正論2005年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代[終戦編]」より再録
※肩書、年齢等は当時のまま

国際社会に「誠」を求め続けた御心



中西輝政(京都大学教授)

「歴史」の記述が初めて可能になる時代


 今年八月十五日、日本は戦後六十年という大きな節目を迎える。そこでわれわれに求められるのは、単に数字上の節目なのではなく、先の大戦の歴史を客観的に記述できる画期的な時代を日本がようやく迎えたという意識である。

 大戦の歴史を客観的に記述することが可能になった要因は、いくつかある。第一に、ひとつの出来事を本当の意味での「歴史」として把握するためには、六十年(五十年―七十年という幅で考えてもよい)という期間が必要だということだ。これは歴史研究の要諦でもあるが、戦争や革命といった大きな政治的、歴史的変動を経験した当の世代には、回想録は書けても客観的な歴史は書けない。戦争や革命といった巨大な出来事は、それに関係した全ての人の精神構造に甚大な影響と極端な先入観を与えずにはおかない。事実を見る眼だけでなく、事実を選択する基準、それを評価する価値観にいたるまで、多かれ少なかれ歪んだ目と個人的感情に左右されるのはむしろ当然とさえ言ってよい。

 彼らにも、それぞれが「目の前で見た個々の事実」の記録は多少は書き残せるであろう。しかし、それは本当の「歴史」ではない。個々の事実の選択とその積み重なり、さらにその出来事の背景や影響までが、あくまで「別の時代の出来事」として記述されて初めて本当の「歴史」となるのである。

「歴史」をそのようなものとして捉えれば、ある事件を直接経験した人間がそれを「歴史」としては記述できないことは、一つの事件や紛争をめぐる裁判で利害関係者が裁判官となることが禁じられていることを想起すれば容易に理解できる。

 先の大戦についても、当時生きていた全ての日本人が、濃淡の差があるにせよ何らかの「個人的な思い」を抱いている。さらに、戦争や革命といった決定的な出来事については、その「個人的な思い」に過剰な影響を受けた次の世代にも本当の「歴史」は書けない。その意味で、敢えて言えば、いわゆる〝歴史の風化〟という現象は、まことに好ましいことなのである。たとえば、「あのような悲惨な体験は二度と繰り返してはならない」というメッセージが如実に伝わってくるような「現代史」は、歴史ではない。それがどれだけ尊い平和への思いであっても主観に過ぎないからである。言ってみればそれは歴史ではなく、一つの文学、思想という領域に関わるものなのである。

 われわれ日本人は特に先の大戦に関しては、この、歴史は誰が書いたのかという点をきちんと検証しないまま議論してきた。そもそも戦争終結直後に出来上がった歴史観が正確であろうはずがない。それはいくら良く言っても「新日本をつくる」ための歴史観だったのである。つまり団塊の世代前後の日本人は、終戦から間もない頃に学校で習った歴史観が正しいと現在も信じているが、彼らが学んだものはまったくのところ歴史とは呼べないものであった。同時代の出来事から性急に教訓を得よう―しかも多くの場合、そこには明確な政治的な目的があった―という前提から出発した歴史観、あるいは、外国占領軍が強大な権力によって押し付けた日本断罪のための歴史観に過ぎなかったのである。

「還暦」という言葉があるように、あれから六十年が過ぎ、あの時代を直接経験した人々とその影響を過剰に受けた世代が社会の一線からじょじょに退場していく時期を迎えて初めて、本当の「歴史」が現れてくるのである。歴史は世代によって書かれるものなのである。

