[WEDGE REPORT]トヨタが本気の理由 水素社会の未来は不透明(後篇)(前篇はこちら)

安井至

水素の製造、運搬方法等で、燃料電池車のCO2排出量は大きく変わる。一連のエネルギー効率に目を向けるべきである。

「水しか排出しない究極のエコカー」、といった記述に出会うことが多くなった。トヨタが水素燃料電池車(Fuel Cell Vehicle、以下FCV)「MIRAI」を2014年12月15日から670万円+税で発売すると発表して以来のことである。
MIRAIBLOOMBERG/GETTY IMAGES
世界初の量産燃料電池車「MIRAI」(BLOOMBERG/GETTY IMAGES)
 当初1台1億円以上と言われていたFCVが、この価格まで下がったのは驚くべきことである。大容量の発電機を搭載した電気自動車(EV)とも言える車なので、EVの最大の難点である充電時間の長さを完全に克服しており、ガソリン車なみに約3分間で燃料(水素)を満タンにすることができるという高い実用性を備えている。

 しかも、災害時には電力が供給できる非常用電源車としての機能があるので、通常の家庭であれば、一週間以上の電気が使えるだろう。日本での究極的自己防衛に適合した車とも言えそうであり、将来の主流になる可能性を秘めている。

 まず、この車の走行時に「水しか排出しない」ことが一つの究極であることは認めよう。環境上、極めて優れているからである。これは、FCVが水素をエネルギー源として使用しているから得られる特性である。ガソリン車では、いくらクリーンな排気を目指しても、その燃焼時にでるCO2をゼロにすることは不可能である。

 しかし、「走行時には」という条件がついている。環境負荷を考えるときには、まず境界条件を設定するが、FCVの場合少しだけ視野を広げて、燃料になる水素はどうやって作るのか、と問われた途端に、非常に多くのことを考えることになる。

 水素をどのように作るか。これは、多種多様な方法がある。しかし、ここでは説明を省略したい。その代わりとして、いくつかの方法で作った水素でFCVを走らせたときに、走行1kmあたりでどのぐらいのCO2が出ることになるか、その比較を図に示した。
 ちなみに、Well to Wheelとは、ガソリンの場合であれば「油井」から汲み上げる段階から、車の「車輪」を動かすところまでの全段階を意味する言葉である。ガソリン以外でも、すべての負荷を考えていることを意味する。

 最もCO2排出量が少ないケースが、太陽光発電由来の電力でEVを走らせる場合で、1kmあたりのCO2排出量は非常に少なく、1グラム程度ということになる。これに対し、最も多いケースが、ガソリン車のケースで147グラムのCO2排出である。ハイブリッド車であれば95グラムとやや少ない。

 そして、肝心のFCVであるが、太陽光発電での電力を使って、水を電気分解して得た水素を使えば14グラム/kmである。すなわち、FCVの環境負荷は現在のガソリン車の1/10になる。これは、本質的な改善だと表現しても良いだろう。

 しかしFCVも、都市ガスを水素ステーションにて改質した水素を使えば79グラムのCO2を排出し、天然ガスを水素ステーション以外で改質し、液化して輸送してきた場合には、111グラムのCO2を排出することになる。

 なぜこのような差が生まれるのか。まず、この地球に住む限り受け入れなければならない事実がある。エネルギーの源には、(1)化石燃料、(2)原子力、(3)自然エネルギーの3種類しかないことである。

 これらを「一次エネルギー」と呼ぶことになっている。一次エネルギーを大別すれば2種類あって、一つは、地球が蓄積している化石燃料と核燃料(原子力)である。これらは地下を掘ることによって、得ることができる。もう一つは太陽が毎日毎日与えてくれる自然エネルギーである。

 さて、水素は一次エネルギーには入っていない。なぜなら、地球をいくら掘っても出てこないためである。ごく最近、「東芝が人工光合成の変換効率1.5%を達成」というニュースがあった。これは、太陽光を直接水素に転換する試みである。しかし、まだ実用レベルには程遠い。現状では、化石燃料から水素を作るか、自然エネルギーか原子力で発電をして、水を電気分解する方法のいずれかを使うことになる。しかし、3種の一次エネルギーは欠陥だらけなので、環境負荷やリスクなどを作りだしてしまう。

軽すぎる水素がうむエネルギー負荷


 将来重要な役割を果たす水素ではあるが、「軽すぎる」ことが弱点である。 ガソリンとその軽さを比較してみよう。1リットルのガソリンは、35,000kjという熱を出す。この熱で40℃のお湯を400リットルほど得ることができる。熱効率を考えれば、お風呂1回分ぐらいである。一方、水素1リットルの発熱量は、たったの11.7kjである。40℃のお湯130ml程度に相当するので、コップ1杯分沸かすことができないことを意味する。

