武田徹(ジャーナリスト)

 3月11日が近づくにつれ、メディアでは東日本大震災関係ものが増えてゆく。その中で、やはり大震災絡みではあったが、残念なニュースがひとつ流れた。

 宮城県南三陸町の臨時災害ラジオ局「FMみなさん」の活動を取り上げ、大手広告代理店の博報堂社員である梅村太郎氏らが製作したドキュメンタリー映画『ガレキとラジオ』に、「やらせ」があったと分かったのだ。

映画『ガレキとラジオ』 
 2014年3月6日の朝日新聞報道によると、問題になったのは娘と孫を津波で失った70代の女性が登場するシーン。女性は「いつも(FMみなさんを)聴いている」「音がないと寂しい」と語るのだが、彼女が暮らす仮設住宅には、実はFMみなさんの電波が届いていなかった。当然、ラジオは聴いていなかったのだが、撮影班は事前に女性にせりふを細かく指示したのだという。女性は映画公開後に、製作者の求めに応じて演技をしてしまったことに罪悪感を抱き、苦しんでいるとも報じられた。

 『ガレキとラジオ』は劇場での一般公開後も評判を呼び、有志団体による上映会が続けられていた。この報道があった後、製作者側は上映団体に中止を要請したと伝えられている。

 この事件の核心にあるのは、ドキュメンタリーにおける演出の問題だ。梅村監督自身は朝日新聞の取材に対し、録音をCDで聴いてもらっていたので「広い意味でリスナーだと考え」、ラジカセでCDの録音を流してあたかもラジオを聞いているように見せたと説明している。しかしその論法は通じなかった。ドキュメンタリーに演出は許されない、それはやらせに他ならないと考える人が多数であり、結果として映画は先の上映中止にまで追い込まれた。

 とはいえ、ドキュメンタリーにおけるやらせと演出の関係は、実はそう簡単に割り切れるものではない。世界最初のドキュメンタリー映画と呼ばれる作品はロバート・フラハティが北極海に暮らすイヌイットを取り上げた『極北のナヌーク』だといわれる。しかし、その作品には実は多くの演出があった。イヌイットが住むイグルーと呼ばれる家は狭く、暗くて、当時のカメラでは撮影ができなかった。そこで撮影用に特大のイグルーを作り、しかもその屋根を半分壊して、太陽光が入るようにした。

 この演出は許されないことなのか。実はイヌイットのナヌーク一家はフラハティと強い信頼関係で結ばれており、氷点下になる屋根のないイグルーの中で凍えつつも、それを感じさせずにいつも通りの生活をしてみせてくれた。結果として彼らの日常生活のありのままが映像には残されたのだ。

 そんなフラハティが一方で絶対に許容しない演出もあった。フラハティの作品は後にやらせとは異なる文脈で批判を受ける。イギリスの映画監督グリアスンは、『極北のナヌーク』には搾取されるイヌイットへの視点が存在していないと述べた。グリアスンにとって、ドキュメンタリーとは社会問題を告発するものでなければならなかった。

 フラハティのドキュメンタリー観はそれとは違っていた。自らも優れたドキュメンタリー映画監督であった佐藤真は著書『ドキュメンタリー映画の地平』で、「フラハティが最も忌み嫌っていたのは社会的問題や現実批判の道具として映画の主人公たちの人生を解説したり断罪すること」だったと書く。登場人物を自分たちの主張に合わせて都合よく利用することこそ広義の演出であり、彼はそれを許さなかった。こうして登場人物と対等の関係を結ぶフラハティだからこそ、ナヌーク一家の信頼を得たのだ。

 『ガレキとラジオ』の演出を批判する場合にも、こうしたやらせと演出の一筋縄でゆかない関係を意識すべきだ。製作スタッフは、手作りラジオ局が悪戦苦闘しつつも地域を支えている姿に本気で感動し、それを広く伝えようとしたのだろう。見ればそれがよく分かる作品であった。

 だが感動的な作品を作るという構えの中で、無意識だったにしろ被写体を道具として使ってしまったのではないか。だからこそ登場する女性の気持ちの機微に配慮が行き届かず、傷つけてしまった。だとすれば、その不備こそまず批判されるべきだ。その先に、演出=やらせと短絡させずに、ドキュメンタリー映画における演出の問題を丁寧に考えてゆく必要があるのだと思う。(ジャーナリスト・武田徹)