 第二に、今ようやく先の大戦を世界史的な視点で見ることが可能になったということである。

 先の大戦は、第一次世界大戦とロシア革命によって生まれた共産主義対自由主義という世界史の流れが作り出した大きな構図の中で起きた事件であった。ところが、ベルリンの壁が崩壊して東西冷戦が終わるまで(さらに言えば今後、中国の共産主義体制が終焉を迎えるまで)、そのような見方に基づいて第二次大戦を議論することが本当のところ不可能であった。どのような歴史観論争も、結局は共産主義対自由主義・反共主義という同時代の決定的な思想的対立構造の中で行わざるをえなかったからである。共産主義の息の根が止まりつつある現在になって初めて、われわれは、その枠から解き放たれ、あの戦争を世界史の大きな流れの中に位置づけて見ることがようやくできるようになったのである。

 第三の要因は、あの大戦に関して、戦勝国の側でこれまで極めて厳重に秘匿されてきた資料が、六十年ぶりに初めて公開されつつあることである。世界情勢の変化、政治家の世代交代、あるいはロシアのように体制が変わり、情報を秘匿する必要がなくなったことにより、新資料が次々と今、ラッシュのように公開され始めた(中国における北京政権の崩壊は一層重要な史実を明らかにすることであろう)。

 そうした新資料の中には、あの戦争の意味が、従来の常識から一八〇度変わってしまうほどの驚愕すべき事実が記されたものが、かなり存在することが分かっている。しかしそのごく一部が新聞などで報道されることはあっても、日本では、それらを基にした歴史書はまだ書かれていない。この国では、先入観に合致しない新史料は無視してしまう世代の研究者がいまだに支配的だからだが、これまでの歴史観を自由な視点で省みる必要に世界で最も迫られているはずの日本において、これらの新史料の動向に対する関心が極めて低いのは大いに気になるところである。
昭和20(1945)年6月1日の第2回大阪大空襲で、大阪市内を爆撃する米第21爆撃軍団の戦略爆撃機B29。写真下には、中之島や大阪城がはっきりと見える(米陸軍航空隊撮影)

 たとえば、この数年アメリカで公開された「Venona(ヴェノナ)文書」と呼ばれる新史料から、ルーズベルト政権では大量のソ連工作員が要職に就き、対日政策に決定的影響を与えたことが明らかになりつつあるし、ロシアでの公開史料からは、張鼓峰事件(一九三八年)やノモンハン事件(一九三九年)ではソ連側にむしろ責任があったことが、この一、二年で明らかになりつつある。これで少なくとも「東京裁判」の訴因のいくつかは明確に崩れることになる。そもそも「東京裁判」についてはすでに、海外での諸研究によって、国際法上不法・不当な欠陥裁判であり、現在の国際戦争裁判の前例にはなり得ないという国際的コンセンサスができている。にもかかわらず、日本ではそうした研究に基づく著作はほとんど紹介されず、いわんや新史料に基づく研究書はほとんど出版されていない。

 このような状態で、現在、首相の靖国神社参拝をめぐり、まことに拙劣な〝歴史論争〟が続いていることは、寒心に堪えない。しかし、前述の通り、歴史観の決定的転機が必然的に始まる「六十年」の周期が到来している。いずれ、遠からず日本人の歴史観は大きく変わっていくことになろう。しかし、ここで一つだけ、是非とも明確にしておかなければならない大戦史をめぐる重要な論点がある。それは、昭和天皇と大戦をめぐる歴史である。そこには、近年「逆流」といってもよい、由々しい傾向が日本国内に広がりつつあるように見えるからである。その最近での例の一つは、今年五月八日にフジテレビ系列で放送された「報道2001」での民主党元代表、菅直人氏の発言である。

 日中両国間の歴史認識摩擦をテーマとした同番組で菅氏は、「日本自身が、日本の負ける戦争をやった責任を何一つ問わなかった。昭和天皇は責任をとって退位されるべきだった」と述べたのである。

