【消えた日本人 再発見の旅】※肩書、年齢等は当時のまま

敗戦国民を叱咤した大日章旗

 昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃により戦端が開かれた「太平洋戦争」は、やがて苦戦続きとなる。大空に憧れて海軍の「甲種飛行予科練習生」に合格しながら、物資欠乏などのため、飛べなかった人々がいる。今年は戦後60年。虚脱感を抱えながらも、生きぬいて日本復興に努力した元予科練生たちを訪ねた。

かつて学び舎に軍艦旗が翻っていた

 平成元(1989)年秋、創立百周年を迎えた「関西学院」(兵庫県西宮市)では校舎が次々と新築され、一連の記念式典が開催された。それに先立ち関係者を集め「高校校舎お別れ会」が大講堂で開かれた。荘厳なミサ、賛美歌…。粛々と進む式典だったが、あまりそぐわない一団の参加で、違和感を覚えた出席者も少なくなかった。熟年男性60人が旧日本海軍の略帽姿で、軍艦旗まで捧げていたからだ。

 旗とともに「西宮海軍航空隊会」の会員数人が壇上へ。すわ、時代錯誤の大演説が始まるのか? 会場が緊張感に包まれる中、隣接の芦屋市でコンビニ店を経営する山村喜一郎会長(77)が口を開いた。戦前、関学には西宮海軍航空隊の基地がおかれ、消えゆく校舎は兵舎と化した。

 「じつは私たちもここの卒業生です。厳しい訓練を受け、多くが特攻隊に志願しました。兵舎を出る日、桜の花びらを胸ポケットに入れ、別れを惜しんだのです。どうか皆さん、二度と学び舎に軍艦旗が翻ることのないよう、平和を守る努力を続けてください。日本人を生かすも殺すも、先生、あなたたちの口先次第ですよ」

 平和を願う重い言葉は万雷の拍手を呼び、一団は握手攻めとなった。山村さんはグライダーのライセンスを持ち昭和19年、芦屋中学から16歳で海軍の「甲種飛行予科練習生」の第14期に合格した。約1200人が関学の西宮海軍航空隊に入隊した。「入営当夜、いきなりバットで尻を叩かれた。以後、連日連夜…」

 特攻隊に志願。山口県柳井市の柳井潜水学校分校で特殊潜航艇「海龍」の訓練を受けている20年8月15日、終戦を迎えた。海龍は爆薬を積み、敵船にぶつかる特攻兵器。母に持たされた慈母観音の小像が心の支えだった。「復員して真っ先に関学を訪れ、無事に帰れたことを感謝しました」



 旗にまつわる思い出がもう一つ。山村さんは21年から10年間、六甲山系の一角、「城山」(鷹尾山、標高263メートル)の掲揚台に日章旗を掲げ続ける運動の中心として活躍した。戦後、芦屋市の廣瀬勝代さんが芦屋市婦人会を結成。まず復員兵にお茶を振る舞うサービスを開始した。次に、全国の各婦人会に「日の丸掲揚運動」を呼びかけた。敗戦に打ちひしがれた日本人に誇りを取り戻してもらいたい。まず女性側からの呼び掛けだった。

 真っ先に呼応したのが、地元芦屋の連合青年会。山村さんが先陣を切り、21年春、畳十二畳分もある巨大な国旗を折り畳み、リュックに入れて城山にあがった。午前8時、旗が翻った。以後、青年会員がローテーションを組み、雨の日も雪の日も掲揚し続けた。

 阪急神戸線だけでなく国鉄(現・JR)、阪神電車からも日の丸は見えた。「いや、遠く離れた西宮市の甲子園球場からも見えました」。そのうち、「元気づけられました。どなたが掲げておられるのか」と新聞に投書が載った。「日本人として生きる支えになる」、「日の丸は本当に美しい」という感想をよく聞いたが、新聞はあまり取り上げなかった。「そんな時代だったのでしょう」

 しかし、占領軍は見逃さなかった。神戸市内からMPが軍用車で到着。山村さんは連行されてしまった。「何の目論見(もくろみ)なのか?」、「この予科練崩れめ」と厳しい追及が続いた。だが、廣瀬さんが駆けつけ、連れ戻してくれたという。今夏、芦屋市内で、「市民とともに考える平和展」が開かれ、旗が展示された。「すぐに破れるので、三代目かな? 雨の日は死ぬほど重かった」

 山村さんは現在、「芦屋川カレッジ きらめき会」の会長として会員80人と生涯学習に邁進している。車いすを押し、交通安全運動を行ったり。鍛えぬいた体があればこそだ。じつは復員後、芦屋中学の野球部でコーチ兼マネジャーになった。

