アンチ橋下徹市長の人たちというのは、心優しい人と思う。弱者への想像力に長け、「頑張ってもできない」ことに寛容で、文化を愛し、成功者の裏で泣く人たちに手を差し伸べる、そういうやさしいヒト。そういえば、私の母の友人で関西在住の学者のおばさまも、彼の文楽「つまらない」発言について憤り嘆いておられたのだが、彼女も花と森を愛する優しいおばさまだった。

 で、私はというと大して文化的教養もないし優しくもないので、彼自身の存在が嘆かわしいとかは別に思わない。旧態依然としたものに対する彼の物言いについては、たまに清々しさすら感じる。たまにだけど。反面、なんだか時々たしかに彼の発言の端々には物悲しさを感じるのだが、それは超高年収の外資系金融マンだった元カレの振る舞いに感じていたものにすごく似ている。私は彼の合理的で効率的な動きも電卓を叩く手がものすごく早いところにも惚れていた気がするが、ちょっとしたTVドラマについての感想や三面記事的なものへのコメントに苛立つことが増えていった。結局、「それ意味あるの?」が口癖だったそのオトコとは、1年もたたずに別れた。

 2013年に彼の慰安婦問題についての発言に、世間の一部やインテリ女性軍団が怒りに震えていた頃、或いは朝日新聞の慰安婦特集に彼がどや顔でコメントしていた時、私は私で、ことセックスに関してはちょっとでも既存の物言いに逆らったようなことを言うとものすごい反発があるのだ、ということを体感していたこともあり、彼の言い回しはともかく、ちょっとした親近感をもって見ていた。セックス的なものを過剰にデリケートに扱う流れには違和感があったし、彼の疑問はそれが「過剰にデリケートなもの」に対して発せられたものでなければ、真っ当な気もした。

 かと言って私は別に遠いところから心のなかで彼を擁護する気もおきなかったし、朝日新聞を批判して目立ってみようとか微塵も思わなかった。というのは売春でも性奴隷でもなんでも、女性のモノ化の現場というのは、強制への圧力と本人による選択というのが複雑に絡まり合っていると強く信じる私にとって、彼の立場も旧朝日的な立場も、切り取り方によっては全く真実に見えるのであって、強制性の有無をあえて焦点化することはあまりスマートな議論だとは思わないからだ。強制する圧力が必ずあったと言えば、絶対に選択の余地もあったはずだという反論を許容するし、本人たちの意志であったと言えば、いや必ず強制する空気が存在したと突っ込まれる。

 逆に大阪都構想初期段階の時に、平松邦夫市長(当時)の陰口を言う彼の姿はオンナから見るととても醜かった。ちょうど、新潟県の泉田裕彦知事が新潟州構想を打ち出して、都構想に歩み寄るように見えた頃である。平松市長と言えば、元アナウンサーの笑顔がダンディーな市民の人気者である。彼の市政改革に強いインパクトや斬新さがあったかどうかはさておき、「首長に必要なハートのあるひとです」とは大阪在住の他社の記者さんの意見だった。私は別に大阪市民でもないけど、橋下徹知事(当時)が泉田知事の州構想を評価する際に、篠田昭新潟市長との協調を「羨ましい」として、「こちらは何も変えたくないという人が相手ですから」と言い捨てる姿に嫌悪感があった。
大阪府・大阪市特別区設置協議会で反対する
委員の意見に答える橋下市長
=13日午後、大阪市中央区の大阪府庁
 別に平松市長だって、何も変えたくないとは思っていないだろうし、パフォーマティブに革新を唱える際に、別の論理を小馬鹿にするようなところは、前出の元カレの「それ意味あるの?」に匹敵するつまらなさを感じたからだと思う。府立施設の見直しの際に、児童館のデザインを担当した漫画家の松本零士氏を前に、大げさな溜息をついている姿もまた、嫌いなパフォーマンスだった。

 彼の考え方自体は別にものすごく嫌われるものばかりではないだろう。ただ、基本的に彼のパフォーマンスというのは良識的な人間の鼻につくし、時には良識的でない私の鼻にすらつく。それは、実は石原慎太郎元東京都知事と対極にある。石原氏の考え方は偏見と差別と偏屈のハイブリッドだが、彼の立ち振舞やオーラは、同意しない人間たちにすらなんとなくウケる。別に橋下氏が特別性格が悪くて、石原氏が超人格者というわけであるはずもないので、何かしらの見え方の問題なのであろう。

 私の新聞記者時代の彼についての思い出と言えば、私が霞ヶ関周辺にいた2010~2011年、つまり大阪府知事時代のものがひとつふたつあるくらいだ。首相官邸で開かれた知事会議の場で、昼食休憩時間中に、お弁当を食べる彼の姿が妙に美しかったのはよく覚えている。知事会といえば、各都道府県を背負った首脳が一堂に会するため、それぞれのキャラクターと県の色との一致やギャップが記者同士のおしゃべりのネタになったりするのだが、隣に座っていた他社の先輩が、「猪瀬直樹東京都副知事(当時)は食べるのが早い」とか「京都の山田啓二知事はさすが上品だ」とか言っていたので、私もつられて知事たちの弁当をつつく姿をじろじろ見ていた。

 さすが都道府県トップだからなのかどうかは分からないが、どの知事も別に汚い食べ方をしていたり、ぼろぼろこぼして口を開けて噛んだりしていたわけではないが、橋下氏の食べ姿は際立って綺麗だった。顔を一切弁当に近づけず、弁当の端を軽く抑えて、他の知事たちと談笑しながらも、時々箸で食べ物を運ぶ。かといって別に女々しくはなく、品位ある男性社会人の鏡みたいだった。私の中に週刊朝日的な差別意識があったとは認めないが、それでもあまりに美しい食べ姿はなんとなく意外に思ったのを覚えている。

 彼のそういう食べ方が綺麗なところとか、笑い姿が上品なところとか、そのうちのどれだけが元々彼の中にあるもので、どれだけが彼が意識的に身につけたものなのかは私にはわからない。けれども、誰より綺麗に食べる橋下徹氏を見ていて、私は彼が勝ち取ってきたもの、そしてその勝ち取った過程に思いを馳せた。自称論理的な外資系金融マンみたいなつまらなさはあっても、彼に、持たざるものへの想像力がないわけはないと思った。そして、実は「品位がない」とか「性格が悪い」とか言って彼のことをあたまから嫌うヒトって、弱者に対する想像力がある優しい人っていうよりも、弱者が弱者のままでいてくれないと困る冷たい人なんじゃないかなともちょっと思った。