「戦後史開封」天皇御巡幸
産経新聞連載再録(1995年8月8日から5回)※肩書、年齢等は当時のまま

 昭和天皇は終戦の翌年の昭和21年から29年にかけて全国を巡幸された。敗戦によるショック、虚脱状態にあった国民を慰め、励まされるための旅だった。全行程は3万3000キロ。東京、ロサンゼルス間を2往復する勘定になる。一日平均200キロの強行軍だった。国民はそれまで現人神(あらひとがみ)とされていた天皇の姿に直接触れ、国家再建の道を歩むことになる。

通りすぎるはずが突然お声を

 昭和21年2月19日、神奈川県川崎市の昭和電工川崎工場で農業用濃硫酸係をしていた安藤義雄(75)は、工場の正門で同僚約20人と整列し、頭を下げていた。

 昭和天皇はこの日、全国巡幸の第一歩として同工場を訪ねられた。食糧生産に不可欠の化学肥料を生産する工場だった。事務所は戦争で焼け、急ごしらえのテントで社長の森暁(故人)から説明を受けて視察を終え、帰ろうとしておられた。

 予定では正門は歩いて通り過ぎるだけだった。しかし、ハプニングが起きた。天皇が足を止められたのだ。

 「通り過ぎられたと思って顔を上げると、陛下と目が合いました」と安藤。天皇は安藤に話しかけられる。

 「何年勤めているか」

 「5年ちょっとです」

 「生活は苦しくないか」

 「何とかやっております」

 「あっそう。頑張ってください」。これが天皇と一般国民が声を交わした最初だった。

 「その日の朝、工場内放送で(巡幸を)知らされました。まさか、お声をかけていただくとは夢にも思いませんでした。目と目が合ったときは、どきどきしました。夢を見ているようだった」

 天皇はさらに進まれた。そして女子事務員の佐久間信子(73)にも声をかけられた。

 「何年勤めているのか」「生活はだいじょうぶですか」

 「“はい”と答えるだけで、もうドキドキして、ぼーっとしてよく覚えていません。負けたのだから仕方ないと思いましたが、MP(米軍憲兵)や見物の米兵が陛下の目の前を横切ったりして失礼ではないかと憤慨したのを覚えています」

 終戦から1カ月余りたった20年9月27日、天皇は連合国軍総司令部(GHQ)に最高司令官、マッカーサーを訪問された。その際、「わたしは失意と虚脱にあえぐ国民を慰め励ましたいので、日本全国を回りたい。しかし、一部に反対の声もあるのだが…」と申し出られた。マッカーサーは「遠慮なくでかけるべきです。それが民主主義というものです」と答えた。

 天皇はただちに宮内省(22年5月から宮内府、24年6月から宮内庁)の幹部に巡幸の準備を命じられた。

 旅立ちは背広にソフトの帽子、夏はカンカン帽といった軽装。隊列も鹵簿(ろぼ)と呼ばれた戦前の物々しさとは打って変わり、警護も当初はGHQが付けたMP二人だけだった。
 21年2月19日の最初のご巡幸は朝、皇居を車で出発。MPのジープが先導、宮内相、侍従長らがお供をした。

 昭和電工の工場では、天皇が説明を受けておられる間、待ち構えていた米兵が写真を撮るため、天皇のそでを引っ張ったり、小突いたりした。天皇は全く逆らわず、何ごともないような顔をして説明を聞かれた。

 午後は横浜に向かわれた。戦災者用のバラック住宅では被災者に「これでは寒いであろう」

「はい、大変寒うございます」

「あっそう」。

 天皇の「あっそう」はぎこちない印象を国民に与えたが、初めて庶民に接する天皇の精いっぱいの言葉であった。やがて「あっそう」は流行語になる。

 翌20日は横須賀市の浦賀引揚援護局を訪問になった。援護局内の引き揚げ者に声をおかけになり、17日にパラオ島から復員してきた宇都宮の歩兵第五十九連隊を中心とした将兵から復員報告を受けられた。

