「表現の自由」をめぐって


 ここのところ国内外で「表現の自由」に関する事件が続きました。フランスの「シャルリー・エブド誌」の風刺画に端を発するテロ事件。その後、パリにおける大規模デモになった「表現の自由を守れ」という人々の反応。国内ではろくでなし子氏の女性器モチーフの作品群が、わいせつ物とみなされ罪に問われました。また先日は、道路標識に「アート目的だ」とステッカーを貼り逮捕される人が出ました。ここで、アートや自己表現と社会についてもう一度考えてみたいと思います。

 自己表現と法規制という問題には必ず「アート活動なのに政治(権力)がそれを封じ込めて規制するのはおかしい。」という論調が多く見られます。その考えは基本的にまちがってはいませんが、そもそも両者の性質をちゃんと知らないと、単純に「声なき市民の自由vs政治権力という巨悪」という、お花畑モードになりがちです。

解釈は永遠に一本化しない


大阪市内でシールを貼られた一方通行の道路標識
 さて、アートというものは六法全書と違い、見ていても楽しいし色彩も豊かで、こういうものを法で規制されるとなんとなく自分の楽しみが阻害された気分になります。しかし、一般的にアートは作家個人の自己表現ですので、みんなの気持ちの総意でもなければ民主的に作られたものでもありません。むしろいつまでたっても理解されないところにその魅力があったりもします。ゆえにアートはどんな解釈をしようと自由です。作者本人の解釈だってそれだけが正しいとは言えないものです。永遠に一本化した解釈に達しないからアートなのです。

 対して、法というものは別に法務省の偉い人が創った自己表現作品でもなければ、時の権力が「みんなの好きに解釈していいよ」と作った福利厚生でもありません。アート作品のように解釈の多様化などをゆるしていたら、法治国家など成立しません。

 無限の解釈の上に成立するコンテンツ(=アート)は多様な解釈をその運用上、許容しないコンテンツ(=法律)に基づいた社会で作られています。今、ちょっとややこしい言い方をしましたが、アートの創造性と解釈は無限だけどその製作環境は有限だということです。「表現の自由」とはここを理解してからスタートする問題だと思います。

才能以外に覚悟のいるもの


 ろくでなし子氏の作品群を好きか嫌いかは別として、個人的にはあれが「わいせつ」だとは私は思えません。思えませんが法律上、女性器を見せるのはわいせつだからダメということになっています。そういう製作環境下であえてその作品を出したのですから逮捕されても「自分の法解釈ではOK」にはなりません。アートだから何をやっても自由なのではなく、アートはどんな解釈も自由ですから、「あれはわいせつ物だ。」という解釈もありです。たまたま日本の法律だとそう解釈されるので逮捕されます。アートとは才能以外に覚悟のいるものなのです。

 ですから「アート活動ですから。」と言って、道路標識に勝手にステッカーを貼れば、当然これも「違法」という解釈をされます。「じゃあ、何も創造できないよね!」と諦めるのなら、アーティストとしてそれまでのことです。法はそのように解釈をしてくるのだから、自分はどう作品で戦うかをアーティストは考え、逮捕され続けてもデコった女性器を作る価値のある作家になるのか、または法律の解釈のさらに上をいくものを創るのか。アーティストの創造性が試されるのはそこだと思います。