 六十年目の八月十五日を迎えるに当たり、昭和天皇と戦争の問題は、われわれの世代の目で改めて検証しておく必要がある。それを考えることは実は、日本という国のアイデンティティ、そして皇室という存在のありようが表面上大きく変化した時代しか知らない世代が、逆に誤って〝新しい視点〟の陥穽に落ち込む危険を避けることにもつながる。さらにはそこから、昭和天皇だけではなく明治天皇以来、この国が国際社会の中で歩んできた道筋、世界と日本の関わりを、皇室の伝統を通じて「日本」を考える大切な視点として次の世代に受け渡していく必要があるからである。そしてそれは、混迷の度を深める国際社会における日本の行き方にも大きな指針を与えてくれるであろう。

 ここでは、敢えて『昭和天皇独白録』(以下『独白録』、文春文庫)から、あの厳しい時代を生きた昭和天皇の世界観、国際政治観を読み解いてみたい。というのは、この書をもって、今日一部に、東京裁判に際して昭和天皇の戦争責任を回避するための弁明を専ら目的としたもの、と決めつける見方が広がっており、これが冷戦後崩壊した社会主義イデオロギーの代替イデオロギーとしての戦争糾弾史観と合流する傾向すら見られるからである。

 なお『独白録』は、昭和二十一年三月から四月にかけ、松平慶民宮内大臣ら側近五人が、一九二八年(昭和三年)の張作霖爆死事件から終戦にいたるまでの経緯を四日間五回にわたって昭和天皇から直接聞いてまとめたもので、五人のうちの一人、寺崎英成御用掛が遺した文書類を調べた遺族らの手によって世に出ている(初出は『文藝春秋』一九九〇年十二月号)。このことから考えると、『独白録』には確かに東京裁判を意識してまとめられている側面はあったかもしれない。しかし、その観点からは逆に不利になるような述懐が余りに多く、何よりも昭和天皇の肉声が伝わるような「本音」が実に率直に語られている第一級の史料なのである。


君臨すれども命令できず



 まず、戦前の日本の国家体制を確認しておきたい。天皇の政治的役割については、『独白録』で注釈者の半藤一利氏(昭和史研究家)が補注した木戸幸一内大臣の東京裁判での証言が簡潔かつ的確に言い表している。

《国務大臣の輔弼によって、国家の意志ははじめて完成するので、輔弼とともに御裁可はある。そこで陛下としては、いろいろ(事前には)御注意とか御戒告とかを遊ばすが、一度政府で決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の日本の天皇の態度である。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、いわば慣習法である》(57頁)

 この点は、昭和天皇に憲法についてご進講した清水澄の講義録(『法制・帝国憲法』)にも「もし天皇が、国務大臣の輔弼なくして、大権を行使せらるることあらば、帝国憲法の正条に照らして、畏れながら違法の御所為と申し上ぐるの外なし」とされており、内閣の決定を天皇が拒否する、あるいは裁可しないということは憲法上あり得なかったのである。この意味で、戦前の日本の「主権者」は内閣なのであり、これが明治天皇以来、一貫した日本の立憲君主制の内実だったのである。

 これは立憲君主制の国家ならどこも同じであり、イギリス国王も政治には基本的に関与しないけれども、内閣に対して「質問」と「助言」をすることができる「クエッション・アンド・アドバイス」という権利が憲法で認められている。

 つまり、国民の君主に対する大きな尊敬と信頼に応えるという意味で、政治が一定の範囲から道を踏み外したりしないよう、憲法の枠内において配慮する責任を君主が負うことを認め、かつ求めるのが立憲君主制であって、現代の象徴天皇制も基本精神においては同じである。でなければ、およそいかなる君主制も成立し得ないからである。憲法上、日本と比べはるかに大きな政治的機能を君主に与えているデンマークやタイの王制も基本においては同様である。

 戦後の日本では、天皇はたとえいかなる形でも一切政治に関わってはならない、というのが憲法上また民主政治の上から厳格に定められている、という誤った解釈がまかり通っているが、同じ発想で戦前の天皇は絶対最高の権力者であり、「全てが思うままになった」という非常に粗野な理解に基づく歴史教育が行われ、いまだに大きな影響力をもっている。天皇の「戦争責任」を主張する左翼勢力の典型的な議論も、「終戦は天皇が裁断を下した。天皇のいわば鶴の一声で、戦争は終わった。ならば開戦時も始めさせないという形で、独裁権を発揮できたはずだ」というものであるが、これも戦前の国家体制について余りに歪んだ理解をしていると言わざるを得ない。

