正論2005年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代[終戦編]」より再録
※肩書、年齢等は当時のまま


小堀桂一郎(東京大学名誉教授)


(一)終戦の日付


 普通「終戦の詔書」と呼ばれてゐるのは昭和二十年八月十四日の日付を有し、翌八月十五日正午に昭和天皇御自身による御朗読の録音を以て全国民に向けて放送され周知徹底せしめられた、あの歴史的文書である。詔勅集成として最も大部であり校訂上の権威を有すると思はれる森清人撰の『みことのり』の中ではこれは「大東亞戰争終結の詔書」と題されてをり、それが正式の呼称なのかもしれないが、一般には「終戦の詔書」と呼ばれてゐる。他に取り違へる様な詔書は全く無いのだから、その簡単な呼び方でよいのだらう。〈朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク〉との一節で説き起され、要するに天皇御自身が帝国政府に対し、去る七月二十六日付米英支ソ四箇国共同のポツダム宣言を受諾して戦争終結の手続きに着手する様命じられた、といふことを全国民に布告せられた詔書を指していふのである。

 詔書は(此処に引用するまでもないと思ふが)この後の本文で、米英に対する抑々の宣戦の動機を回顧し、皇軍全將兵の善戦敢闘にも拘らず戦局は次第に不利となり、非命に斃れる国民の数と国土に受ける物的損害の増大、殊に原子爆弾の出現による非戦闘員の大量死傷の今後も測り知るべからざる惨害への憂慮を述べられる。そしてポツダム宣言受諾以後の正規の終戦手続の完遂までの前途の苦難の尋常ならざるを予想され、御自らも〈堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ〉平和恢復に向けて尽力する覚悟なのだから、といふことで国民の隠忍自重と志操の鞏固ならんことを求めてをられる。

 有体(ありてい)に言ふと、この詔書の中で明白なる事実として天皇が確言せられてゐるのは、ポツダム宣言の受諾と、従つてその宣言が求めてゐる降伏条件に天皇は同意してをられる――と、そこまでである。そこから後の話、〈萬世ノ為ニ太平ヲ開カム〉との御念願が、どの程度、又どの様な形で実現できるのか、それは全く未知数の事に属し、又〈朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ〉と仰せられてはゐるが、それに確たる保證はあるのか、〈總力ヲ將来ノ建設ニ傾ケ〉、又国民による〈國體ノ精華ヲ發揚〉するとの御嘱望も果して可能なことかどうか、全ては是天皇のひたすらなる御希望・御念願の中にあることであつて、詔書自体がそれを予言、況してや約束してゐるわけのものではない。

 右に暗示されてゐると筆者が読んだ終戦手続の完遂といふことにしても、それが具体的には講和条約の締結を意味することになるのはまあ国際法上の常識であるが、詔書の中に具体的に講和条約締結への御要請が言及されてゐるわけでもない。最も基本的な線にまで絞つて言ふとすれば、この詔書は、――四箇国共同宣言を受諾し、降伏要求に応ずる、武器を措け、戦闘行為を停止せよ、との御命令以上のものではない、と読むべきものである。

 ところがこれを「終戦の詔書」と呼び慣はすことによつて、この一片の詔書を以て戦争が「終つた」かの如き錯覚が国民の間に生じた。そして九月二日の停戦協定調印は詔書に窺ひ見られる所の「終戦」の敵味方相互間の確認であるかの如き重ねての氣楽な錯覚が此に続いた。そして実は甚だ苛酷なものであつた占領政策実施の期間を経て、昭和二十六年九月六日のサンフランシスコでの平和条約の調印、翌二十七年四月二十八日の条約発効の日付こそが眞の終戦の日であり、その時まで連合国による日本への追撃戦は続いてゐたのだ、その期間はまだ戦争中だつたのだといふ厳しい現実を認識できず、六年八箇月の軍事占領の期間を既に「戦後処理」の歳月であつたかの様に思ひ做してしまふといふ大きな誤りを多くの国民が冒したのだつた。「戦後」は昭和二十年九月に始まつたのだとするこの誤認の悪しき影響は甚だ広く又深くに及んでゐる。