新井克弥(関東学院大学文学部教授)

 テレビをめぐっては、一定の間隔で「ヤラセ」問題が発生する。古くは1985年、「アフタヌーンショー」(テレ朝)で暴走族が少女をリンチした事件のヤラセや、2007年、「発掘!あるある大事典」(関西テレビ)での納豆データのねつ造、そして今年の「ほこ×たて」(フジテレビ)のスナイパーVSラジコンカー勝負の結果改ざんなど。これらのヤラセが明らかになった場合には番組のスポンサーが降りたり、番組を打ち切ったりといった対応が行われてきた。

 でも、なぜ、いつまでたっても番組のヤラセはなくならないのだろうか?メディア論的に考えた場合、これは二つの要因が考えられる。一つは制作側の問題、もうひとつは番組を制作する社会的文脈の問題だ。それぞれについて考えてみよう。

業績原理に追われ、基準を喪失する


 先ず制作側の問題。これは搾取の構造になっている点が問題だろう。制作自体は基本下請けの制作会社が行っている。ここでは制作費が大幅にカットされており、また制作日数もタイト。そういったなかで業績原理に基づいて制作会社は番組を制作しなければならない。で、当然、限られた予算と期日の範囲でよりオモシロイ、いいかえれば視聴率を稼げるコンテンツを作成することを余儀なくされる。こうなると「よい作品を作る」ではなく「とにかくウケりゃなんでもいい」みたいな心性が制作側に根付いてくる。しかも、忙殺されているがゆえに無意識のうちにこの感覚が定着する。そこで、ちょっと演出を踏み越えてヤラセの領域に手を伸ばす。そして、これがウケると、今度はこれを「やってもいい」ということになってしまう。

 そう判断するのは自分、つまり制作会社のスタッフ自身なのだが、業績原理に振り回されているので、評価されたことがOKのサインとなり、以降における演出のデフォルト的な立ち位置になってしまうのだ。当然、ここで演出は一線を越え、ヤラセモードに突入する。そして、これがウケれば、さらにどんどんとヤラセの水準はアップしていき、気がつけばトンデモナイ領域に。いや、厳密には「気づく」ことはない。ズレていることの感覚は麻痺しているので、気づくのは、ヤラセが露呈して番組が打ち切られるときなのだから。ちょっと制作側を擁護するみたいな言い方になるが(もちろん、決して擁護できるものではないけれど)、ブラック企業で働いていたら、だんだん倫理基準がおかしくなっていってしまうのとほとんど同じ構造だろう(現在、テレビのコンテンツがこの「負のスパイラル」に陥っているように思えるのだけれど)。

ヤラセは社会的文脈によって規定される


 もうひとつの社会的文脈の方だが、これは「演出―ヤラセ」という基準が社会的レベルでどんどんずれていくことによる。つまりかつては演出の領域だったものが、今やヤラセになってしまう社会状況が作られることで発生するというものだ。

 そもそも演出―ヤラセという分類はきわめて恣意的なものと考えてよい。この線引きは社会的コードによってもたらされるからだ。かつてだったらヤラセとして大騒ぎになりそうな演出が堂々となされた例、しかもNHKがやった例があるのでこれをちょっとこれを取り上げたい。

 番組は10月24日の「ニュースウオッチ9」。番組内ではウルトラマンの未公開映像が発見されたと言うことで、その特集が10分間近くにわたって組まれた。ゲスト出演はなんとウルトラマン。アンカーの大越健介とアシスタントアナウンサーの井上あさひが、くそ真面目な顔でウルトラマンにこの映像の状況についてインタビューする。井上が質問すると、ウルトラマンが応える返事はシュワッチとかだけ(あたりまえだが)。ところが、このシュワッチを大越が翻訳するのだ。そして肝腎の映像の特集が組まれた後、再びスタジオが映されるのだが、そこには肝腎のウルトラマンがいない。これに大越は「ウルトラマンさんは地球上に3分間しかいられないために、すでにお帰りになりました」と説明した。そして論評抜きでコーナーは終了、何事もなかったかのように次のコーナーに移っていったのだった。

 ようするに、これは完全にヤラセである。架空の人物?にインタビューして、全て嘘で固めたのだから(未公開映像についてはもちろんヤラセではない)。だが、これはオモシロイというか、実にオシャレと解釈される。こんなおふざけを「皆様のNHK」がやった、しかも報道番組の中でなんてのは、20年前だったら言語道断でクレームの電話がバンバン来たのではなかろうか。ところが、そうならないどころか、かえって絶賛されたのである。そう、これはミエミエのヤラセであるという文脈が共有されているからこそ許されることなのだ。だから、このヤラセはヤラセでなく演出になる。

 一方、微妙だった例を挙げてみよう。これは1996年、日テレが放送していた番組「進め!電波少年」の中の「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅」というコーナーでの出来事。猿岩石という若手お笑いコンビ(一人は有吉弘行)がヒッチハイクのみで香港からロンドンまで旅をしたのだが、この旅の行程に疑義が投げかけられた。猿岩石はタイからミャンマーを抜けバングラディシュに抜け、さらにインドに向かったことになっているのだが、ミャンマーとバングラディッシュの国境は開いていないので、実際にはこれは不可能。ところがちゃんとインドまでたどり着いていたことにクレームがついたのだ。つまりヒッチハイクをしていない。

 実際、猿岩石はここでは飛行機で移動しており、後にそのことが公表された(結局、飛行機はその他を含めると三回利用されている)。ただし、その時、プロデューサーの土屋敏男は完全に開き直った?コメントをしている。それは「バラエティなんだから」という発言。つまり「誰もドキュメント=ノンフィクションとは言っていない」と主張。日本テレビ氏家齊一郎社長(当時)も「(バラエティという)番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメントした。

 これは、はっきり言って電波少年側の理屈がまったくもって筋が通っているのだが、社会的コードに抵触したため、それでも多くの非難を受けたのだった(とはいうものの、この後の特番で二人が飛行機乗り込む映像を流したりするという過激なこともやっていたが)。

結局「演出」と「ヤラセ」はどこで線が引けるのか


 結局のところ演出とヤラセの線引きは社会的コードからどの程度逸脱しているかによって決定すると言っていいだろう。つまり、それがウソであろうがなかろうが、そのことを視聴者側が肯定してしまっているものについては「演出」、そうでないものは「ヤラセ」に振られていく。だからこそ、きわめて曖昧、恣意的なものなのだ。

 逆を言えば制作側としてはこの社会的コードが読めていないといけないということでもある。たとえば「電波少年」のように筋を通したとしても、許されないという文脈が世論を形成してしまうこともある。

 ひょっとして、もし「ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅」が今放送されていたとしたら、大バッシングを食らって番組打ち切りなんてことになっているかも知れない。現代は、それくらいイメージが優先する時代なのだから。その半面、ウルトラマンやミッキー、ガチャピンは完全なヤラセであるにもかかわらず、事実=演出として受け入れられてもいる。そう、こちらもまたイメージが優先する時代のたまものなのだ。虚実ない交ぜの中で演出とヤラセが偶有するのが現代のメディアなのである。

 で、僕らとしてはどういうスタンスでこういったコンテンツを見るべきなのか?この答えは意外と簡単だ。全て「ヤラセ」として見ればよいのである。演出などしたつもりのない報道であったとしても、だ。そう、僕らにはこういったメディア・リテラシーが要求される時代なのだ。コンテンツというものはすべからく虚構であるという視点、重要なのではなかろうか。