渡辺利夫(拓殖大学総長)
 否定したい、できれば消し去ってしまいたい過去を抱えもつ人間は少なくなかろう。しかし、そういうわけにはいかない。現在は過去の蓄積のうえにしか存在しないのだから。過去とは、つまりは宿命である。国家や民族とて同様であろう。国家や民族の歴史は栄光と汚辱こもごも紡いで引き継がれる。誇らしい過去ばかりに支えられて現在がある、というほど歴史は単線的ではない。栄光の歴史は引き受けるが汚辱の過去は否定してしまおうというのは、ただの傲慢である。

近代法の原則を簡単に放棄


 「過去史清算」とか「歴史清算」という表現をたやすく使う国が隣にある。2005年12月、盧武鉉政権下の韓国において「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」が成立した。日本統治時代、その統治に協力した指導者の「反民族行為」の真相を糾明(きゅうめい)し、それが罪過(ざいか)と認定されれば、子孫の財産を没収して国家の帰属とするための法律である。韓国の政治家の法感覚は一驚に値しよう。近代法における法律不遡及(そきゅう)の原則(事後法の禁止)は、ここではいとも簡単に放棄されている。「罪千歳に及ぶ」という中世の法感覚というべきか。

 韓国には「正しい歴史」と「間違った歴史」というものがあって、前者の中に生きていくためには後者を抹消しなければならないと考えられているようだ。11年8月の「元従軍慰安婦の個人請求権放棄は違憲」とする大法院判決、13年7月に相次いだ新日鉄住金や三菱重工の元徴用工に対する賠償金支払いに関する高等法院判決などの背後にあるのは、同類の法感覚であろう。

 過去史清算や歴史清算の多くが日本の統治時代を対象としており、中国やロシアとの関係史にこれが向けられることはない。一体、どうしてか。李朝の成立以来、朝鮮の支配者の脳細胞の中に埋め込まれた民族的遺伝子のなせるわざなのであろう。14世紀末に成立した李氏朝鮮は、往時の中華王朝・明の忠実な臣下として生きる道を選択した。国号も王位も明による命に服し、喪礼(もれい)、祭祀(さいし)など冠婚葬祭の礼式のすべてが中華のそれに擬して執り行われた。中華より中華的たることをもって誇りとし、「大明国之東屏」と称して中華文明を守護することが朝鮮王朝の任務だと自認したのである。

 しかし、17世紀の中葉に満族によって明が倒され、征服王朝としての清が成立して、朝鮮の中華に対する崇敬の念は鬱屈へと変じた。「蛮夷(ばんい)」満族によって樹立された清には服属し難い。さりとて小国朝鮮にはこの巨大王朝に抗(あらが)う力はない。そこで表面的には清の臣下として事(つか)えながらも、心の深層においては中華の伝統を正しく継承するのは清ではなく、「東方礼儀之国」たる朝鮮のみだとする考え方が次第に強化されていった。前者を事大主義と呼び、後者を小中華主義と称する。

 朝鮮の小中華主義思想の中枢に位置していたものは、人間社会は儒教の思想と礼式(礼教)により教化され、初めてまっとうすると考える朱子学である。これが原理主義となって朝鮮社会を染め上げた。礼教に無縁な日本人は文字通りの蛮夷である。礼教を原理とする典雅なる朝鮮王朝を蛮夷の日本が侵略し、あまつさえ朝鮮を日本に「併合」することなど道義において許されるはずがない。道義に違背する過去はそのことごとくを糾弾・否定しなければならない。

韓国の方こそ未来あるのか


 ここでは道義が近代法や国際条約に優先する。先の大法院や高等法院の判決がそのことを端的に物語る。国際条約とは1965年の日韓基本条約のことである。それに伴う協定で国家賠償はもとより個人賠償までが「完全かつ最終的に解決」されているのである。道義を近代法と国際条約の上位観念とする国家が近代主権国家といえるか。道義を国是とする専制国家への道を韓国は歩もうというのか。「反日の法令化」を進めて韓国は中世への逆行を始めたのか。

 現在の韓国人にはいかにも悔しかろうが、日本の韓国併合は諸列強によって幾重にも承認され、往時の国際法に則(のっと)って合法的に実現されたものである。朝鮮の「文明開化」は日本との「合邦」によって実現するより他に方途なしとする「一進会」に集(つど)った人々は、朝鮮統監府の資料によれば14万人、実際には数十万人に及んだといわれ、朝鮮史上最大の政治集団であった。日本統治下にあって朝鮮の人的・物的・制度的インフラが、王朝時代には信じられない速度で整備され、後の「漢江の奇跡」を呼びさます誘因となった。このことについては、韓国の真摯(しんし)なる研究者の実証研究が少なくない。

 「歴史を顧みない国家に未来はない」と朴槿恵大統領は言うのだが、この問いかけが何より自国民に対してなされるのでなければ、韓国は今後とも「仮想空間」の中を漂いつづけ、日本との和解も叶(かな)うまい。従軍慰安婦問題などという虚構を国事と見違える国家にこそ、未来はないのであろう。


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