笠井智一(元大日本帝国海軍上等飛行兵曹)
聞き手:井上和彦(ジャーナリスト)

予科練に志願


井上 笠井さんは、航空自衛隊などでもその大東亜戦争における熾烈を極めた空中戦の体験談などをご講演されておられますが、実戦経験のない航空自衛隊のパイロットにとってはたいへん貴重な戦訓となっております。

 まずは、笠井さんが予科練に志願された動機からお聞かせ願えますか。

笠井 私は中学校3年修了で、海軍の甲種飛行予科練習生に志願しました。予科練は職業軍人でもなんでもありません。志願兵です。

 中学2年のとき、中学校の先輩である海軍兵学校出身の小谷大尉という方が学校へやって来て、全校生徒に「制空権と制海権」という題目で話をされました。支那事変の際、九六式陸上攻撃機(双発の爆撃機)に乗って、南京の渡洋爆撃に行かれた話を聞き、私は子供心に「これから日本は陸軍も大切だが、まず飛行機だ」という感覚を持ちました。そして1年後の試験に幸い合格し、予科練に入ったのであります。

井上 昭和17年4月、土浦航空隊に入隊されたわけですが、そのときのご心境はいかがでしたか。

笠井 「予科練というても、なんじゃ、こんなジョンベラ(水兵服)着て教育されるんか」と思いました。まあ、ジョンベラから「七つボタン」の制服に変わったときは、「かっこのええ服やなあ」と思いました(笑)。しかし、かっこのええ服は外出のときだけで、皆、作業服で訓練を受けますので、七つボタンがどうこうという感覚はあまりありませんでした。

井上 17年5月、九三式水練に初搭乗されたときの写真が残っていますが、最初は水上機で訓練されていたんですか?

笠井 土浦には陸上の飛行場がありません。霞ヶ浦の湖の岸辺に予科練がありまして、そこにある飛行機は全部水上機でした。予科練に入って2カ月目ぐらいで、初めて飛行機に乗りました。「へえー、飛行機ってこんな格好か」と感心しましたね。だって今と違って、当時は飛行機に乗るようなことは滅多にありませんからね。

 最初は飛行機の操縦などできるはずがありません。教官が離水と着水をやってくれて上空で私が操縦桿を握るのですが、筑波山の方を向いて飛んでいると、後席の教官から「筑波山ヨーソロー」という号令がかかる。「ヨーソローって何かいなあ」と全然分からない(笑)。後で聞いたら、「筑波山に向かってまっすぐ行け! おまえたちが戦地へ出たら、敵に向かってまっすぐに行け!」ということだと。

 それで、教官に宙返りや垂直旋回をしてもらいました。最初の飛行は15分か20分ぐらいの飛行だったかと思いますが。そのとき「おお、よくぞ男に生まれける」、飛行機に乗ったときの気持ちは、本当にもう飛ぶ鳥を落とす勢いのごとくうれしかったですね。

井上 予科練の1年間で体力養成と勉強、そして海軍精神を徹底的にたたき込まれ、そののち、いよいよ操縦訓練に入ります。

笠井 昭和18年5月に予科練を修了し、北海道の千歳航空隊に移動して、飛行練習生として正式に飛行機の訓練教程に入りました。九三式中間練習機、通称「赤とんぼ」で基礎的な離着陸訓練から特殊飛行と呼ばれる宙返りや垂直旋回まで、あらゆる操縦訓練を受けました。普通ならば1年間の課程を、戦局逼迫により同年11月には繰り上げ卒業。卒業前に「おい、おまえは戦闘機へ行け」「おまえは艦上攻撃機」「おまえは艦上爆撃機」と機種の選定があって、私は戦闘機の分類に入れていただきました。

井上 飛行練習生教程を卒業後、延長教育で徳島航空隊へ行かれたということですね。

笠井 そこでは、「おい、貴様たちはこれから実戦機で訓練するんだぞ」と告げられました。こっちは練習機の「赤とんぼ」しか乗ったことがない。飛行場へ行ったら、飛行機がたくさん並んでいて、教官の顔を見たら、怖い教官ばっかり! おまけにその教官らは太く大きなこん棒を持ってましてね、「あんなこん棒でドツかれたら死んでしまうなあ」と思いましたよ(笑)。そりゃ厳しい訓練の毎日でした。「今度あの教官と一緒に飛ぶときは、自分で海に突っ込んで死んだろかいな」と何回も思ったほどです。しかし、「待て待て、われわれの先輩は皆この教育を受けて、そしてハワイ、マレー沖、ラバウル、あっちのほうでものすごく戦果を上げとるやないか。俺たちもできんことない。弱音を吐いてどうするんじゃ!」と自分で自分に言い聞かせて頑張りました。
笠井智一さんはゼロ戦の後、紫電改のパイロットとなる。
手にしている模型は笠井さんが搭乗していた機体番号の
紫電改。パイロットは笠井さんがモデルだ

