別冊正論23号「総復習『日韓併合』」(日工ムック)より

呉善花(評論家・拓殖大学教授)


反日行為を担う「代償的擬似健常者」


 東日本大震災直後の3月末、韓国では「竹島は日本の領土」と明記した日本の教科書が検定合格したことに強く反発、義捐金募集活動を中止し、全額を返還したり、独島守護団体や慰安婦支援団体への寄付に振り向けたりする自治体が続出した。

 同年9月のAFCチャンピオンズリーグでは、韓国チーム全北現代の応援スタンドに「日本の大地震をお祝いします」と日本語で書いた横断幕が掲げられた。また2013年8月にはKBS2のテレビ番組で、お笑いタレントが「旭日旗を振った日本の応援団に体にいい福島産さくらんぼを送った」と揶揄し、これを東亜日報など各紙が「よくぞいった」とばかりの評価で報じた。

 「その神経を疑う」といった報道が諸国に見られた。韓国人の反日行為は常軌を逸している。こうした非文明性、異常性は世界的な「不可思議」の一つにまでなった。だが彼らは明らかに文明生活を送っており、反日行為は病者ならぬ正真正銘の健常者たちによるものだ。だからこそ「不可思議」なのである。

 精神医学者の中井久夫氏は、精神障害というものは、自らの破滅を防ぎ、生き残るための知恵だという観点を示している(「治療文化論―精神医学的再構築の試み」)。私もこの観点を強く支持したい。その上で私が問題としたいのは、これも中井氏の観点の一つなのだが、正常・健常者といわれる人のなかには、病気からほど遠い余裕のある人だけではなく、「他者に依存したり他者や社会を攻撃すること」によって自らの精神衛生を維持している人、中井氏のいう「代償的擬似健常者」が多数いるということである。

 「代償的擬似健常者」による常軌を逸した人類最悪の行為が、中世ヨーロッパの魔女狩りやナチスのホロコーストなどだろう。「代償的擬似健常者」が「他者に依存したり他者や社会を攻撃すること」を一挙に極端化していくと、こうした大虐殺が引き起こされることにまで至る。

 常軌を逸しているとしかいえない場合の韓国人の反日行為は、大挙して群なす「代償的擬似健常者」によるものと考えればいい。彼らは韓国人に特徴的な心の病に陥った人たちと同じように、韓国人に特有の苦悩やコンプレックスを抱えている。

 しかし彼らは、病者のように自らを苛(さいな)むのではなく、他者を苛むのだ。彼らは、他者への依存や他者への攻撃によって、自らの精神的危機を回避しようとする。そこで彼らの反日行為は、病者が示す病像ときわめて近似していく。彼らの反日行為が、非文明性、異常性をもって現れる最大の理由がここにある。
韓国人は〝魔女狩り〟ならずともすぐに火をつける。日本の首相の靖國神社参拝に抗議して日の丸に(右、AP)竹島問題に抗議して日本の教科書の写真や日の丸に(中、ロイター)米国産牛肉輸入問題で警察のバスに(左、同)
 以上のことを前提に、日本人をはじめ外国人には容易に理解できないと感じられている韓国人(韓民族)の反日行為の心理、情緒、精神のあり方の特異性を、韓国人に特徴的な心の病を通して照らし出してみたい。その前に、韓国人との一定の比較という意味から、十分なものではないが、日本人に起きやすいとされる心の病と日本人の性格的な特徴の関係について、一つの事例から簡単に眺めておきたい。

日本人とメランコリー


 日本人に起きやすい心の病の代表的なものに「内因性単極性鬱(うつ)病(メランコリー)」がある。「内因性単極性鬱病」は、とくに日本人に顕著に見られるものだが、誰にも起き得るものではなく、ある特定の性格の人に限って発生率が高いことが知られている。
日本人はまじめゆえにメランコリーが
起きやすい…

 特定の性格とは「メランコリー親和型」と呼ばれる性格で、ドイツの精神科医テレンバッハが1960年代に理論化したものである。テレンバッハは「内因性単極性鬱病」にかかった人の性格的な特徴として「几帳面、仕事熱心、堅実、清潔、権威と秩序の尊重、保守的、律儀」を挙げている(木村敏訳「メランコリー・改訂増補版」)。

 これはまさしく日本人によくある性格だといってよいだろう。最近亡くなられた経営学者の大野正和氏も、日本人の「働き過ぎ」に関連するとして次のように述べている。

「日本人に多いのは、前うつ病性格(うつ気質)であるメランコリー親和性だ。真面目で几帳面、責任感が強く他人に気を遣う。この性格は、日本の職場では優秀な労働者の象徴である」(「過労死と日本の仕事」ブログ「『草食系』のための日本的経営論」)。

 精神科医芝伸太郎氏は、この「メランコリー親和型性格はそのまま日本人一般の性格特徴(を極端にしたもの)に他ならない」と述べ、テレンバッハらとは別に「日本人だからこそわかる」視点から、とても興味深い独自の理論を打ち立た(「日本人という鬱病」1999年)。

 芝氏の理論は「お金理論」といわれるもので、概略、次のようなものである。律儀な性格の日本人の多くは、人から借りたものは必ず返さなくてはならないと考える。物品であれ、精神的な好意であれ、地位や名誉を与えられた場合であれ、まるで精神的な貸借対照表があるかのように、「借りたら返す」という原則を貫こうとする。

 ちょっとしたミスを犯しても、必ず相手や社会に埋め合わせができるだけの良き行ないをしなくてはならないと考える―。

 こういう性格の人は、社会に出ると「決して借りをつくるまい」と一生懸命になる。会社では人並み以上に働き、他人に対しては執拗に「お世話」をしようとし、昇進をしようものならさらに時間を無視してまで働こうとする。中年になって高い役職に就いた途端にこの種の鬱病を患う人が、日本人には多いそうである。

 こういう人は、家庭生活にもとても生真面目に向かう。ミスをすれば、その挽回を思って、ミスのために会社や相手が失ったもの以上のものを生み出そうと盛んに努力を重ねる。

 そこでは、あらゆる人間関係があたかもお金のやり取りであるかのようになっていると芝氏はいう。もちろんそれは、「姑息な金銭勘定の意識」とはまったく異なるもので、逆に「金銭勘定を無視して」がんばってしまうのだ。

 そうすることで、自分が自分であることを保つことができている。こういう極端な性格の人は、そのままではいつかはやっていけなくなる。心身ともに疲れてしまうし、何をやっても不十分だと感じられていく。そこで、「自分はだめな人間だ」「だらしない」と深刻に悩み、やがてはメランコリー状態に陥って鬱病を発現するまでなってしまう。これが芝氏の「お金理論」である。

 芝氏のいう「お金と同じように人間関係を考える」というのは、物事についての「借りる・貸す」の関係を、それぞれの関係のあり方の個別的な性格を無視し、何でもかんでも普遍的に向き合ってしまっていることを意味している。確かに、日本人にはそうした性格的な傾向をもつ人が多いといえるだろう。