「戦後史開封」昭和天皇崩御
産経新聞連載再録(1995年12月26日から5回)※肩書、年齢等は当時のまま

 昭和64年1月7日、「昭和」という時代が終わった。戦後だけでも43年余りにわたって在位された昭和天皇を抜きにして、日本人の戦後史はあり得ないだろう。ご病気に倒れられてから崩御されるまで、関係者ばかりでなく、国民一人ひとりがさまざまな思いの中にあった。

手術かどうか、分かれた議論


 「天命に従い天寿を全うしていただくのが自然であると思う。手術には賛成できない」

 元侍医長の西野重孝(故人)は、穏やかな口調ながらも、ひとり明確に異議を唱えた。

 昭和62年9月14日。宮内庁三階の侍医室でひそかにもたれた拡大侍医会議には西野のほか、侍医長の高木顕(故人)ら侍医団4人、前侍医長の星川光正(80)が顔をそろえ、険しい表情でテーブルを囲む。

 昭和天皇はかつて背中に腫(は)れ物ができ、膿(うみ)を出す簡単な切開手術をお受けになったことはある。だが、今論議されているような外科手術を受けた歴代天皇はいない。「玉体にメスを入れるべきではない」との信念にも似た西野の思いを、高木らも理解できないではなかった。

 しかし、手元にある2枚のレントゲン写真は、昭和天皇の体に起こっている“異変”を鮮明に写し出している。前日、宮内庁病院で行われた検査で、腹部を撮影したものだ。

 1枚目は、バリウムの白い影が十二指腸の末端で止まり、その先の小腸には流れ込んでいない。昭和天皇のおなかをもみ、再度撮影された2枚目の写真では、バリウムが小腸へ通っているものの、極めて少量で、細いひも状になっている。十二指腸の末端から小腸の入り口にかけて通過障害があった。腸閉塞(へいそく)である。

 「昭和天皇は非常に摂生に気をつけていらした。お年より10歳は若いお体だった」

 星川が語る昭和天皇のお体に“異変”の兆しが現れたのは、5カ月ほど前のことだ。

 4月29日の天皇誕生日、86歳をお迎えになった昭和天皇は祝宴の席で食べ物をもどされた。当時、侍医長だった星川は「それまでにもカゼをひかれたときにお吐きになることがあり、脈などを拝見しましたが、一過性のものと判断した」と言う。しかし、8月に入り再びおう吐を繰り返される。

 腸閉塞を放置しておけば食べ物も通らず、栄養の吸収が不十分で体力は衰えるばかりだ。だが最大の問題は、腸閉塞をもたらしている原因が何か、ということにあった。星川はこう打ち明ける。

 「原因は難しいんだが、まず膵臓(すいぞう)がんだろうと。腸閉塞の部位からいって、膵臓が肥大し十二指腸を圧迫している可能性が高い。悪性のものであることは間違いなかった。しかし、膵臓がんの根治手術というのは大手術なんです。できないことはないが、陛下のお年などを考えると、お命の方が危ない」

 高木は「根治手術をするつもりはない。しかし、お食事ができるように腸のバイパス手術を行う必要がある」と主張、西野以外はこの方針に同意した。

 意見が分かれたため、高木と西野の二人は、侍従長の徳川義寛(89)らに最終判断を仰ぎ、結果は高木の主張が通る。4日後、徳川と高木は御前に出て、病状を説明し、手術のご了解を得た。昭和天皇はひとこと「そうか」とだけお答えになった。

 執刀医は、東大医学部第一外科教授の森岡恭彦(65)=現日赤医療センター院長=に決まる。第一外科出身の星川が後輩に白羽の矢を立てたのだった。そして森岡、麻酔医の東大教授、沼田克雄(65)=現自治医大教授=ら6人による「東大医療チーム」が編成される。