 確かに終戦時と二・二六事件に際して昭和天皇は自ら決断され、その判断が国家意思とされた。しかし、この二つのケースは、日本の内閣の意思、つまり政府が実質的に存在しなかった、あるいは機能しなくなっていたから、憲法に従って天皇の裁断が行われた特殊な事例であり、憲法上もまったく問題なかったのである。
両国駅上空から南方向を撮影した写真(中央は隅田川)。終戦直後に米軍が撮影した東京(左、東京大空襲・戦災資料センター提供)は、空襲で焼け野原となり、幹線道路が露わになっている。一方で現在の東京(右、本社チャーターヘリから、松本健吾撮影)は、ビルが林立し見事な復興を遂げている

 いわゆる終戦の「聖断」は、八月九日深夜から十日未明にかけての御前会議で下された。ソ連参戦を受けて九日午前から開かれた最高戦争指導会議、さらに午後から夜にかけて二度にわたって開かれた閣議でもポツダム宣言を受諾するか否か結論は出なかった。議論が持ち越された御前会議も二時間半が経っても結論が出ず、内閣総理大臣の鈴木貫太郎が、内閣は機能しなくなったから「天皇の御裁可をお願いいたします」と申し出てご裁断を仰いだのである。つまり、戦争終結か継続か「全てを天皇に委ねる」ということが、内閣の決定だったのである。

 これに対して開戦時は、天皇のご裁断を仰ぐという内閣の決定はなかった。対米開戦を辞さぬとした「帝国国策遂行要領」を決定した昭和十六年九月六日の御前会議では、あらゆる証拠から見て対米開戦反対の避戦論者であった昭和天皇にとって、明治天皇の「四方(よも)の海 みなはらから(同胞)と思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」との御製を二度にわたって読み上げるのが精一杯の「抵抗」であった。さらに事実上開戦を決定した同年十一月五日、最終決定をした十二月一日のいずれの御前会議でも、「開戦」が内閣の決定事項として諮られたのであり、天皇がそれを拒否されたら、憲法を無視した「上からのクーデター」となり、明治天皇以来の日本の国家体制の根底を揺るがすような事態になっていたのである。

 当時を振り返った『独白録』の記述には、こうある。

《(高松)宮は、それなら今(開戦を)止めてはどうかと云ふから、私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東条(英機首相)は辞職し、大きな「(下からの)クーデタ」が起り、却て滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと思ひ、戦争を止める事に付ては、返事をしなかつた。/十二月一日に、閣僚と統帥部との合同御前会議が開かれ、戦争に決定した、その時は反対しても無駄だと思つたから、一言も云はなかつた》(89頁)※( )内は筆者註。

 このように、昭和天皇ご自身も「君臨すれども命令できず」という日本型民主主義、あるいは君主国体下の民主主義という政体を遵守されていたことは疑問の余地がない。

 一方、昭和十一年の二・二六事件で昭和天皇は、『木戸幸一日記』によれば、「今回のことは精神の如何を問はず甚だ不本意なり。国体の精華を傷(きずつ)くるものと認む」「速やかに暴徒を鎮圧せよ、秩序回復する迄職務に励精すべし」と機能を停止していた内閣を飛び越え、後藤文夫臨時首相代理に直接下命された。

 つまりこの時、岡田啓介首相が首相官邸で反乱軍に襲われて「行方不明」となり、一時は「死亡」したと伝えられた(実は官邸の地下に隠れて無事だった)ほか、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長も重傷を負って、内閣はもちろん政府全体がまったく機能しなくなっていた。つまりこの時の天皇の「討伐命令」も決して憲法を無視した決定ではなかったのである。