 五十九連隊は第一大隊がアンガウル島で玉砕、第二、第三大隊はパラオ島で終戦を迎えた。傷病兵は先に帰還したが、高崎の歩兵十五連隊の一部をふくむ550人はコロール島の清掃作業に従事、この日の復員となった。

 同連隊は終戦後も階級章をつけ、戦時中と同じように軍紀を保っていた。

 大尉で連隊副官代理をしていた深堀泰一(72)は「復員手続きが終わるまでは軍隊として行動した。階級章もそのまま、歩調をとって行進、週番肩章やラッパも持ち出して起床、点呼、食事、消灯などを実施した」という。

 援護局の担当者は当初、やめるよう要請したが、連隊長、江口八郎(故人)は拒否する。援護局側もその姿勢に次第に尊敬心を抱き、復員業務を1日遅らせて、巡幸される天皇に復員報告をするように勧めたのだった。

 宿舎に整列した将兵の前に天皇は進まれた。江口は挙手の礼をして上奏文を読み上げた。

 「臣、八郎、歩兵五十九連隊連隊長としてパラオ諸島に転進、祖国防衛の任に当たりました。将兵は困苦欠乏に耐え、団結して最後まで米英撃滅のため戦って参りましたが、股肱輔弼の任を全うすること能わず、ポツダム宣言を受諾せざるを得ない状況に立ち至りましたことは、誠に申し訳なく慚愧の至りであります」

 天皇は終始、沈痛な表情で聞かれ「あっそう」と相づちを打たれた。終わると兵の中を歩まれて声をかけられた。

 侍従のひとりが連隊副官のところに来て小声で「米英撃滅ということばは慎まれるように」と注意した。周りにはMPや進駐軍関係者、米国人記者などが多くいたからだ。

 江口のすぐ後ろに立っていた当時、中尉の橋本宏(75)=現栃木県南那須町長=は「陛下は軍服で来られると思っていたが背広だった。号令が“頭右”ではなく“最敬礼”だった。戦争は負け、軍隊はなくなったと実感した」と振り返る。

 海外から復員した約300万人のうち、天皇に直接、報告したのはこの部隊だけだった。

役場から「モンペ姿で農作業して」


 神奈川県下で昭和天皇の初の巡幸が行われて9日後の昭和21年2月28日午後、東京・新宿のデパート「伊勢丹」前に大勢の人々が集まりだした。天皇が巡幸の一環として伊勢丹で開催されている「平和産業転換展」をご覧になるということを知った人たちだった。

 東京への巡幸は当初、いちばん最初の2月14、16の両日が予定されていたが、一部新聞に漏れ、警備の都合から神奈川の後の28日と3月1日に変更されたいきさつがあった。

 28日にはまず日本橋の焼け跡を視察の後、小石川の被災者用バラックを回られ、早稲田・鶴巻小学校で授業を参観。午後、伊勢丹に回られた。

 天皇が伊勢丹を出られると取り囲んだ人たちから、「天皇陛下バンザイ」の絶叫が繰り返された。天皇は帽子を取ってお応えになり、車に乗ってからも手を振られた。

 政府関係者たちもこの時点までは、敗戦による国民の天皇に対する感情をつかみかねていた。だが、この光景を目の当たりにして、国民の天皇に対する尊敬心は戦前と大きな変化はないと胸をなで下ろし、以後、巡幸は予定通りスムーズに行われるようになる。

 翌3月1日は三多摩地区に足を運ばれ、八王子の都立第四高女(現南多摩高校)を視察になった。雨が降り、天皇は自ら傘をさされた。戦前では考えられなかったことである。

 学校は戦災で全焼したが、教職員、生徒が一丸となって自分たちの手だけで仮校舎を作り上げていた。校長の岩崎源兵衛(故人)がそのことを報告すると「よく建てられましたね」とねぎらい、生徒の間を回って「食料に困っていないか」「家は焼かれたか」などと聞かれた。