 森岡は「文芸春秋」の62年12月号で、当時の複雑な心境を次のように表現している。

 「『誤ればお家は断絶、切腹もの』であるといった、やや時代劇的な雑音が耳に入ってくる。しかし、やるべき手術は、ごく簡単な腸管の吻合(ふんごう)手術であり、どうも術前の緊張感にもチグハグさを感じるし、またいろいろと意識すればするほど、頭がおかしくなりそうでもある。努めて冷静に対処すべきであると理性はもの申すわけである」

 9月22日午前11時55分、宮内庁病院の一室で手術が始まる。

 手術に先立ち、森岡と沼田は昭和天皇に初めてお目にかかり「このたびはご苦労である」とのおことばをいただいていた。沼田は長野県立飯山中学3年の時、終戦の玉音放送に耳を傾けた。「それこそ神の声を聞く思いだった」という沼田の頭には、「陛下のお体の中は普通の人とは違うのではないか」との考えがよぎる。

 2時間35分。昭和天皇は手術に耐えられた。手術では膵臓の一部などから組織を採取し、東大医学部の病理学教室に回される。

 森岡や沼田が、術後の合併症に神経をとがらせているころ、病理学教室の教授、浦野順文(故人)は顕微鏡をのぞき込んでいた。一部の組織標本に、がん細胞がある。浦野自身この年の4月に自分が肝臓がんであることを知らされていた。浦野は直ちに結果を高木に報告する。

 だがそれから4日後、高木が記者会見で発表した病理検査の結果は「がん組織を認めない。慢性膵炎の像と考えられる」というものだ。高木は生前に残した著書「昭和天皇最後の百十一日」の中で、こう書いている。
皇居のシンボル・二重橋
 「私の信念は、ガンを告知することはしない。まして、それが陛下のお耳に入ったりしては、具合が悪い。だから、ひた隠しに隠すということでした」

 ただ、高木も皇太子殿下(現天皇陛下)にだけは、がんであることを知らせている。

 「ガン組織を全部取り除くことは、陛下のご体力からしても無理で、放射線療法や抗ガン剤など副作用のある治療法は、採用したくないと考えます」

 皇太子殿下は黙って高木の話に耳を傾けられていた。

 昭和天皇は、手術から16日目の10月7日に退院される。久しぶり吹上御所でとられた夕食には月見団子が添えられた。中秋の名月だった。


年賀状の発売中止も検討した郵政省

 東京・霞が関にある郵政省三階の事務次官室で秘密会議が開かれた。昭和63年9月末の夜のことだった。事務次官の奥山雄材(64)=第二電電社長=をはじめ、郵務局長、田代功(61)=東京放送常務=、官房長、松野春樹(58)=事務次官=らが頭を抱えていた。11月5日に発売予定の昭和64年の年賀状の取り扱いをめぐってだった。

 前年9月に手術を受けられた昭和天皇は19日夜、大量の吐血をされた。この日以来、連日マスコミでご容体が大きく報じられ、皇居にはご快癒を祈る記帳の長い列ができていた。こんな時に年賀状を発売していいものかどうか。

 「大正天皇の時はどうだったのかな」。奥山が聞いた。大正15年12月25日、大正天皇が崩御された。この時代、まだ年賀状はなかったが、元旦に配達する年賀取り扱いは実施していた。27日に逓信省は年賀取り扱いを中止、差出人一人ひとりに返却するかどうかを尋ね、希望者には返却した。その数は3億通に上った。

 「ですが、いまはとてもそんなことはできません。時代が違うし、年賀状も30億通を超えます」。田代は悲痛な顔をした。年賀状は郵政省の現業部門の収入の一割を超える。簡単に発売を中止できるような状況ではない。

 年賀状は毎年8月に発売数を決め、民間の印刷会社に委託する。前年の天皇の手術で昭和63年の年賀状は売れ残りが出た。今年は大丈夫だろうと、前年より1億枚増やすことにしたばかりだ。奥山が決断した。「年賀状は国民に定着している。国民がご快癒を祈っているのに発売しないのは不自然。陛下も年賀状をやめることはご本意ではないでしょう。1割減らして予定通り発売しよう」