 「軽すぎる」ことが問題になるのは、「運搬」と「貯蔵」をするときである。すなわち、水素をどうやってFCVに搭載するかが大問題だった。この問題の解決法は、700気圧という高圧にして、カーボンファイバー強化プラスチックのタンクに入れるという方法である。700気圧とは、良く見かける産業用の高圧ボンベは150気圧なので、その5倍に近い圧力である。

 水素ステーションでは、水素をさらに高圧にしてFCVに供給することになる。MIRAIが満タンになるだけの水素を700気圧以上にするためには、多くの電力が必要で、それは同クラスのEVを100~150km走らせる電力量に相当する。

 液化すればその体積は、ガソリンの3.5倍程度で収まる。しかし、液体水素はマイナス252.6℃で沸騰してしまう。気体に戻った水素は処分をしなければならない。結論として、自動車に液体水素を搭載することは不可能である。単に駐車しているときにも燃料が失われる上に、もし、マンションの地下駐車場であれば、放出した水素が天井付近に溜まって大爆発を起こす可能性が大だからである。

 個人的には、化石燃料の実体は「地球を破滅させる悪魔」だと称している。地球の大気は人類が出すCO2のゴミ捨て場になっている。東京都の場合、廃棄物は焼却され、焼却灰は東京湾の中央防波堤最終処分地に埋め立てられるが、その容量には限界がある。今のペースでは、数十年後には廃棄物を出すことができなくなる。

 14年11月に発表されたIPCCの第5次評価統合報告書によれば、産業革命時点からの温度上昇を2℃とか3℃に決めれば、それによって排出できるCO2の量が決まってしまう。もしその限界に到達すれば、それ以後、CO2を排出できない、と記述されている。

 すなわち、大気も実は廃棄物処分場と似ているということを意味する。仮に2℃上昇までと決めると、世界全体で現在の排出量を全く増やさないという不可能な仮定をしても、35~40年後には、CO2排出量をゼロにしなければならない。現状でも、異常気象は確実に増えているが、2℃上昇であっても、将来の異常度は想定を超えることだろう。となると化石燃料は、35~40年後にはそのままでは全く使えないと考えるべきなのだろう。

 代替案のひとつである原子力は、「暴力的人物」である。余りにも大量のエネルギーを取り扱うことができるために、きっかけがあれば暴力的被害をもたらすからである。

 また、自然エネルギーは、「気まぐれな浪費家」である。その気まぐれに対応するためには、かなりのお金を貢がなければならない。水素は、この「気まぐれ」を抑える切り札になるかもしれないと期待されているのである。

 FCVは、どのようにして作られた水素を搭載するかによって、理想のエコカーにもなり得る一方で、最悪の環境破壊車にもなり得る。理想的、かつ、そのうち現実になると期待される水素は、メガソーラーや風力発電の不安定な電力だけで水素を製造し、圧縮し、そして、供給する水素ステーションで作られたものである。これが可能になれば、EVなみのCO2排出量になる。一方、最悪の水素は、石炭発電の電力で製造された水素で、260グラム/km程度のCO2排出量になり、現状のガソリン車の2倍もの環境負荷になる。その他の水素は、この両者の中間のものになる。

 となると、どのような水素であるかを明示することを義務化することによって、はじめて、理想が達成できることになる。それには、カーボンフットプリントという仕組みがある。商品の一生で排出されるCO2量を表示する仕組みではあるが、この表示を強制すべき最初の商品が水素ということになるのではないだろうか。

 さて、「今、このFCVを買うか」と聞かれたら、まずは、水素ステーションが整備されることが大前提であるので、今すぐということではなさそうである。また、上述のカーボンフットプリントが制度化されることも条件に思える。

 文頭に述べた非常用電源車としてのFCVの機能はかなり魅力的である。個人として所有している車はプリウスPHVであるが、この車を選択した理由の一つが、実は、非常用電源車であった。12年にニューヨーク市を襲ったハリケーン・サンディは大停電をもたらした。その際、プリウスにオプションのAC100V1500W出力を搭載した車は、タンク2/3のガソリンで、1週間電気が使えたという報道があった。

 しかし、将来の環境負荷低減のさらなる向上には期待しているものの、当面供給されるであろう水素は、図に示されているオンサイト都市ガス改質か、オフサイト天然ガス改質によるものになるだろうから、ハイブリッドなどの現行車より決定的に良くはならない。結論としては、「しばらく様子を見る」ということになりそうである。