0.前提

 マスコミでは、来る5月17日に、大阪都構想の賛否を問う住民投票が行われると報道されることが多い。だが、この表現は極めて不正確である。実際に行われるのは、「大都市地域における特別区の設置に関する法律」に基づき、大阪市だけが関わる住民投票だからである。この法律は、市町村合併の反対のことをする手続きを定めた規定だと考えれば理解しやすいだろう。すわなち、小さな市町村が合併して大きな都市を作るのとは反対に、大きな都市を解体して小さな特別区に分割する際の手続きとして、住民投票の実施が定められているのである。

 5月17日に行われる住民投票もまた、大阪市を5つの特別区に分割するか否を大阪市民にのみ問うものに過ぎず、大阪都なるものとは全く無関係なのである。もちろん、投票の結果がどうであれ大阪府は大阪府のままであり、大阪都ができるわけではないし、大阪市民以外の大阪府民には投票権があるわけでもない。堺市もまた、現行の指定都市(政令指定都市)のままである。投票するのは大阪市民だけなのだから、あまりにも当然であろう。
日本維新の会の党大会後、記者会見に臨む橋下徹氏
=2014年2月

 それにも関わらず、大阪市長たる橋下徹氏は、これらの事実を積極的に市民に伝える説明責任を果たさず、大阪都という用語を使い続けている。市民に正確な情報に基づく判断を仰ぐことが目的ではなく、ただ住民投票で過半数を取ることだけが目的だからである。百歩譲っても、全く短所のない完璧な政策など存在しえない以上、大阪市長たる者は、その短所や難点も含めて市民に説明すべきであろう。しかしながら、橋下氏は、欠点や問題点の指摘に耳を傾けるどころか、逆に批判者を「バカ学者」や「インチキジャーナリスト」と呼ばわりして撥ね付けるのだ。だが、寄せられた批判に丁寧に答えないような態度は、市民に対する説明責任の放棄ですらある。

 こうした橋下氏の言動は、今に始まったことではない。本稿では、一人の大阪市民の眼差しを通して、そのことを明らかにしたいと思う。

1.全ては8年前から見えていた


 2007年5月、タレント弁護士と呼ばれていた橋下徹氏は、自らが出演するテレビ番組内で、光市母子殺害事件の弁護団への懲戒請求を行うよう視聴者に強く呼びかけた。その結果、各地の弁護士会に懲戒請求書が殺到したのだが、この件で懲戒処分を受けた弁護士は一人もいなかった。これに対して、懲戒請求の対象とされ弁護士のうちの4人が、同年9月、業務を妨害されたとして橋下氏を相手に損害賠償訴訟を起こすことなる。その後、一審と二審は橋下氏に対する賠償責任が認めたのであるが、2011年7月15日、最高裁判所は原告の賠償請求を退け、橋下氏の逆転勝訴とする判決を言い渡した。注目すべきは、この最高裁判決に対する橋下氏の反応である。それについて、同日の産経ニュースは次のように報じていた。

 大阪府知事の橋下徹氏は……「ありがたい。きちんと判断していただいた。やっぱり最後に頼れるのは最高裁」と話した。……「長い裁判で、知事になってからも自分で書面を書いてきたが、僕は弁護士に向いているのかもしれない。国民の皆さんには、制度を正しく活用していただきたい」と余裕もみせた。


 なるほど、形式的には、橋下氏の勝訴であるには違いない。だが、最高裁判所が「きちんと判断」した中身は、被告(橋下氏)が「弁護士であることを考慮すると」、その言動は「慎重な配慮を欠いた軽卒な行為」であり、「発言の措辞にも不適切な点」があるというものであった。最高裁の判決は、弁護士たる橋下氏の行為に正当性を認めたわけではなく、ただ単に、それによって「金銭で償わなければならないほどの損害」が生じたか否かを基準に下されたに過ぎない。それでも、橋下氏は「僕は弁護士に向いている」と自賛したのだ。弁護士としては「軽卒」で、その発言は「不適切」だと指弾されたにも関わらず、である。ここにこそ、橋下徹氏という人物を理解する第一の鍵がある。

 橋下氏が求めたのは、勝つことだけであった。彼の辞書には、正義や名誉や尊厳といった文字はない。ただ勝ちさえすればいいのであって、自己の行為が真に正当であったか否かなど、全く意に介さないのだ。むしろ、どれほど自分の側の非が指摘されようとも、それでも裁判には勝ったということが、逆に彼をして「僕は弁護士に向いている」と言わしめたのであろう。自分は、非のある側を勝たせるほどの力量を持つ弁護士だというわけである。

 この事例にも表れているように、勝ち負けに対する橋下氏のこだわりは、生半可なものではない。おそらく、橋下氏を訴えた弁護士たちの主目的は、金銭を得ることではなかったはずである。なので、もし橋下氏が自らの軽率な行為や不適切な発言について真摯に謝罪していれば、訴訟を起こされることもなかったであろうし、「長い裁判」に煩わされることも避けられたに違いない。さらに言えば、自らの過失を認めて潔く謝罪する態度は決して非難や嘲笑を呼ぶものではないだろうし、少なくとも最高裁から「軽率」や「不適切」といった烙印を押されるよりは、ずっとましであったはずである。だが、橋下氏には、そんな選択肢など存在しない。他者から責任を追及されると、逆に猛反撃の牙を向けるのだ。彼にとって、謝罪は負けに他ならないのだろう。だからこそ、どれだけの時間や労力を費やそうとも、何が何でも勝つことで、過大とも見える自尊心を護ろうとするのである。