涙でレンズが曇り撮れなかった写真


 栃木県岩舟町で石材店を経営する川島健三郎(七九)は県庁から昭和天皇の巡幸の公式記録写真の撮影を依頼された。天皇は那須の御用邸を宿舎に昭和22年9月4日から5日間、皇后(現皇太后)を伴われて栃木県内を回られた。

 川島は中学時代、体をこわしたとき、父から与えられたカメラが病みつきになり、撮影の腕は県下でも有数だった。しかも、プロのカメラマンでも手に入らないミノルタ・フレックスとドイツ・ツァイス社のスーパーシックスの2機種を持っていた。

 川島の最初の写真は天皇が那須から国鉄宇都宮駅にお着きになり、お車に乗り込まれるときのものとなるはずだった。

 「だめでした。周囲は歓迎の波。万歳の歓声に自然と涙が出て、レンズがくもってしまい、撮れませんでした。当時のカメラはピントを合わせるのが難しかったし、やはり、緊張したのですね」

 結局、お車の後ろ姿を撮るのがやっとだった。それもピントがずれてしまった。その写真は県が後に発行した「昭和二十二年栃木県御巡幸誌」ではお帰りの時の写真ということで掲載された。

 川島は陸軍幹部候補生出身の少尉だった。「(自分が軍人だったことを)意識したわけではないが、天皇は大元帥だったですからね」

 両陛下は宇都宮市内をご視察の後、県庁に立ち寄り、さらに市内の母子寮を訪ねられた。夫、父を戦争で失った31世帯が入居していた。

 どの部屋にも位はいが安置され、母子が正座してお迎えした。「随分つらいだろうが、辛抱してね」「お子さんたちを立派に育てるために、一生懸命頑張ってね」と励まされた。この後、子供たちの遊戯をごらんになった。終わって手を差し伸べる皇后に子供たちがすがった。「おばちゃんの服はきれいだね」「また来てね」というと、皇后は目頭を押さえながらほほ笑まれた。この時の様子を皇后は和歌に詠まれている。

 「われもまた手をさしのべてはぐくまむみよりすくなき引揚の子を」

 6日は真岡町の益子焼の絵付けをごらんになった後、日光市の古河電気工業日光電気精銅所に着かれた。ここで思わぬハプニングを川島は目撃する。

 工場を1時間かけてご視察になった後、労働組合幹部の席に進まれると、整列していた中から労組委員長が、突然、大きな声を上げた。

 「生産の向上と組合の発達を望む陛下のおぼしめしはありがたい。自分たちも努力するつもりである。労働者を激励する意味において、代表として自分に握手を賜りたい」と話し、右手を差し出したのだ。

 川島はびっくりした。しかし、内心では期待もあった。握手の写真が撮れれば特ダネになる。侍従長も知事も立ちすくんでいる。川島は天皇の横に回ってカメラを構えた。

 天皇はゆっくり口を開いた。「大変だろうが、一生懸命にやってください。握手の件は日本風にやりましょう」とカンカン帽を取られて会釈された。周囲から「ハァー」という安どのため息が漏れた。委員長は手を差し出したまま、ぼう然として天皇の後ろ姿を見送った。

 「特ダネ写真は逸しましたが、内心ほっとした。それよりも、天皇は決められたスケジュールに従ってお話しされているだけと思っていましたが、委員長へのとっさの返事を聞いて、自分の意思でお話をされていると痛感しました」と、畏敬の念が深まったという。

 巡幸取材では先回りするため、天皇の横を通り抜けたりすることもあったが、天皇はにこにこしておられた。また、お車や列車にお乗りの時はカメラを構えて待つが、シャッターを切るまで姿勢を崩されなかったという。

 「あのころは陛下がいかに国民の間に溶け込もうとしていたかがはっきり分かった。しかし、その後は菊のカーテンの中に戻られてしまった」と川島は回想する。

 新潟県にお出かけになったのは10月8日から5日間だった。その4日目は疲労も重なって公式の行事はなく、休養日に充てられた。高田村(現柏崎市)の豪農、飯塚家にお泊まりだったが、午前10時過ぎ、数人の側近とともに通称デコ山と呼ばれる山を散策になられた。

 その少し前、若い女性二人が山へ入って大きな声で鼻歌を歌いながらキノコを採っていた。幼なじみの宮島トミ(69)と今井スミ子(69)だ。下から人が登ってくる気配がした。

 案内していた写真館の主人が二人に「あんたら、ここに立っていてくれ。いま天皇陛下がおいでになるから」という。

 「やだー。逃げよう」

 だが、片方はがけ。道にはすでに天皇のお姿があり、侍従が追い付いて手を引き、「逃げたら失礼でしょう。道に出てかさを取ってください」。

 天皇は二人を見つけるとニコニコされながら「これは何ですか」と竹籠の中をのぞき込まれた。

 「ズボダケ」

 「あっそう。ではこれは」

 「ハツタケ」

 「いっぱい採ったね。気を付けてね」

 二人は深く礼をすると、山を下りた。

 「陛下に会ったときは足ががたがた震えました。でも、帰りは足が軽くなった感じ。物柔らかな、お優しい声でした。陛下が登って来られたときは、私たちが見下ろす格好になり、申し訳なく思いました」。宮島はいまもデコ山の近くに住み、思い出を大切にしている。

