テレビ朝日「報道ステーション」で、古舘伊知郎キャスターとコメンテーターの古賀茂明さんが、番組内で「バトル」を繰り広げたことが、大きな話題になった。ツイッターでは江川紹子さんや竹田圭吾さんが批判的見解を表明し、わたしもそれに賛同した。それに対して、藤原新也さんはご自身のブログ「Catwalk」で、降板騒ぎが起きてから古賀さんと数日間いっしょだったという知人から、江川、竹田、有田は「情けない」と電話で言われたと紹介した。藤原さんは古賀さんが官邸などの圧力があったことを示す根拠が弱いことを指摘しながら、「この古賀の発言を“私憤”と一蹴して、せっかくの問題提起を葬り去る動きは同意できかねる。なぜなら私はあれは公憤に見えたからである」と書いた。誤解のないように藤原さんの全文を読んでいただきたい。

 なぜわたしは古賀茂明さんの言動に強い違和感を感じたのか。個人的なテレビ経験からそう思ったのだ。地下鉄サリン事件が起き、オウム真理教が強制捜査を受けた1995年3月22日から、「ザ・ワイド」(日本テレビ系)が番組を終了する2007年9月28日まで、わたしは12年半にわたって、テレビに出演していた。とくに「ザ・ワイド」は、1993年の統一教会問題からの付き合いで、地下鉄サリン事件以降は、月曜から金曜までレギュラーで出演していた。キャスターの草野仁さんからは、人間的な挙措についてだけでなく、テレビ番組のありように関しても多くのことを教えられた。

 「わたしたちの仕事は日雇いのようなものですよ」

 草野さんが番組の合間に何度かわたしにこう語ったことは印象的だった。キャスターには年間契約があるが、基本的にはテレビ局の意向が最優先される。もう必要ないと判断されれば番組は終わるだけだ。ましてやコメンテーターに契約などなかった。そうした意味で「日雇い」仕事なのである。橋下徹さんが弁護士として「行列のできる法律相談」などに出演して活躍していたときのことだ。ある日、「ザ・ワイド」にコメンテーターとして出演したことがあった。ところが橋下さんが「ザ・ワイド」に登場することは二度となかった。何か発言に問題があったということではない。番組としてさらに出演していただく必要はないと判断しただけのことだった。テレビ番組とはそういうものなのだ。

 ましてや番組の改編期に、ゲストコメンテーターの変更があるのは当り前のことだ。草野仁さんとの想い出でいえば、番組には草野さんとは国家観の異なるコメンテーターも出演していた。草野さんに思うところもあっただろうと推測したものだ。わたしとてイラク戦争当時は、草野さんとは意見を異にしていた。それでも自分の見解を表明するときに、草野さんをストレートに批判するようなコメントはいっさいしなかった。

 視聴者はスタジオでバトルが行われれば画面に食い入るだろう。激論は「面白い」からだ。「ザ・ワイド」でもディレクターやプロデューサーから、スタジオでの「異論反論」といった見せ場としての議論を求められたこともある。しかし「ザ・ワイド」の場合は、「主張のある番組」を視聴者に届けたいという草野さんの強い思いがあった。では、なぜバトルを避けたのか。それは基本的スタンスとして番組を守らなければならなかったからだ。

 「ザ・ワイド」はオウム特番で36・7パーセントという驚くべき視聴率をあげたこともある。現場ディレクターやリポーターの地道で精力的な取材をもとに、整理された素材をスタジオで調理し、視聴者に問題のありかを伝えていった。いわば草野仁さんを司令塔とする総力戦だった。多くの関係者が番組に愛情を感じていただろう。番組を継続させるのは、視聴者に対する責任でもあった。

 わたしは古賀茂明さんが、問われてもいないご自身の降板について、ルールを壊してまで語り出す姿を見て、まず思ったことは、スタッフが可哀相だなということだった。生放送とは「干物」ではなく「生もの」だ。そうである以上、日々さまざまな問題が生じる。「報道ステーション」とて問題が山積しているだろう。それは現場スタッフがいちばんわかっていることだ。究極の問題は「報道ステーション」が続いた方がいいのか、それとも無くなった方がいいのかである。

 「わが亡きあとに洪水は来たれ」――古賀さんの暴発は、番組に対する建設的批判などではなく、ごくごく個人的な、しかも確たる根拠も示すことのない、憶測による発言であり、番組とスタッフへの思いやりをまったく感じさせなかった。

 中東問題を問われて、個人的な降板について語るべきではなかった。それを前提として、番組の別の局面で語る機会があったとしても、官邸などからの圧力があって古賀さんが降板されたのならば、それは明確な根拠を持って発言するべきだった。それが公共放送でコメントする者の最低限の責任である。藤原新也さんの指摘するように、古賀さんが「私憤」ではなく「公憤」で発言したのなら、そこには番組スタッフの「良識派」を鼓舞激励するような方法を取るべきだった。

 おそらく民放キー局は古賀さんを生番組で起用することを今後は避けるだろう。古賀さんのようなキャリアを持ったすぐれたコメンテーターが、テレビ番組には必要だ。どうして「戦略的撤退」を甘んじて引き受けることができなかったのだろうか。わたしがツイッターで「もったいない」と書いたのは、そうした思いからだった。「公憤」ではないなどと言うつもりはない。「私憤」に見えてしまうだけでも古賀さんだけでなく、番組とスタッフを深く傷つけてしまったのではないだろうか。

 自民党は昨年11月26日付で、「報道ステーション」あてに「中立」を要請する文書を福井照・報道局長名で出した。そこには衆院解散後の昨年11月24日の放送が「アベノミクスの効果が大企業や富裕層のみに及び、それ以外の国民には及んでいないかのごとく断定する内容」と批判し、「意見が対立している問題については、多くの角度から論点を明らかにしなければならないとされている放送法4条4号の規定に照らし、同番組の編集及びスタジオの解説は十分な意を尽くしているとは言えない」とあった。

 個別番組に対する要請はきわめて異例である。自民党には「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」とする放送法第3条などまったく視野にない。ここに自民党=安倍政権の強権的驕りがある。安倍晋三という政治家が番組内容にまで立ち入ることがあることは、これまでにもNHKに対して抗議したことなどでもよく知られていることだ。総理となったいま、安倍氏の意向はさまざまな回路で行使されているだろう。NHKでも深化している「忖度政治」が生まれる根拠である。視えるものもあれば視えないものもある。だからこそ「報道ステーション」をふくめて、テレビ局のスタッフは、萎縮することなく、政治からの介入に対して、硬軟取り混ぜて効果的に、断固として闘っていかなければならない。

 「蛇のように聡く、鳩のように柔和に」(聖書)。