佐藤優(作家、元外務省主任分析官)

 ナショナリズムは、現代における宗教の機能を果たす。自らが所属する民族のために命をささげることは崇高な行為と受け止められる。ただし、ここに落とし穴がある。民族のために自らの命を捨てる覚悟をした人は、躊躇(ちゅうちょ)せずに他者の命を奪う傾向があるからだ。そして、ナショナリズムとテロリズムが結びつくと厄介なことになる。素直に言うが、韓国でナショナリズムとテロリズムが結びつき始めている。

襲われた駐韓米大使


 5日朝、韓国のソウルで、リッパート駐韓米大使が、「愛国者」を自称する男に斬りつけられるテロ事件が発生した。この事件について、産経新聞社の藤本欣也支局長はこう報じた。

 <リッパート米大使襲撃事件を受けて、大統領府の金寛鎮(キム・グァンジン)国家安全保障室長が5日、国家安保会議を緊急開催、今後の対策と対応を協議した。李完九(イ・ワング)首相は関係当局に対し、米国など各国の大使館・施設の警備と要人の警護に万全を期すよう指示した。

 聯合ニュースによると、「主要外交官に対する深刻な襲撃事件でテロ行為ともいえる」(検察関係者)との判断から、捜査指揮はソウル中央地検の公安1部が担当。キム・ギジョン容疑者の犯行動機のほか、共犯者の有無など背後関係について捜査を進めている。

 キム容疑者は2010年、日本大使にコンクリート片を投げつけた前科があるにもかかわらず、今回、米国大使に近づくことができた。

 捜査当局の発表によると、キム容疑者は政治団体代表としてこの日の朝食会が開かれるとの案内を受けていたほか、米国大使館から警備要請がなかったとしている。だが、ただでさえ米韓関係がぎくしゃくする中、米要人への襲撃を防げなかったのは韓国当局の失態であり、責任問題に発展するのは避けられない>(3月5日「産経ニュース」)

リッパート駐韓米国大使が出席した会合の主催団体が入るビルの前で、
抗議集会をする保守団体メンバー=3月5日、ソウル(共同)
 キム容疑者は、要人テロを行う可能性がある要注意人物だ。韓国の警察力は強い。このような要注意人物を24時間、完全監視下に置いて事件の発生を防ぐことは、韓国警察の能力にかんがみれば、可能である。しかし、韓国はそれをしなかった。外交官、とりわけ特命全権大使は国家を人格的に体現する。駐米大使に対するテロ防止について、韓国当局の対応に不作為があったことは間違いない。

 ただし、今回の事件は、精神に変調を来した人による突発的な事件ではないと思う。韓国では最近、反米機運が急速に高まっている。そのきっかけになったのが、2月27日のシャーマン米国務次官(政治担当)の発言だ。<シャーマン氏は特定の国を名指しせずに「国家主義的な感情が依然、利用されている」とし、政治指導者がかつての敵を中傷することで国民の歓心を買うことがないように求めた>(2月28日「産経ニュース」)。この発言は、日中韓3国の指導者に対して向けられているにもかかわらず、韓国の政府もマスメディアも、シャーマン次官が日本寄りの立場から韓国を批判したと曲解し激高した。このような、事実を事実として客観的に認識できない韓国の政治的空気が、リッパート大使に対するテロ事件が発生する背景にあったのだと思う。

 韓国では、ナショナリズムがテロリズムと結びつき始めている。産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が、朴槿惠大統領に対する名誉毀損(きそん)容疑で在宅起訴され、いまだに韓国からの出国を認められない状態もソフト・テロリズムだ。このようなテロリズムを許す空気が韓国人の集合的無意識を支配している。無意識のうちにある集団がとっている行動を変化させるのは至難の業だ。韓国のナショナリズムが危険水域に入っていることを、われわれは冷静に認識しなくてはならない。