 芦屋中学は、昭和21年、5年ぶりに再開された第二十八回「全国中等学校優勝野球大会」(夏の甲子園)に、勝ち進み兵庫県代表に輝いた。甲子園球場は接収されており、大会は阪急西宮スタジアム(すでに取り壊された)で行われた。「闇市(やみいち)で進駐軍のグラブ、ボールを調達。神戸市東灘区の小学校を借りて合宿しました。やはり平和はいいし、スポーツもよろしい」

白球で立ち直った「予科練崩れ」

 この戦後初の「全国中等学校優勝野球大会」で、決勝に進んだのは浪華商業(大阪代表)と京都二中(京都代表)。浪商は平古場投手の力投で深紅の優勝旗を手にした。あれから45年目の平成3年7月11日、西宮球場に当時のOBたちが集い対抗戦を行った。と言うより「オール大阪対オール京都」の戦後球児が参集し大イベントとなった。京都二中OBの中川和雄・大阪府知事(当時)の始球式で、「プレーボール」。
予科練の訓練風景
 対抗戦の企画者の一人、大阪府豊中市、元会社社長、伊勢田達也さん(77)は大阪・八尾中学出身。左利きのセカンドとして活躍した。藤井寺球場で行われた大阪予選の準決勝で敗れ、3位決定戦(当時存在した)に臨んだ。しかし九回表、後方に上がったフライを追って、センターと交錯し失神。特別仕立ての近鉄電車で病院に運ばれた。

 「道を歩けば、『特攻崩れ』と呼ばれたり、『お前はどこの舎弟や』と質問されたりで、正直、何もかも嫌になっていたが、私は野球で救われたんです」

 昭和19年秋、15歳で甲種飛行予科練習生の15期に合格した。愛媛県の「松山海軍航空隊」に配属されたが、やがて予科練教育は中止された。伊勢田さんは、今やユニークな御当地ラーメン「鍋焼きラーメン」で売り出し中の高知県須崎市に送られ、入り組んだ海岸線でひたすら塹壕(ざんごう)を掘っているうち、終戦を迎えた。さすが土佐は酒処だ。十日後、町の女性たちが焼酎を携えて「さあさあ陽気にやろうやー」と押しかけて来た。酒盛りが始まり、戦争の終わりを実感したという。

 復員後は虚脱感に襲われていたが、歴史の先生から復学と野球部への入部を勧められ、伊勢田さんは、気力を取り戻した。慶応大学に進み、家業の「オーサカゴム」の経営に携わった。その傍ら、『八尾高野球部史』、『物語 八尾高野球部』などを出版した。八尾中学は昭和4、5、6、7年と4年連続センバツ出場した強豪だったからだ。

 62年、戦後復活球児の仲間たちと「大阪戦後野球懇親会」を設立。30校150人が参加した。また予科連の同期者たちと「松空十五期会」を結成した。

 ある日、「松空十五期会」の来賓、「全国甲飛会」の大西貞明会長(当時)と言葉を交わす機会を得た。甲飛会は旧予科練の存命者を糾合して設立された。大西さんは京都市出身。第三期で主に偵察で活躍。四回、墜落し、太平洋を漂流した経験をもつ。戦後も実業家であり、数々の要職を歴任したが、15年、逝去した。

 「伊勢田君、生き残った我々には死んで行った者が言いたかったことを後世に伝えるつとめがある」。語り部としての大切さを懇々と説かれた。それから丸3年間を費やし平成13年8月15日、『翔(と)べなかった予科練生』(あすなろ社刊)を出した。



 伊勢田さんの松山海軍航空隊は戦闘基地と隣接し、戦闘機「紫電改」が何十機も活動していた。飯は良かった。麦飯一日6合半。イワシが多く、肉も出た。「毎日、罰直で殴られてばかりだが、うまい飯と相殺かな」と納得させたそうだ。

 19年3月19日、「本日課業ナシ。朝食後急イデ防空壕へ避難セヨ」と指令が出た。間もなく米空軍の大編隊グラマン四百機が襲来。「三四三空(航空隊)」別名剱(つるぎ)部隊の紫電改54機が迎え撃ち、空中戦となった。合計57機を撃墜、日本側の自爆、大破はわずかだったという。

 眼前に展開する壮絶な戦いに「勝った勝った」と喜んだが、五月四日、B29の爆撃で基地は壊滅した。伊勢田さんも九死に一生を得た。

 著作には、事実以外は書いていないと自負している。「野球で言えば記録員のように」と自己を律したそうだ。「私は明治維新から60年目に生まれた。戊辰戦争も日露戦争もついこの間の戦争だったわけです。戦後六十年。第二次世界大戦もやはりついこの間の戦争だったわけだが、多くはその実態を忘れ果ててしまっている。事実を正確に伝えないとね。海軍をそのまま肯定する気にはなれないが…」

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