珊瑚海海戦は史上初の空母同士の決戦として知られる。日本側は井上成美中将指揮の空母3、巡洋艦9、駆逐艦13、上陸部隊を乗せた輸送船6など総勢51隻。連合軍側はフレッチャー少将指揮の空母2、巡洋艦8、駆逐艦13など23隻が出動したが、実際は互いに敵の艦影を見ず空母の搭載機だけの戦闘に終始した。

 戦いは、昭和17年5月6日、ツラギのガブツ基地を離水して哨戒飛行に出た山口清三飛行兵曹長指揮の九七式大艇が、基地の南南西750キロの上空から「敵発見!」の第一報を打電してきたことから始まった。当時、日本はラバウル、連合軍はポートモレスビーから互いに連日の空襲合戦を演じており、目の上のたんこぶ、ポートモレスビー攻略が目下の急務になっていた。そのためいち早くツラギに水上機部隊を進出させて索敵圏を広げたことが功を奏した。

 送信した井元正章二等飛行兵曹は、この連載の「日記から」に二度ほど登場した。鹿児島県の種子島生まれで上京後、府立の名門六中(現新宿高)に学び、三年のとき少年航空兵を志願した。成績が良く、「志願兵では下士官どまり。卒業して海軍兵学校を受けたら…」と勧める試験官に、「それより早く軍人になりたい」と答えた好漢だった。

 井元二飛曹は同年8月、23歳の若さでソロモン上空に散華するが、敵発見時の模様は遺稿になった日記「碧空を往く」(潮書房)に生々しく語られる。「午前八時十分、敵らしき艦隊を発見。よく見ると、戦艦の艦型がどうやら違うように思われる。(中略)そのうち航空母艦が一隻見えた。まぎれもなく敵サラトガ型(実際は同型の姉妹艦レキシントン)と思われる。味方ではないと小生は断言した。(中略)敵の隊形は重巡二、戦艦一、空母一で駆逐艦五の前衛を配し、間隔約五百m」と、視力2・0、総飛行2000時間を超えるベテランだけに、実際は参加していなかった戦艦を除けばまず完ぺきな偵察だった。

 このあと九七式大艇は敵艦隊に付かず離れず4時間の触接を続ける。それまで空母を発見して触接した艇はほとんどが迎撃してきたグラマンに撃墜されていた。十人の搭乗員にしてみれば、勇気のいる命がけの偵察飛行だった。

 敵発見の一報は、ソロモン諸島の南端を回って珊瑚海に入ったばかりのMO(ポートモレスビー)機動部隊にも届いたが、残念ながら距離が遠く艦載機の攻撃圏外。決戦は翌日に持ち越された。
 米海軍はこのころから日本海軍の暗号解読に成功しており、MO攻略部隊の出撃の日取りも的確に把握していた。6日、レキシントンとヨークタウンの攻撃機はジョマード水道に直進、攻略部隊護衛の軽空母祥鳳を撃沈した。これに対し日本側は、索敵機が空母と誤認した給油艦ネオショーに殺到、これを大破させ、駆逐艦シムスを撃沈したにとどまった。

 7日、日米双方ともほぼ同時に敵発見、互いに攻撃をかけ合った。ここでまた勇士が生まれる。索敵に出た空母翔鶴の九七艦攻(菅野兼蔵飛行兵曹長、後藤継男一等飛行兵曹、岸田清次郎同搭乗)が、発見した敵空母と触接しながら12通の適切な電報を打ち続け、帰途味方の攻撃隊に出会うと反転して、これを敵艦隊の上空まで誘導したのだ。その最期の模様は不明だが、燃料切れ覚悟の上での決死の行動だった。

 この攻撃でレキシントン撃沈、ヨークタウンも大破して戦線を離脱した。攻撃を指揮した翔鶴飛行隊長高橋赫一少佐は真珠湾攻撃にも参加、インド洋では英空母ハーミスを撃沈したベテランだったが、攻撃終了後も戦果確認のため長く上空にとどまり未帰還になった。恐らく敵戦闘機に撃墜されたのであろう。最後の電報は「サラトガ撃沈ハ取消、マテ」だった。事実、レキシントンは被爆後、漏れて気化したガソリンに引火して数回の大爆発を起こしたがなかなか沈まず、最後に米軍が駆逐艦の魚雷で処分したのは攻撃の九時間後だった。

 また翔鶴上空の援護で弾を撃ち尽くした零戦の一機が、爆弾を投下しようとする敵機に体当たりして撃墜するシーンも見られた。このように、戦争末期に“特攻”が始まるはるか前から、死を恐れず自己犠牲の精神で国のために戦った数多くの勇士たちがあったことを忘れてはならないだろう。

 大本営は8日、「空母サラトガ、ヨークタウン、戦艦カリフォルニアを轟撃沈、英戦艦一、重巡一大破」とかなりオーバーな戦果を発表した。確かにこちらは軽空母1損失、正規空母翔鶴も大破したが僚艦瑞鶴は搭載機34に半減したものの無傷だった。これに対し、相手は正規空母1損失、1大破で機動部隊としての戦闘力を喪失、南方へ退却したから勝った海戦だったといえる。しかし戦略的にみて、この海戦の結果、主目的のポートモレスビー攻略作戦を断念せざるを得なかった点では負けだった。

 瀬戸内海にあった戦艦大和の連合艦隊司令部では、早めにMO作戦を断念した第四艦隊司令部への非難ごうごうだった。参謀長の宇垣纏少将は、「第四艦隊は祥鳳一艦の損失に依り全く敗戦思想に陥れり。戦果の拡大残敵の殲滅を計らざるべからずと(第四艦隊の)参謀長宛迫る」(戦藻録)と記した。

 敵が退却した情勢をつかめなかったといえばそれまでだが、第一線の指揮官が、「見敵必戦」の決断に欠けるとすべてがむだになる。しかし時すでに遅し、多くの将兵たちの敢闘もむなしくポートモレスビー攻略のチャンスは永遠に失われた。 (編集委員 牧野弘道)

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