 4年生だった野尻(旧姓島田)和子(65)はこう覚えている。「長靴をはいておられました。“大変ですね”といわれて感激しました。口をきけるとは思っていなかったから、親しみを感じました」

 巡幸をめぐってケガ人も出る。3月25日、群馬県群馬町の堤ケ岡開墾場にお着きになったとき、堤ケ岡農業会会長、大沢半之丞(故人)を先頭に多くの農民が整列して待っていた。

 お車が到着して運転手がドアを開けたとたん、ドアが車のすぐ近くで最敬礼をしていた大沢の額を直撃してしまった。大沢は額から出血をしたが、めげずに直立不動を続け、天皇をお迎えした。

 驚いたのは天皇である。目の前に額から血を流した老人が立っている。視察を後回しにされ、「大丈夫か」とすぐに侍医を呼び、手当てを命じられた。

 後日、群馬県知事の北野重雄(故人)はお礼に皇居を訪れたが、侍従から天皇のお見舞いとして、大沢のための包帯、ガーゼ、脱脂綿などが贈られた。

 埼玉県埼玉村(現行田市)で農業をしていた新井(旧姓木村)ハル子(72)は、村役場の人から「天皇陛下が来られるから、かすりのモンペ姿で農作業をお見せするように」といわれた。3月20日ごろのことだった。今でいえば“やらせ”っぽい話だ。

 「辞退しましたよ。震えちゃう。勘弁してくださいってね。でも決まったことだからといわれて」

 天皇は群馬県から3月28日、埼玉県に入られた。新井は継母のヒデ(故人)とともに、農作業のふりをした。役場からは「手ぬぐいをして農作業をし、お車が着かれたら手ぬぐい取って腰に挟み、最敬礼をしてください。お声をかけられても返事をしないように」と言われていた。

 畑の周囲には何百人の歓迎の人がいた。後ろには小学校の児童も整列していた。

 「お車が着いたので最敬礼しましたが、怖くなって義母と二人で、逃げようかと言って後ずさりしたら、役場の人から『ダメダメ』と元の位置に連れ戻されました」と笑う。

 天皇は二人の前で「大変でしょうが、頑張ってください」とねぎらわれた。返事をしてはいけないといわれていたが、何も答えないのは失礼だと思って、新井はとっさに「ありがとうございます」と答えた。天皇が車に戻られて、二人は「もう大丈夫ね」と目配せして頭を上げた。

 10月22日は名古屋に着かれた。名古屋駅近くの歓迎はすさまじかった。群衆は天皇をもみくちゃにしてついに警護のMPが威嚇発砲する事態にまでなり、侍従の一人が財布をすられてしまう。天皇はそれを聞くと「ほう、そういうこともあるのか」と妙な感心の仕方をされた。

 22年8月には15日間にわたって東北をご巡幸になった。天皇の洋服がみすぼらしいため、侍従の入江相政(後に侍従長、故人)が「米国人も見ていますので」と背広の新調をすすめたところ、「米国は戦争に勝って裕福なんだからいい洋服を着ても当たり前である。日本は戦争に負けて(国民は)着るものにも不自由しているのだからいらぬ」と断られた。

 山形では初めて民間の旅館にお泊まりになった。それまでは列車内や知事公舎、県庁、公会堂、学校、地方の豪農宅などにお泊まりになっていた。学校などでは教室の板の間にゴザを敷き、そのうえに布団を敷いて、黒いカーテンをかけてお休みになった。初めての民間旅館、山形県上山市の「村尾旅館」では部屋に入られた後、「ちょっと、みんなの泊まる部屋を見て来るよ」といって侍従らが泊まる部屋を見て回り、「宿屋というものは人を泊めるのに実に具合よくできているね」と感心された。