 11月5日発売の日が来た。最初の一週間は例年の7割しか売れなかった。だが、12月中旬には様子をみていた人々が買いだし、年内に98%が売れた。

 「もし、発売後に崩御ということになれば、スタンプで新元号を押して配達することにした。返却を希望する人がいたら、可能な限り応じようと決めた。無事、新年を迎えたときは陛下に感謝しました」。田代はそう振り返る。

 昭和天皇のご病気で自粛ムードが高まる中、10月2日から開催される予定の東京の「大銀座まつり」が中止になった。43年に政府主催の明治100年記念式典の一環として始まった銀座きってのイベント。実行委員会を組織する銀座通連合会の事務局長、石丸雄司(60)は「銀座は皇居のおひざ元。ご用達業者も多い。陛下に特別の親近感を持っており『自粛するのが銀座の見識』という声が幹部の一致した意見だった」と説明する。

 中止決定後、石丸は外国メディアから「圧力があったのではないか」と取材攻勢を受けた。「親が病気のときにはしゃぐ子供はいない」。だが「理解してはもらえなかった」。

 江戸時代から続く佐賀県唐津市の「唐津くんち」。11月2日夜から始まった巡行の指揮をとる唐津曳山(やま)取締会の総取締、瀬戸利一(76)は直前に県警の公安担当刑事から警告を受けた。「行列から外れないように。さもないと、身の安全は保障できない」

 自粛ムードの中でくんちを強行したからだった。曳山を持つ14カ町は当初「中止」が大勢だった。しかし、10月3日夜、唐津神社に招集された取締会総会で、瀬戸はこう言った。「くんちをやるのもご快癒祈願。右へならえして自粛するのではなく、唐津っ子の意気を示してはどうか」。2日後の氏子総代会で「実施」が決定された。

 瀬戸の自宅の電話は鳴り通しだった。「非国民」「殺すぞ」。抗議の手紙も何百通と届いた。瀬戸は振り返る。「放火を危惧(ぐ)して、水を入れたプラスチックのタンクを用意した。期間中に崩御されたら、喪章を付けてでも曳山を引く計画だった」

 唐津くんちの実施が決定された直後の10月8日、皇太子殿下(現天皇陛下)は「陛下のお心にそわないのではないかと心配している」と、自粛の広がりに憂慮の念を示された。

 マスコミ各社の報道は過熱していた。

 皇居の主要な門や侍医長宅前には連日、東京本社のほか、地方支局から増員された若手記者が「張り番」として、24時間態勢で張り付けられた。

 入社1年目の産経新聞東京本社写真部記者、篠崎理(32)=現横浜総局=は皇居に出入りする皇族らの写真を片っ端から撮影した。遠巻きに、走り去る車中の人物を車の窓ガラス越しに撮る「透かし撮り」と呼ばれる手法は、大発光量のフラッシュと一瞬のシャッターチャンスが決め手とされ、当時の報道写真では一般化されていなかった。

 篠崎は言う。「撮っても撮っても紙面に載らず、記者になったことを自問する日々。唯一の成果は透かし撮りの練習だった」。いつしか「透かしのシノちゃん」と呼ばれるようになり、その後、拘置所前など被疑者の護送現場にはきまって出されるようになった。

 岡山総局から東京に増員された深堀明彦(34)=現大阪本社文化部=は9月19日、天皇が吐血された日に新婚旅行から帰国した。その足で東京へ。以来3カ月半にわたる“新婚別居”生活が始まった。

 「下着の洗濯は、実家に帰った妻と宅配便でやり取りした。連絡用に持たされた携帯電話で張り番先から妻に電話するのが日課だった」


 現在社会部宮内庁詰めの記者、菊池一郎(34)も張り番の一人だった。「門の前で群れをなしてボーッと座りこんでいる僕たち報道陣に外国人観光客が物珍しそうにカメラを向けた。あれほど惨めだったことはない」