原爆孤児の少年僧に「声をかけたい」


 昭和22年12月7日、昭和天皇は被爆地、広島市に入られた。宮島口から市内に向かう途中、五日市で広島戦災児育成所に立ち寄られた。ここには家族を原爆で失った84人の孤児が天皇をお迎えした。その先頭の墨染の衣をまとった5人の少年僧が人目を引いた。

 最年少は小学生の朝倉義脩(60)=旧姓増田修三、現真宗大谷派大谷祖廟事務所長=だった。

 朝倉は20年4月、広島市内から8キロ離れた寺に学童疎開した。「8月6日朝、体操が終わってしばらくすると、広島市の方が光って、間もなくドーンというものすごい音がしました。夕方には焼けただれた避難民がやってきた」

 終戦。子供たちは迎えに来た家族や親せきに連れられ帰っていった。しかし、朝倉を迎えに来る者はだれもいない。父は前年に亡くなっていた。母と妹の住む自宅は爆心地に近く、絶望だった。

 「自分が最後の一人になってしまい、12月になって育成所に入ることになりました」

 育成所はこうした孤児を見かねた真宗本願寺派の僧侶、山下義信(故人、元参院議員)が私費を投じて開設した。

 子供たちは夜になると泣いた。「お父さんに会いたい。お母さんに会いたい」。中には「どうすれば会えるの」と涙をためて山下に詰め寄る年長の子供もあった。山下はさとした。「お経をあげれば会える。坊さんになって修行しなさい」

 朝倉らは21年11月に京都・西本願寺で得度して僧になった。新聞は「原爆少年僧」と呼んだ。この話を知った天皇が「広島市に入る前にぜひ声をかけたい」と立ち寄られたのだった。

 天皇は整列する子供たちの前に進まれた。山下が原爆で頭髪が抜けた子供を抱えるようにして天皇にお見せした。天皇はその子の頭をなで、目頭を押さえられた。さらに少年僧らを「しっかり勉強して頑張ってください」と激励された。側近や多くの報道関係者がいたが、水を打ったように静まり返った。

 「陛下に励まされたわけですから、正しい道を歩まなくては、と思ってやってきました」と朝倉は振り返る。

 朝倉らの後ろに、朝倉とともに得度した今田義泰(60)の弟、荒木恒雄(五八)がいた。荒木は「ほかの人が会えない人に会えたんだ、という自負心が生まれた。ここまでやってこれたのは多くの人のおかげ。少しでも恩返しできればと思っています」という。荒木は高校を出た後、産経新聞の配達などをしながら大学を卒業、かつての育成所近くの精神薄弱者施設、「見真学園」の指導員をしている。

 天皇は広島市内に入り、約七万人が集まった護国神社跡地の歓迎場にお着きになった。平和の鐘が鳴り響き、君が代の合唱の中、お立ち台に上がられた。市民からは万歳の声が上がった。正面には原爆ドームが見えた。天皇は終戦以来初めてマイクで直接市民に語りかけられた。

 「広島は特別な災害を受けて誠に気の毒に思う。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、世界平和に貢献しなければならない」
皇居・千鳥ケ淵のサクラ
 この様子を見て恐怖心を抱いた米国人がいた。“目付け役”として随行していたケントというGHQの民政局員である。侍従としてお供していた徳川義寛(89)=後に侍従長=も「ケントという変な男がついてきてあれこれ探っていた」と証言。広島の会場をそれまでの「奉迎場」から「歓迎場」と名称を改めさせたのもケントらだった。

 「昭和天皇の御巡幸」(鈴木正男著)によると、「原爆が投下された広島市民は天皇を恨んでいなければならないとケントは思った。しかし、市民は熱狂して天皇を迎え、涙を流して万歳を叫ぶ。天皇制廃止論者のケントは怖くなった。このままご巡幸を続けてると、天皇制はますます確固不動になる。ご巡幸をやめさせねばならないとケントは考えた」。

 民政局は巡幸の中止を政府に働きかけることにする。問題にしたのが、日の丸事件である。GHQは占領以来、日の丸の掲揚を禁止していたが、巡幸の先々で日の丸が振られた。民政局はその都度、宮内府に抗議した。宮内府は「国民が日の丸を振ることを禁止する権限は宮内府にはない」とかわしていたが、GHQは納得せず、宮内府の責任だと強硬姿勢に出た。

 後の東宮大夫、当時、侍従の鈴木菊男(89)も「民政局はご巡幸で天皇の権威が復活するのを恐れていた」と証言する。

 21年2月に始まった巡幸は22年末までに関東、関西の一部、東北、北陸、中部、中国をめぐり、順調にいけば23年中には終わる予定だった。

 だが、22年12月、中国地方の巡幸が終わると、GHQは政府に宮内府の機構改革と首脳の更迭を指示。当時芦田内閣は何の抵抗もなく従った。この結果、宮内府長官、侍従長、宮内府次長の3人が辞職。巡幸は中止となった。

 九州、四国を中心に全国からGHQ、政府、宮内府に巡幸復活の嘆願書が寄せられた。鈴木、徳川によれば「陛下も直接、マッカーサーに復活を願われた」という。

 供奉員を削減するなど一層簡素化して、巡幸が復活するのは24年5月になってからである。

 東西冷戦が顕在化し、米国としても日本を自由主義国家として確保する必要が高まり、GHQ内でも巡幸反対の民政局の勢力が衰え、冷戦担当のG2(情報二部)が力を得るようになっていた。