は、丹波平定を成功させた恩賞として丹波一国を与えられる。京都ののど元ともいえる丹波と坂本の両方を領国として押さえ、近畿一円を管轄する「近畿管領」のような立場に立つのである。

 このような人物が、たとえば神経衰弱や将来不安のノイローゼなどといった原因で、謀反を起こすことが考えられるだろうか。

 もう1つ、考えておかなければならないことがある。それは、光秀の領国であった坂本や丹波の亀岡、福知山などの土地で、いまだに光秀を慕う伝承が残っていることである。光秀の領国統治は、たかだか数年程度のものである。しかも、長らく「謀反人」とされてきた人物への尊崇が、なぜいまだに続いているのか。そこにも、本能寺と光秀の謎を解く鍵が隠されていると、私には思えてならない。

 本能寺の変がなければ、日本の歴史はまったく違うものとなっていたはずである。この事件がなければ、日本はどう変わっていたのか。さらに、光秀はいったい何を考えていたのか……。この謎の扉を少しばかり開くだけで、日本史の真髄と、その面白さが飛び出してくるのである。