井上
 そこで、まず笠井さんが乗られた戦闘機が九六式艦上戦闘機でした。この戦闘機は脚(着陸装置)が外に出たままの固定脚機で、しかもキャノピー(風防)は開いたままになっています。この旧式戦闘機九六艦戦のあとで笠井さんは零式艦上戦闘機で訓練されたわけですね。

笠井 九六式は脚が出ていても、赤とんぼよりスピードが速い。そしてフラップ(高揚力装置)を下げなければならない。次に零式艦上戦闘機に乗せられたら、フラップを下げ、脚を引っ込めてスピード、高度を考えなければいかん。赤とんぼとは操縦感覚が全然違います。

 それに訓練したからといって、そう簡単に技量が上がるものではありません。教官から何回も殴られながら、「先輩に負けたらいかん、追い付け、追い越せ」という気持ちで零戦二一型に乗せてもらいました。

 そんなこんなで零戦に乗ったわけですが、零戦という戦闘機は、慣れたらこれほど操縦しやすい飛行機はありません。スピードはだいたい時速530キロ前後です。米軍のグラマンF6Fヘルキャットは時速約600キロ以上でしたから、これには及びませんでした。

井上 この零戦二一型と、靖国神社の遊就館にもある五二型との違いを笠井さんにお聞きしました。初期の零戦二一型は、エンジンの排気管が集合排気管で、機体下部についていたので静かだったが、零戦五二型は、単排気管となってカウリングの横から並んで出ているので排気音が大きく、エンジンが回っていると機上整備員と会話ができなかったそうです。

「豹部隊」に配属


井上 本来なら半年から1年かけて行われる零戦による延長訓練も、わずか20日間で修了しました。当時、いかに戦闘機搭乗員の消耗が激しかったかがうかがえます。

 昭和18年11月、笠井さんは第一航空艦隊隷下の第二六三航空隊に配属されます。通称「豹部隊」。絶対国防圏防衛の主力として18年10月に松山基地に新編された海軍航空隊の虎の子部隊です。ここで出会ったのが、撃墜王・杉田庄一一等飛行兵曹(最終撃墜数百二十機)ですね。

笠井 杉田兵曹はラバウル航空隊の歴戦の勇士で、ブーゲンビル上空における連合艦隊司令長官・山本五十六大将(戦死後、元帥に昇進)搭乗機の護衛戦闘機6機のうちの1機でした。私は昭和19年4月に着任した杉田兵曹の列機になって、彼が戦死するまで一緒に戦いました。杉田兵曹は非常に空中戦が上手で、部下を殺さず、部下が敵の弾でやらないように空戦技術を伝授してくれた、そういう人でした。

井上 「とにかく俺に付いてこい」「絶対に編隊を崩すな」「絶対に深追いをするな」と、この三つを教え込まれたということですね。

笠井 私がまだ新米の頃、杉田兵曹はよく出撃前に、「おい、笠井! 貴様はきょう、どんな空戦をするか知っとるか!」と言うんです。それで私が「わかりません!」と答えると杉田兵曹は、「よっし! それでいいんだ!」という。意味がわからないので私が「なぜでありますか?」と聞くと、杉田兵曹は「おまえらはまだ敵機と空中戦をするほどの技量はない。おまえたちはただ俺に付いてこい。俺についてきたら、絶対敵に勝つ。その代わり俺が弾をダダーッと撃ったら、おまえは敵機を見なくてもかまわんからとにかく弾を撃て」と言うんです。それで杉田兵曹が敵機を墜として基地に帰投すると、杉田兵曹は「よーし、今日の空戦では、おまえも弾を撃ったのだから、墜とした敵機は“協同撃墜”だ!」と豪快に言い放って、戦果をおすそ分けしてくれたんです。

 そして杉田兵曹は、常に「絶対編隊を離れるな!」と口酸っぱく言っておられました。

 昭和20年4月12日、沖縄方面攻撃に行ったときのことです。沖縄から北上してくる敵機と、喜界島の上空で空中戦になりました。あのとき、私は一番機(杉田兵曹)の教えを忘れて、編隊を離れてしまったんです。しかし空中戦で敵2機を撃破して煙を噴かしました。それで「よっしゃ! やったぞ!」と鹿屋基地に帰還しました。

 そして「笠井上飛曹、帰りました。2機撃墜!」と報告したら、杉田兵曹が「おい笠井、おまえ、もう一度言ってみろ!」と言うので、私は「2機撃墜です!」と答えました。すると杉田兵曹が「バカ者! おまえは、敵機が海へ墜ちるか、山へぶつかるとこを確認したのか!」と怒鳴られたんです。あわてて私が「いえ、確認しておりません!」と答えるや、杉田兵曹は「それは撃墜じゃない! それは不確実だ!」と。ということでこのときの空戦の戦果は「不確実撃墜」となったのですが、そのときのことは今も記録に残っております。

井上 この部分は、後年の本土防空戦争の話になりまして、ヘンリー境田さんがまとめた『源田の剣』で、「二機撃墜を召し上げられてしまった」というやりとりが生々しく記されております。