著者 一大学生(東京都)

 「憲法」は英語で”Constitution”であり、これは「国体」をも意味する。憲法はその国の最高法規であるとともに、国柄を表すものでもある。大日本帝国憲法においては、告文や憲法発布勅語の中で、神武天皇より代々受け継がれてきた皇位を継承し、伝統文化を保持すること、歴代天皇が常に臣民と共に国を作り上げてきたことなどが記されており、天皇を中心とする日本のあり方が示されていた。

 一方、現在の日本国憲法の前文には何が記されているか。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」することを堂々と謳っている。世界には平和を愛する心優しい人や国しか存在しないと信じるのは勝手だが、そんな曖昧なものに「われらの安全と生存」まで委ねてしまうのは看過できない。現に日本はテロの恐怖を味わったばかりであり、その脅威は今もなお拭いきれない。また、中国の習近平国家主席は「中華民族の偉大な復興」を標榜しており、防衛費を年々増大させ、南シナ海では基地建設を始めている。これは明らかに覇権主義であり、この事例を考えるだけでも、現行憲法の前文がいかに非現実的なものであるかが理解できる。そのような現状も踏まえた上で、他力本願な幻想じみた前文は廃し、自立した国としての日本のあり方を明確に記すべきである。

 昨年7月、集団的自衛権の限定的な行使容認の閣議決定が行われた。これを機に、各種報道で憲法9条に関する話題が大きく取り上げられるようになったと感じている。的外れな批判も多いが、まずは9条に対する問題意識を国民が共有しなければならない。

 そもそも現憲法制定当時は、個別的自衛権すら認めないという解釈であった。解釈はその時々によって変化してきたが、そういった流れを無視して昨年の閣議決定だけを抜き取り、立憲主義の否定だと大騒ぎするのは不思議である。

しかし、解釈改憲だけで済ませて良い問題ではないことも確かだ。時の政権のさじ加減で解釈の変更を行い、ある時は集団的自衛権を認め、ある時は認めない、といった状態になれば、国際的な信用を著しく損ない、私たち国民も安心して暮らすことができなくなる。最終的には憲法改正によって9条が抱える矛盾を解消し、自分の国は自分で守るという当たり前のことを記す必要がある。

 日本が戦後70年間平和の歩みを続けてきたのは、9条があったからだと豪語する人がいるが、それは明らかに見当違いである。日本が平和国家として続いてきたのは日米同盟、在日米軍という抑止力が働いていたからに他ならない。フィリピンから米軍が撤退した後に中国が南シナ海へと進出したこと、イラクから米軍が撤退した後にテロ組織が跋扈するようになったことなどを考えれば、米軍の影響力が如何ほどのものかは自明である。アメリカの庇護の下で平和を享受している現実には目もくれず、9条の理念を信奉し続け、平和国家だと胸を張っている姿はあまりにも滑稽に映る。そんな態度は内輪でしか通用しない。

 日本国憲法が制定された時、日本はGHQの占領下にあり、主権を持っていなかった。主権を持たない国が憲法を制定することなどできず、この憲法の正当性はあまりにも脆弱である。現実離れした条文を含み、正当性すら危うい憲法は一刻も早く改正されるべきである。主権を回復した現在、再び日本人の手によって日本の憲法を作り上げなければ、真に独立した国家とはなりえない。戦後に目覚ましい復興を遂げ、経済大国へと成長した日本だが、国柄すら明記されていない憲法をいつまでも大切に抱え込んでいては、精神的な成熟を見込むことはできない。
 
衆院の向大野新治事務総長(右)に、選挙権年齢を18歳以上に引き下げる公選法改正案を提出する自民党の船田元・憲法改正推進本部長=3月5日
 以上、僭越ながら憲法に対する拙い私見を述べたが、憲法問題で最も危惧していることは、国民の間でこの問題意識が十分に共有されているか、ということである。早ければ来年の参院選から、選挙権付与の対象が18歳以上に引き下げられる見通しだが、今の若者は政治に無関心な層がほとんどである。憲法問題などのテーマで話し合う雰囲気はほとんど無く、ファッションやドラマ、誰かのゴシップなどの話題が大半を占める。学生の身である私自身、日本の根幹に関わる重要な問題を共有し、話し合える友人は片手で数えるほどしかいない。また、昨年の12月に行われた衆院選での投票率が戦後最低を記録したことからも、国民の政治に対する無関心さが読みとれる。これでは議論を交わすことすら難しい。

 だが、国民の無関心さを憂いてばかりもいられない。ある野党の党首は、総理は憲法を軽視しており、現政権下で議論をすること自体が危うい、といった趣旨の発言をしており、議論を拒否する姿勢を見せている。これでは一体何のために立候補したのか甚だ疑問である。有権者に選ばれたからには、そういった問題に対する論議を重ねて国を導くことこそが責務ではないのか。総理の憲法観が危険だと感じているのなら尚のこと、与党を牽制するような議論を行い、野党としての存在感を高めるべきである。

 憲法問題の是非を論ずる前に、有権者も議員も責任を自覚しなければならない。特に新しく選挙権を得る世代への教育は肝心である。問題を論じるための土俵づくりを疎かにしてしまっては、日本が変わることはできない。戦後70年という節目を機に、憲法問題が広く共有され、活発に議論が交わされることを期待したい。