正論2005年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代[終戦編]」より再録
※肩書、年齢等は当時のまま
中曽根康弘(元首相)

 中曽根康弘元首相は大正、昭和、平成の三時代を生き、先の大戦に出征し、敗戦を体験、その後の日本の復興に政治家として尽くされた。最後の「首相らしい首相」と評される。その中曽根氏に、終戦時を中心とした自らの体験と、戦後六十年を振り返っての感想を率直に語ってもらった。
 (聞き手/産経新聞正論調査室次長 奥村茂)


海軍主計中尉として参戦


 ――中曽根元首相は昭和十五年(一九四〇年)に高等文官試験に合格し、内務省採用が決まっていました。それがあえて海軍を志された動機はどこにあったのですか。

 中曽根 東大法学部にいる頃から、自分は将来どういう人生を送ろうかと考えていました。しかし、次第に時局が切迫してきて、やはり大事なのは日本の統治、国政の問題だと思いました。そのためには高等文官試験に合格した上で国政に参画し、影響を及ぼし得る役職に就こうと決意しました。大蔵省か内務省かの選択では、当時の内務省には総合国策を推進するうえで非常に大きな権限がありましたので内務省を選びました。

 海軍へ行った理由は当時、当然徴兵検査、軍務というコースがありました。海軍は臨戦態勢を覚悟したのでしょう。主計官を大幅増員しなければ間に合わないと、二年現役の主計科士官制度を作って募集していました。陸軍へ行って二等兵から始めるよりも、主計科士官になればすぐ主計中尉でしたから海軍を受けた。幸い合格して、四カ月間東京・築地の海軍経理学校で訓練を受け、十六年(一九四一年)八月半ばに連合艦隊に配置されて、巡洋艦「青葉」の乗組員として赴任しました。

 ――海軍軍人になってどうでしたか。

 中曽根 「青葉」に乗り組んでからは、駆逐艦隊を引き連れて敵の戦艦を攻撃する猛訓練を土佐沖へ出て行いました。それが終わると大分県の佐伯湾に来て休養してまた出ていくという繰り返しでした。艦にはガン・ルーム(青年士官室)というのがありまして、その長が海軍大尉の星野文三郎さんという通信長でした。兵学校出の少・中尉、われわれ大学出の二年現役主計、あるいは軍医の部屋を取り仕切っていました。この星野さんが十月頃でしたか、訓練が終わった後、甲板にデッキチェアを出してみんなを休ませていた。そのときに「いよいよ戦争だ」と言明しました。
戦災で焦土と化した東京。日本橋上空から、本所方面をのぞむ
 そのとき、私は戦争のような大きな問題を急いで決断すべきでない、と言いました。ドイツのヒットラーは、当時ソ連に深入りして戦っており、まだ勝つか負けるか必ずしも決定していませんでした。ソ連はいつもモスクワまで退却して迎え撃ち、ナポレオンを破った歴史がありますから、独ソ戦の将来はまだ決断できない、もう少し情勢を見たほうがいい、と言ったのです。青年士官室内が「もう戦いだ」と極めて士気高揚していたときに、このようなひんやりした発言をしたものですから(笑い)、星野さんも「いや、もう石油は六百万トンしかない。今やらなければ石油がなくなってしまって戦いができなくなる」ということを言いました。それで、今度来た主計中尉には変なやつがいるという風評が艦内に一時立ったそうです。兵学校出のみなさんから見ればそう思ったのでしょう。

 その星野文三郎さんは、私が昭和四十五年(一九七〇年)に防衛庁長官になったとき、自衛艦隊司令官になってた。それで横須賀へ私が巡視に行ったときに自衛艦隊司令官として拝謁にきました。

 ――奇遇ですね。

 中曽根 妙にこそばゆい感じがしました(笑い)。しかし、星野さんは非常に立派な軍人でした。

 ――日本に燃料が少ないということを海軍はわかっていた。にもかかわらず戦争に突き進んで行った。それが戦争だといえば戦争なんでしょうけれども、もう少し冷静に考え、対応できなかったのでしょうか。

 中曽根 そこが大学出の士官と兵学校でみっちり教育を受けた士官とには、ある程度の格差はあったのですね。しかし、いったん戦争になったら格差はまったくなくなりました。みんな一生懸命、国のために働いたということです。

 ――実際に砲弾が飛び交う中での経験はありましたか。

 中曽根 私は開戦の直前、設営隊主計長に転勤を命ぜられました。つまり飛行場は壊されてるし、地雷がたくさん埋められている。そのため敵前上陸して敵の飛行場を奪取し、修復して味方の零戦が三日以内に飛べるように直す。零戦がきたら一週間後には中型陸攻(海軍の爆撃機)を飛ばせるようにして南下して行く。そういう部隊の主計長に任ぜられて、呉で十一月二十日頃から約九日間、二千人の徴用工員を死にもの狂いで編成し、戦争機材を輸送船に積み込む指揮をしました。もう戦争だということははっきりしている。